信長&濃姫の結婚へと向かわせた加納口の戦い
天文十六年(1547年)9月22日、尾張の戦国大名・織田信秀が、美濃の斎藤道三の居城・稲葉山城を攻めた加納口の戦いがありました。
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天文十一年(1542年)、美濃(岐阜県)の斎藤道三は、主君であり美濃の守護であった土岐頼芸(ときよりあき)を追放し、美濃一国を手中に収めます(4月20日参照>>)。
ご存知、『国盗り物語』でお馴染み・・・上記の4月20日のページでは、この物語は、実際には、親子2代の話であろうという事を書かせてはいただきましたが、どこまで真実かはともかく、一介の油売りから一国一城の主へと出世する道三のお話は、豊臣秀吉の『太閤記』と並んで、戦国・下克上の代表格に挙げられる出世物語です。
そんな美濃との境界線を争って、度々、抗争をくりかえしていたのが、隣国・尾張(愛知県・西部)の戦国大名・織田信秀・・・あの織田信長のお父さんです。
信秀は、すでに天文十三年(1544年)9月にも、美濃へと進攻していましたが、戦略に優れた道三に翻弄され、撤退を余儀なくさせられていました(9月23日参照>>)。
しかし、それでも美濃への進攻をあきらめない信秀・・・やがて天文十五年(1546年)頃からは、越前(福井県)の戦国大名・朝倉氏の助力を得る事に成功するとともに、先に道三に追放された土岐氏の旧臣や残党たちも織田軍に加わるようになり、一時は美濃大垣城を落すなど、徐々に道三を苦しめるようになっていきます。
そして、翌・天文十六年(1547年)の9月初め、さらに多くの土岐氏の残党を加え、その勢いに勝機を感じた信秀は、いよいよ、本格的に美濃攻略を開始したのです。
天文十六年(1547年)9月22日・・・道三の居城・稲葉山城下への放火を開始した織田軍・・・火は、またたく間に城下に燃え広がり、城下町は陥落寸前となります。
しかし、さすがに道三が築いた難攻不落の稲葉山城・・・城自体はちょっとやそっと落せるもんじゃありませんから、とりあえず本日の成果に満足した織田軍は、夜になって一旦、野営地へ戻ろう兵の引き揚げを開始します。
その時を攻撃のチャンスと狙っていた道三・・・すかさず、付近に潜伏していた兵が、撤収する織田軍に奇襲を仕掛けたのです。
不意を襲われた織田軍は、一瞬にして大混乱となり、われ先に城外へ逃げようと、加納口へと殺到します。
なおも攻撃を続ける道三は、信秀軍を荒田川へと追い詰め、ある者は討死し、ある者は逃げ場を失って川で溺れ・・・信秀は、この河岸で多くの兵を亡くしてしまいます。
この時の織田軍の兵力は、一説には1万とも言われ、この荒田川での死者は、そのうちの半数・・・5千に及んだと言われています。
弟の信康や清洲三奉行の一人・織田稲葉守達広をはじめとする副将クラスの武将も多数命を落とし、まさに壊滅状態となった織田軍・・・信秀自身も、やっとの事で命からがら尾張へ逃げ帰るという状況でした。
この加納口の戦いで、大敗を喫した信秀は、ここで方針を転換・・・道三との同盟を決意します。
この同盟締結に尽力したのが、家老・平手政秀・・・その同盟の証しが、信秀の息子・信長と、道三の娘・濃姫との結婚(2月24日参照>>)だったわけです。
尾張と美濃の同盟関係は、道三が息子・斉藤義龍に討たれるまで続き、道三が亡くなった途端、信長は、『義父の弔い合戦』と称して、美濃への進攻を開始する事になります(8月15日参照>>)。
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コメント
どもw
元:宗兼 彩です!!
ちょっとしたショボイ分けで名前変えました☆
これからも宜しくお願いします~+.゚(*´∀`)b゚+.゚
投稿: 黒蝶 佐吉 | 2008年9月22日 (月) 19時43分
どうも・・
宗兼彩さん改め黒蝶佐吉さん、お久しぶりです。
改名のご挨拶ありがとうございました。
実は、私も、某コミュニティサイトと二つのハンドルネームを持っていて、一つにしようかと思案中です。
こーゆーのって、なかなか悩みますね~。
投稿: 茶々 | 2008年9月22日 (月) 22時48分