落城寸前・大垣城~「おあむ物語」戦国女性の生き様
慶長五年(1600年)9月17日、3日前の15日から、東軍の攻撃を受けていた美濃大垣城で、二の丸・三の丸が開城されました。
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慶長五年(1600年)9月15日の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)・・・名だたる有名どころが決戦したという事で、どうしても関ヶ原ばかりが注目されますが、この同じ15日、西軍に属していた大垣城にも同時に、東軍の攻撃が開始されていたのです。
関ヶ原の合戦の前日のページ(9月14日参照>>)に書かせていただいたように、開戦前に、この大垣城を前線本部としていた石田三成は、大垣城での籠城戦をやめて、関ヶ原での野戦を決意し、娘婿の福原長堯(ながたか・直高)に、備えの兵を預け、残りの全軍を率いて、関ヶ原に向かいました。
一方、三成が大垣城を出た事を確認した徳川家康は、籠城戦にならなかった事を密かに喜びながら、押さえの兵を大垣城に残し、主力部隊とともに関ヶ原へ向かいます。
かくして、大垣城に残った将兵たち・・・大垣城への攻撃は、関ヶ原の開戦より早く、15日の夜明けとともに開始されました。
守る西軍は、本丸に長堯・熊谷直盛(くまがいなおもり)、二の丸に垣見一直(かきみかずなお=家純)・木村由信(よしのぶ)・相良長毎(さがらながつね・頼房)、三の丸に秋月種長(たねなが)・高橋元種(もとたね)以下7千5百の兵・・・。
攻める東軍は、水野勝成(かつなり)・堀尾忠氏(ただうじ)・西尾光教(みつのり)ら1万5千・・・。
とかく、籠城戦というのは、籠る側は1にも2にも防戦・・・攻める側は長期も視野に入れての心理作戦で迫るのが定番です。
東軍は、大砲のような石火矢(いしびのや)を用意し、それを射掛ける時は、城の近くまで寄ってきて、大きな声で「今から撃つぞ!」と脅しをかけまくってから射掛け、一斉に撃ったかと思うと、シ~ンと止み、しばらくしてまた、一斉に撃ってくる・・・
鉄砲も同じで、撃つ時は一斉に撃って・・・何度も何度もそのような攻撃が繰り返されるのですが、この時、まず、矢おもてに立たされたのが三の丸でした。
防戦一方で落城寸前の三の丸・・・やがて、関ヶ原での西軍の敗戦と三成逃亡の知らせが舞い込み、城内が動揺する中、「もはやこれまで」と感じた秋月ら三の丸の筆頭は、水野勝成に和睦を申し入れる事に・・・
そして、合戦勃発から2日後の慶長五年(1600年)9月17日、三の丸の彼らは、二の丸に籠る垣見と木村、そして熊谷を殺害して、二の丸と三の丸を開城してしまうのです。
長堯だけは、寸前のところで彼らの寝返りを知り、なんとか暗殺を免れて、本丸の籠城をさらに続けます。
その後も、昼夜を問わず、忘れた頃に仕掛けられる一斉射撃・・・大きな地響きとともに櫓が揺れ、身を縮めんばかりにうずくまっていると、急に音がしなくなりシ~ンと・・・静まり返った城内には、今度は、誰のものともわからないうめき声や泣き声・・・
「もう、ダメか・・・」と、落胆しているところへ、城外から兵士が戻り、「敵は去った」と慰める・・・しかし、その直後にまたしても鉄砲の乱れ撃ち・・・
もう、気が変になりそうな状況です。
しかし、そんな状況でもたくましく生き抜くのは、城内にいた女性たち・・・そう、一般的に戦場は男の世界ですが、それが籠城となると、そこには多くの女・子供がいるのです。
やがて、籠城も何日か経つと、あれほど怖かった一斉狙撃も、「またかいな」という程度にしかならなくなり、女性たちは、天守に集まっては、一所懸命に鉄砲玉を鋳造します。
その横では、味方が取ってきた敵兵の首を並べて、一つ一つに名札をつけて、キレイに洗い、なるべく身分の高い武将に見えるようお歯黒やお化粧をほどこします。
夜になれば、その生首が転がりまくった横で、平気で眠れるようにもなりました。
・・・って、なんで、こんなにもくわしく大垣城内の様子がわかるのか?
実は、落城寸前の大垣城から脱出し、この時の様子を子供たちに語り継いだ女性がいるのです。
彼女の名前はおあむ(おあん)・・・三成の家臣だった山田去暦(きょれき)という武将の娘で、関ヶ原の合戦当時は16歳前後。
(昨年書いた【関ヶ原の合戦・大反省会】でアシスタントをしてもらった女性ですww・・・反省会を見る>>)
徳川の時代まで生きた彼女は、近所の子供たちを集めては、昔の話をするのが大好きなおばあちゃんだったのです。
もちろん、語っただけでは後世まで残るのは難しいですが、彼女の昔語りを聞き、書きとめた人がいるのです。
書いた人の名前はわかりませんが、その筆録者のつけ書きによれば・・・
「正徳の此(ころ)は予すでに孫共を集て此物語をして・・・」とあるところから、正徳年間(1711年~16年)か、そのすぐ後に書きとめられたようです。
彼女の語ったお話は・・・
「子どもあつまりて、おあん様、むかし物がたりなされませといへば、おれが親父(しんぷ)は、山田去暦というて、石田治部少輔殿(いしだぢぶせふどの)に奉公し、あふみのひこ根に居られたが、そのゝち、治部(ぢぶ)どの御謀反の時、美濃の国おほ垣のしろへこもりて・・・」
という書き出しではじまる『おあむ(おあん)物語』として後世に伝えられました。
実は、彼女の父・去暦が、以前、家康の家庭教師をやっていた事があり、籠城中の大垣城に矢文(やぶみ)が届けられ、「城を出る気があるなら助けてやろう」という知らせがあったのです。
彼女ら一家は、すでにこの籠城戦で、14歳の弟を亡くしたあとでしたが、母が妊娠中という事もあり、塀をはしごで越え、石垣から縄をつたい、船が無かったためにたらいで堀を渡り、密かに城から脱出したのです。
何百メートルか歩いたところで、母親のお腹が痛み出し、その場で女の子を出産・・・その後、一家寄り添うように落ちのびていったのです。
おあむたちが脱出した後も、結局、一週間経っても落城しなかった大垣城・・・早く決着をつけたい家康が、城兵の助命を条件に降伏するよう勧告したところ、長堯がそれを受け入れ、9月23日に本丸が開城されました。
その後、長堯は剃髪して伊勢朝熊山(あさまやま)にて、家康の許しを待っていましたが、やはり三成の娘婿という関係の濃さから切腹を命じられ、10月2日に自害しました。
おあむさんのおかげで、戦火にさらされた城内にいる女性たちの細かな様子が、現代の私たちにも伝えられる事となって、歴史好きとしてはうれしいのですが、何となく、自分たち一家だけ脱出って・・・て、ちょっと・・・思ったりもします。
しかし、考えてみれば、この関ヶ原の合戦が、家康が天下を手中に納める天下分け目の戦いだとわかるのは、この後の歴史を知ってる私たちだからこそ・・・この時点では、まだ関ヶ原の合戦は、豊臣家の内紛で、なりゆきで東と西に分かれてしまったものの、どちらも豊臣家の家臣なわけで、三成や加藤清正やといった自分の意志がはっきりと決まっていた人以外は、皆、悩みに悩み抜いていたはずです。
現に、真田や前田のように二股かけてたんじゃないの?って人もいるわけですからね。
おあむさんのお父さんの去暦さんも、三の丸で寝返った彼らも、上司の都合で、そうなったものの、内心は悩んでいた人たちなのかも知れません。
おかげで、戦国の女性たちの生き様が垣間見えた・・・という事でヨシとしましょう。
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コメント
こんばんは。
一斉射撃の轟音に脅かされたり、死傷する城兵の手当てに負われたり、敵兵の生首を処理したり・・・。籠城する側の人間はどんなに壊れそうな思いをしたことか、と改めて感じました。
私事ですが、私には精神病の弟がいて、いつも物を殴る音や怒鳴り声が家中に響いていて、おびえながら暮らしております。いつパニックを起こすか分からず、夜中にパニックになることもあります。今の時点でもう、私は精神的に参りかけています。(暗い話で申し訳ありません。)
本当に、籠城戦を戦い抜くなんて、想像を絶する話ですね。関ヶ原の戦い関連では、細川幽斎の田辺城の戦いも凄まじかったのでしょうね。
昨日の島津義弘の話は、最近知りました。(『戦国の合戦』小和田哲男(学研新書)を読んで。)あの逃走術は、「捨てがまり」という呼び名があるそうですね。
投稿: KAKI | 2008年9月17日 (水) 21時29分
KAKIさん、こんばんは~
心の病というのはは、周囲の方々も、さぞかし大変な事でしょうが、頑張ってくださいね。
田辺城の攻防戦については、その日に別の話題を書いてしまったので、まだ、このブログでは登場していないんですが、来年には書かせていただこうと思っています。
大和田さんの著書は、私も何冊か持ってます。
本屋さんで、「おもしろそうだな」と思って手に取るとかなりの確率で小和田さんの本だったりします(笑)
投稿: 茶々 | 2008年9月17日 (水) 23時27分
はじめまして
調度おあむ物語をネットで調べていて、こちらにたどり着きました。
分かりやすく、参考になりました。
ありがとうございましたo(*^▽^*)o
私、淀さまが大好きなので、
お名前にも惹かれました。
映画やドラマを観ると、まるで戦は短期決戦みたいに見えますが、
実際はこんな風に長期に渡って心身共にぼろぼろになってしまうものなんですね。
淀さまも気鬱の病に悩まされていたとか・・・
投稿: しなちくやんこ | 2011年1月22日 (土) 09時07分
あ、すいません、
「しなちくやんこ」
はミスタッチでした・・・。
投稿: しなちくにゃんこ | 2011年1月22日 (土) 09時09分
しなちくにゃんこさん、こんにちは~
今年の大河では、そんな女の戦いっぷりを、強く&美しく描いていただきたいですね~
投稿: 茶々 | 2011年1月22日 (土) 09時41分