「キリシタンゆえ自害はできぬ」小西行長が自首
慶長五年(1600年)9月19日、関ヶ原の合戦で敗れた西軍に属していた小西行長が、伊吹山山中にて捕らえられました。
・・・・・・・・・
それは、慶長五年(1600年)9月19日の事・・・・
関ヶ原の庄屋・林蔵主(りんぞうず)が、伊吹山の山中を歩いていると、やや遠くのほうから・・・
「そこの人・・・ちょっと来てくれ」
と、声をかけられます。
見れば、相手は落人・・・
そう言えば、4日前の9月15日、関ヶ原で大きな合戦があり(9月15日参照>>)、あたりは、網の目のように張りめぐらされた落ち武者狩りで、ものものしい雰囲気でしたが、こういう時の周囲の村人の態度としては、二つに一つ・・・。
進んで落ち武者狩りに参加して褒美に預かるか、とばっちりを被らないためにも、関わりを持たないで見て見ぬふりをするか・・・。
林蔵主の場合は後者でした。
このあたりは石田三成の居城・佐和山城にも近く、合戦自体は東軍の勝利に終ったとは言え、一般庶民たちには、この先どうなるのやら見当もつきませんから、林蔵主の村では、「落人を捕らえたり、むごい仕打ちをするような事をせず、関わりを持たないようにしよう」と、村の取り決めで決めたばかりだったのです。
「ワテには、関わりのない事で・・・どっかへ早う、逃げなはれ」
林蔵主は、落人との距離を縮める事なく、その場から、それでいて気づかれないように小声で叫びました。
しかし、その落人は
「ええから・・・頼みたい事があるんや、是非ともこっちに来てほしい」
と、言って譲りません。
しかたなく、その落人のところへ行くと、彼は
「俺は、小西摂津守(せっつのかみ)や」
と、名乗ります。
名前を聞いてまたまたびっくり・・・そして、やっぱり
「はよ逃げてくださいや」
と、言います。
しかし、まだ、彼は、
「俺を内府(徳川家康の事)のもとに連れていって、褒美を貰え」
と言います。
「とんでもない!」
「見たやろ?ここらあたりは、落人狩りの者らがウヨウヨしてる・・・このまま敵に捕まるのはもちろん、褒美目当てに落ち武者狩りに加わってる姑息なヤツに捕まるのもくやしい。
自害するのはたやすい事やけど、俺はキリシタン・・・キリシタンの教えでは、自害は禁じられてるんや・・・俺は、アンタのような人に捕まえてもらいたい」
行長を名乗る落人は、そう言って譲りません。
ひとしきりのやり取りの末、林蔵主は説き伏せられ、やむなく、その落人を自宅に連れ帰ります。
その後、関ヶ原領主の竹中重門(10月16日参照>>)の家老に相談し、ともにその落人を連れて、家康の配下である草津の村越茂助の陣へ・・・。
茂助は、その落人に縄をかけ、林蔵主には金十両が与えられます。
そう、その落人は本物・・・小西行長、その人だったのです。
・‥…━━━☆
小西行長は、堺の豪商・小西立佐(りゅうさ)の次男坊として京都で生まれました。
熱心なキリスト教信者だった父の影響で行長自身もキリシタンとなり、ルイス・フロイスが織田信長に謁見する際に父と兄が案内役をした事や、商売の関係で宇喜多秀家の家に出入りしていた縁で、豊臣(羽柴)秀吉と出会います。
もともと商売人ですから、地元・堺の商人とのつながりもあり、さらに、その経済や流通に精通した頭脳が買われ、秀吉配下で出世していくようになります。
やがて、天正十六年(1588年)、佐々成政の失脚(7月10日参照>>)で、肥後国の宇土24万石を与えられ、大名となりました。
領国には、キリスト教信者らしく、修道院や教会をはじめ、孤児院やハンセン病施療院などの建築にも力を注ぎ、堺や大坂にある病院にも寄付を怠らず、周囲からは、「大きな領地を持っていながら、金の残せない人だ・・・」なんて、陰口をたたかれるほどでした。
武将としては、とても優秀で、部下をまとめる器量もあり、その強さも見事でしたが、キリシタンとしての平和主義は、戦いぶりにも影響を与えます。
慶長・文禄の役(11月20日参照>>)でも、勇猛果敢に戦う一方で、早々と講和の交渉を開始したり、犠牲者を出さないためにコチラの進軍ルートを敵に教えたり、女・子供を逃がしたりしています。
どうやら、そこンところが、ともに肥後を与えられて同期で大名となった加藤清正とはソリが合わなかったようで・・・清正さんは、その武勇がウリですからね。
まぁ・・・
「なるべく、犠牲者をおさえたい」という行長さんの考えも納得ですが、「犠牲が出るのが戦いという物・・・それがイヤなら、はなから戦争すんな!」っていう清正さんの考えも一理あります。
そんな、二人の確執が、秀吉が亡くなった後にも続き、やがては、関ヶ原での東西の別れにつながったのかも知れません。
この日、逮捕・・・いえ、自ら名乗り出て捕縛された行長は、2日後の21日に捕らえた三成(9月21日参照>>)、23日に捕らえられた安国寺恵瓊(えけい)(9月23日参照>>)とともに、10月1日に六条河原で処刑されます(10月1日参照>>)。
あとに残ったのは、行長の着物に縫い付けられていた妻子宛ての遺書・・・
「この度は、意外な出来事に遭遇して、今まで生きてきた中で、一番、辛く苦しんだが、これも、今まで自分が犯してきた罪の償いを、来世ではなく、現世でしているのだと思い、特別の恵みを与えてくれたデウス(神)に感謝しています」
最後の最後に、武将としてではなく、キリスト教徒として死ぬ事を選んだ行長・・・遠い異国で、彼の死を聞いたローマ法王は、行長の死を殉教として扱い、市民に「ともに行長のために祈ろう」と呼びかけたのだとか・・・。
戦いを好まず、私欲を抑えて施設の建設に励んだ遠いアジアの武士の事を、ローマ法王はご存知だったようです。
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