七尾城・攻防戦~上杉謙信の「九月十三夜」
天正五年(1577年)9月13日、能登・七尾城を攻略中の上杉謙信が、城中からの密書を受け取り勝利を確信しました。
・・・・・・・・・
越後(新潟県)の上杉謙信と、甲斐(山梨県)の武田信玄・・・。
この永遠のライバルが5回にわたる川中島の合戦(武田信玄と勝頼の年表を参照>>)を繰り広げている間に、情勢は大きく変わりました。
群雄割拠する戦国時代・・・もともと、謙信の敵は信玄だけではなく、信玄の敵も謙信だけではなかったわけですが、ここに来て、桶狭間(5月19日参照>>)で今川義元という大物を倒し、一気に全国ネットの表舞台に登場してきたのが、尾張(愛知県)の織田信長です。
その信長が、第15代室町幕府将軍・足利義昭を奉じて(9月7日参照>>)上洛を果たしたのもつかの間、信長と義昭の関係はすぐに、ギクシャクし始めます。
やがて、将軍としての地位をないがしろにされて怒り心頭の義昭は挙兵し【(2月20日参照>>)、各地の戦国大名に密書を乱発し、信長包囲網を造ろうとします(1月23日参照>>)。
その動きに合わせるように、信玄は、東海へとターゲットを変更するのですが、志半ばで病に倒れた上に、その包囲網の一翼であった越前(福井県)の朝倉と近江(滋賀県)の浅井が織田の前に葬り去られます(8月27日参照>>)。
さらに、信玄の後を継いだ武田勝頼が、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)で、織田・徳川連合軍に敗れ、武田氏は急激に衰えを見せ始めるのとは逆に、信長は越前一向一揆を制し、加賀へと向かって前進(8月12日参照>>)・・・
ここにきて、謙信はいよいよ対信長を表明(3月17日参照>>)・・・義昭の仲介にて、長年敵対関係にあった石山本願寺と同盟を結んで(5月18日参照>>)、迫りくる織田軍を迎え撃つ事になります。
天正四年(1576年)10月、謙信の七尾城包囲によって、第一次の攻防戦が開始されます。
この時の七尾城主は、長年の重臣同士の争いから、次々と城主を失った後に擁立された、まだ幼い畠山春王丸・・・それゆえ、実質的に実権を握っていたのは重臣の長続連(ちょうつぐつら)と、その息子・綱連(つなつら)でした。
周囲の支城を次々と落として、包囲した七尾城を孤立させる謙信でしたが、やはり、そこは、代々の畠山氏が構築した難攻不落の名城の呼び名も高い七尾城・・・結局、謙信は、七尾城を落せないまま、年を越してしまいました。
・・・と、天正五年(1577年)の3月・・・ここに来て、関東の北条氏が、謙信の領地である上野(こうずけ・群馬県)に進攻し始めます。
そう、川中島に夢中になって、ついつい忘れそうになってましたが、謙信は関東管領職にもついていますので、未だ、北条氏も敵なわけです。
七尾城の攻略を一旦中止し、北条の討伐へ向かう謙信・・・その北条を破って、再び謙信が七尾城を包囲したのは、4ヵ月後の閏7月の事でした。
続連・綱連親子は、再び、強固な七尾城を楯に、以前と同じように籠城の構えでしたが、いくら難攻不落といっても、そう何度もうまく事は運びません。
以前とは、明らかに違うところが一つ・・・そう、季節です。
7月という最も暑い時期・・・城内で、疫病が発生してしまうのです。
しかも、続連らは、謙信の大軍を相手にするため、ここ七尾城に多くの領民をにわか兵士として向かえ入れていたため、次々と人から人へと病魔が広がり、とうとう、幼い城主までが命を落します。
城内のありさまに危機感を抱いた続連は、次男・連龍(つらたつ)を城から脱出させ、畿内にいる信長のもとへ救援要請に向かわせました。
ところが、ここに、もう一つ、以前とは明らかに違うところが・・・それは、謙信の作戦です。
先の第一次攻防戦で、難攻不落の七尾城を攻めあぐねた謙信・・・今度は、包囲した最初の段階から、お抱えの忍びの軍団・軒猿(のきざる)を城内に派遣し、内通者を探らせていたのです。
その呼びかけに答えたのが、畠山氏に仕える重臣の一人・遊佐続光(ゆさつぐみつ)でした。
天正五年(1577年)9月13日、続光は、謙信への寝返りを決意し、その思いを綴った密書を送ったのです。
煌々(こうこう)と月が照る中、届いた密書を読んだ謙信は、この時、勝利を確信・・・おもむろに大好きなお酒を用意し、諸兵たちに振舞うとともに、自身も勝利の美酒に酔ったと言います。
この時に詠んだ詩が、有名な『九月十三夜』です。
♪霜満軍営 秋気清 数行過雁 月三更 越山併得 能州景 遮莫 家郷憶遠征♪ |
♪霜は軍営(ぐんえい)に満ちて 秋気(しゅうき)清し
数行(すうこう)の過雁(かがん) 月三更(さんこう)
越山(えつざん)併せ得たり 能州(のうしゅう)の景
遮莫(さもあらばあれ) 家郷(かきょう)の遠征を憶(おも)ふを♪
遠く遠征した能登の地で、月の照る空を雁が飛んでいく・・・その光景に故郷・越後の風景をダブらせて、郷愁に浸る・・・
カッコイイなぁ・・・
できれば、このシーン、昨年の大河のGacktで見てみたかった気がしないでもないですが、来年の阿部謙信でもOKなので、是非とも見てみたい~
・・・と、ノスタルジックなシーンに浸っている場合ではない!
結局、この2日後の9月15日、上杉側に寝返った続光によって続連・綱連親子は殺害され、七尾城は開城となり、危険を冒して要請した織田の援軍は、間に合わなかった事に・・・。
そのため、信長への救援に向かっていて一人生き残った次男の連龍には、復讐の炎がメラメラと燃え上がる事になるのです(10月22日参照>>)。
この後、さらに加賀(石川県)へと進攻し、柴田勝家率いる織田軍を撃ち破る謙信・・・ここで、冬を迎えたため、一旦越後に戻り、次の春には大軍を擁して上洛し、信長を討つつもりだったと言われてる謙信ですが、ご存知のように、その前に急死してしまいます(3月13日参照>>)。
そして、謙信の二人の養子、景勝(かげかつ)と景虎(かげとら)の間での後継者争い・御館の乱(3月17日参照>>)が勃発し、信長は命拾いすることとなるのです。
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コメント
はじめまして。今月に入ってから、いつも楽しく拝見しております。
七尾城址には、今年の春に行きました。1時間かかる登山道を登ってみましたが、道が細く、勾配が急なところもあり、攻める側はそんな所で守る側に攻撃されたらたまらなかっただろうと思いました。頂上には石垣がしっかりと残っていて、感動でした。建築物は残っていませんが、難攻不落ぶりを感じさせられました。
ところで、織田信長に援軍要請に派遣されたのは、長綱連ではなく、弟の連龍です。七尾落城のとき、連龍は信長の下にいたので生き残り、その後は前田利家の家臣となり、長氏は加賀藩重臣として存続しました。ご存知かと思いますが。
あのまま上杉軍が加賀以南へ進軍していたら、どうだったのでしょう。北陸の一向一揆の脅威が残るなか、織田家トップクラスの武将・柴田勝家の守る越前を攻めるのは、謙信でも容易でなかったように思います。
投稿: KAKI | 2008年9月13日 (土) 10時06分
KAKIさん、こんにちは~
私が行ったのはずいぶんと昔で、なんかミョーにデカイ「七尾城跡」という石標が印象的でした。
今年の春は、まだ、石標、ありましたでしょうか?
ところで・・・
手元にある『戦国合戦100戦』(川口素生・リイド社)という書籍には、「救援要請に向かったのが綱連」となっていましたので、そのように書かせていただきましたが、確かに、弟の連龍が救援要請に向かったという話のほうが主流みたいですね(ご指摘通りに変更させていただきました)。
ただ、中には「一説には救援要請をしたという話もある」といった救援要請そのものを、曖昧な書き方をしている物もあり、判断がし難い出来事なのかも知れません。
しかし、おっしゃる通り、江戸時代を通じて、長氏は前田家の傘下に入り、維新の時には、男爵となっていますから、一士族ではなく、少なくとも大名として存続していたのは事実・・・きっと、ご指摘通り、その弟さんが生き残ってお家を存続させていかれたんでしょうね・・・
いつか、その事についても書いてみたいと思います。
ご指摘、ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2008年9月13日 (土) 10時59分
「七尾城跡」の石標は見た記憶がないです。私に見覚えがないだけで、本当はどこかにあったのかもしれませんが・・・。
でも、「九月十三夜」を漢文のまま載せた案内板は見ました。
加賀藩では、長氏は3万3000石を有し、村井氏や奥村氏に次ぐ重臣だったそうですね。最後まで畠山氏を守り抜こうとした長氏だからこそ、このような形で存続できたのでしょうね。
投稿: KAKI | 2008年9月13日 (土) 21時50分
KAKIさん、再びのコメントありがとうございます。
七尾城跡に行ったのは、○十年前の中学生くらいの頃だったので、どこをどう行ってその石標にたどり着いたのかさえビミョーなのですが、その前で写した写真が残っているので、他の場所は忘れても、そこだけよく覚えているんだと思います。
>加賀藩では、長氏は3万3000石を有し、村井氏や奥村氏に次ぐ重臣・・・
なるほど、そうだったんですね。
投稿: 茶々 | 2008年9月13日 (土) 22時32分
「上杉謙信の白頭巾」が修繕されることになって、生誕500年の2030年あたりの一般公開の計画があります。
次に上杉謙信を大河ドラマで演じる人は誰かな?
投稿: えびすこ | 2024年9月13日 (金) 10時29分
えびすこさん、こんばんは~
それは楽しみですね
投稿: 茶々 | 2024年9月14日 (土) 02時28分