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2008年9月30日 (火)

箕輪城落城~あの新陰流・誕生の影に・・・

 

永禄九年(1566年)9月30日、武田信玄の攻撃を受けていた箕輪城が落城し、長野業盛が自刃・・・長野氏が滅亡しました。

なお、箕輪(みのわ)の落城には、その文献によって永禄四年または六年または八年・・・と諸説あり、また、日付も9月29日とする場合もありますが、今回は永禄九年の9月30日とさせていただきました。

・・・・・・・・・

甲斐(山梨県)武田信玄が、越後(新潟県)上杉謙信と、一連の川中島の合戦(8月3日参照>>)を繰り広げていた永禄のはじめ頃・・・信玄は同時に、この上野(こうずけ・群馬県)にも、再三再四の進攻を繰り返していました

当時、この上野西部に位置する箕輪城の城主だったのは、長野業正(なりまさ)・・・関東屈指の智将です。

しかも、その家臣には、武芸の誉れ高い、上泉信綱(かみいずみのぶつな)疋田景兼(ひきたかげかね)といった面々が控えており、さすがの信玄も攻めあぐねていたのです。

そんな上野箕輪城・・・永禄四年(1561年)11月22日に、城主・業正が病死してしまいます。

その後を継いだのは、嫡男の長野業盛(なりもり)・・・わずか14歳で家督を継ぐ事になった業盛でしたが、なかなかどうして、彼も父に似て、かなりのキレ者で、しかも武勇にも優れた武将でした。

業正の死後まもなく、その死に乗じて信玄が攻めてきた時も、信綱らの補佐を受けながら、見事、撃退しています。

しかも、その彼らが守る箕輪城は、複雑な地形の天然の要害の上に構築され、徹底した補強が繰り返されている難攻不落の城でした。

しかし、いくら難攻不落の城に若き智将と言えど、相手は、天下にも手をかけんばかりの勢いの信玄です。

再三再四にわたる攻めは、徐々に彼らの勢力範囲を狭めていき、逆に、信玄の包囲は、じわじわと強くなっていきます。

次第に孤立していく箕輪城・・・やがて、永禄九年(1566年)9月信玄が2万の大軍で、この箕輪城の包囲を固めた頃には、城内に残る城兵は、わずか2百ほどになっていたのです。

Takedasingen600b9月27日武田軍は総攻撃を開始します。

少ないながらも死力を尽くして戦う長野勢・・・しかし、これだけの多勢に無勢では、いかんともしがたい・・・

総攻撃が開始されて3日目の永禄九年(1566年)9月30日・・・業盛は最後の戦いに挑みます。

自らが、先頭に立ち、城門から撃って出て、敵の真っ只中に躍り込んで奮戦する業盛・・・。

その数の少なさゆえ、敵に大ダメージを与える事は不可能でしたが、予想以上の混乱を招き、一矢報いた形に満足した業盛は、再び城に戻り、本丸の北側に位置する曲輪にて自刃を遂げました・・・享年19歳。

若き智将は、信玄という大きな壁に押しつぶされ、ここに、戦国大名としての長野氏は滅亡しました。

ただし、家臣とともに脱出した2歳の息子が、後に井伊直政の家臣となったという事なので、血筋は残った事になりますが・・・。
 

ところで、ここで主君の自刃を見送った武芸に優れた二人の忠臣・・・上泉信綱と疋田景兼。

業盛亡き後、主君に習って城外へ撃って出ようとしますが、武田方に説得され、まもなく箕輪城を開城して降伏します。

その腕を見込まれて、「武田の家臣にならないか?」との誘いを断り、彼ら二人は、ともに、以前から極めたいと思っていた兵法の修行に専念するための旅に出るのです。

武者修行で諸国を巡るうちに身に着けた念流・陰流・神道流・・・これらの剣術を踏まえて、信綱は新たな流派を起こします。

その名は、新陰流・・・(1月16日参照>>)

信綱の弟子の柳生宗厳(むねよし)の息子・柳生宗矩(むねのり)柳生新陰流は、徳川幕府のもとで大きく栄えますので(4月19日参照>>)、ご存知のかたも多いでしょう。

一方の景兼も、やはり信綱の弟子となって新陰流を継ぎ、疋田新陰流と呼ばれるようになり、織田家や豊臣家の指南役となっています(2010年9月30日参照>>)

あの神道無念流も、この新陰流から生まれた事を考えると、新陰流は、後の剣術の発展に大きく影響している事がわかりますが、もし、箕輪城が落城せずに、彼らがずっと長野氏の家臣で、武者修行の旅に出なかったら・・・それでもやっぱり新陰流は誕生したのでしょうか?

いろんな想像をかきたてずにはいられない箕輪城の落城でした。
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コメント

ちょっと前に偶然HPを発見、それから、このブログにもお邪魔しています。
毎日面白いですo(*^▽^*)o
えーと、HPの方では、対談数珠繋ぎがお気に入り。
繰り返し読んでは笑っています。
そろそろ藤原さん登場しないでしょうかね( ^ω^ )
イラストも良いですね(o^-^o)

投稿: ななみみず | 2008年9月30日 (火) 21時17分

うっかり間違いました。
藤原さんの次の天智さん、
楽しみにしています(◎´∀`)ノ

投稿: ななみみず | 2008年9月30日 (火) 21時20分

ななみみず さん、コメントありがとうございます。

わぁ、ホームページも見てくださってるんですか(゚▽゚*)しかも対談コーナーを・・・ウレシイ

>藤原さんの次の天智さん・・・

そうなんですよね~

「対談コーナーは、日付に関係ないので、いつでも更新できる」と思うあまり、つい、後回しにしてしまってます・・・反省(;;;´Д`)

何とか、時間をつくって続けていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いします

投稿: 茶々 | 2008年9月30日 (火) 22時26分

長野業盛さんは19歳だったのですか、儚いですね。その後の箕輪城も武田が滅び、北条も滅び、井伊直政さんのお城になっても、高崎城が出来たので廃城に・・なんかとっても悲しいお城ですね。
新陰流の祖となる上泉信綱さんより柳生石舟斎、宗矩、十兵衛の名が有名なのは小説や映画の影響かな?
今度草津温泉と沼田城、箕輪城、岩櫃城を見に行こうと思っています。

投稿: エコリン | 2008年10月 2日 (木) 01時21分

エコリンさん、こんにちは~

つい先日も、スペシャルドラマやってましたね~
「柳生一族の陰謀」
私も、新陰流と言えば柳生一族を思い出してしまいます。


草津温泉・・・いいですね~
また、感想を聞かせてください

投稿: 茶々 | 2008年10月 2日 (木) 17時53分

携帯ゲームの長野業正があまりに強かったので、勢いどんな人物だろうと検索した際にこのブログを発見、訪問させていただきました。
上野長野氏の家臣、上泉信綱と疋田景兼が新陰流に繋がっていたことを知り驚きました。歴史も思わぬところで繋がっていることを再認識でき、久々にweb上で良き情報を得ました。ありがとうございます。

投稿: mahora | 2009年10月 5日 (月) 01時52分

mahoraさん、ご訪問ありがとうふぃざいました。

ゲームや漫画と言えど、歴史好きの人が関わって場合は、ドラマより的を射ている場合があって意外に侮れませんね。

きっと、作り手の人は、家臣二人の腕から予想して、主君もかなり腕がたつとの判断で、強くされたんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年10月 5日 (月) 21時37分

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