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2008年9月 8日 (月)

大阪マイナー史跡~大手橋と近世城下町の町割

 

今日は、以前からチョコッとだけシリーズ化している大阪マイナー史跡のご紹介・・・と言いたいところですが、写真を見ておわかりの通り、史跡というよりは、普通の橋です。

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この橋は、大阪城の大手から、西へ伸びる大手通りの東横堀川に架かる大手橋という橋。

現在は、東横堀川の上を阪神高速道路が走っているので、この橋の上にも、阪神高速が思いっきりかぶさっております。

この東横堀川に架かる橋は、北から・・・
まずは、今橋、それから、以前、【東海道は五十七次】(8月10日参照>>)で書かせていただいた、江戸時代の東海道の大阪の基点・高麗橋、次に平野橋、そして、この大手橋、さらに本町橋農人橋・・・という具合に続いていきます。

この大手橋が、現在のようなコンクリートになり、大手橋という名前になるのは、大正十五年(1926年)の事で、それまでは、木製で、思案橋と呼ばれていたのですが・・・それは、写真をアップで見ていただくとわかると思いますが、この橋を渡ると、すぐに突き当たりとなっていて、右か左にしかいけないわけです。

それで、かの豊臣秀吉の五奉行の一人であった増田(ました)長盛が、大坂城を出てこの橋を渡った時に、右に行こうか?左に行こうか?と思案したから思案橋・・・あるいは、その長盛が、橋の命名を任されて、どんな名前にしようか?と思案したから思案橋となった、などと言われてます。

・・・で、なぜ、現在も利用されている、ごく普通の橋を、マイナー史跡としてご紹介するかと言いますと・・・それは、思案橋の名の由来でもある、渡ったら行き止まり・・・というのに関係があります。

地図を参照していただくとわかりやすいと思うのですが・・・

Ootebasitizucc この地図・・・縮尺はムチャクチャですし、自分なりにいらない部分は省略してしまってますので、もし、手元に大阪市の地図をお持ちであれば、そちらを見ていただいたほうが正確でよいと思います~

実は、この東横堀川を挟んで東側は、豊臣秀吉の時代に区画整理された町並みで、西側は、その後、天下を取った徳川家康によって区画整理された町並みだと言われています。

つまり、違う都市計画のもとに造られた町並みが、ここで統合されたために、道が微妙にズレて、大手橋だけではなく、この東横堀川沿いのあっちこっちで行き止まりの道がたくさんできてしまっているのです。

町の名前にも、その名残りがあります。

東横堀川の西側は、豊臣時代の町の外側なので淡路町、そして、東側は内側なので内淡路町・・・本町内本町も、平野町内平野町北と南の久宝寺町内久宝寺町も・・・東横堀川の内と外という意味ではないかと・・・。

これは、大阪だけではなく、東京や、そのほかの町でも言える事ですが、町の名前は、現在でも当時の名残りを留めているものがあり、じっくり見ていくと、実におもしろいです。

先日、信長・秀吉・家康の三人だけが成しえた城割(しろわり)について書かせていただきましたが(8月19日参照>>)、一つの国に一人の大名・・・そして、その大名の居城となる城を中心に発展していく近世城下町・・・。

これは、それまでの戦国城下町とは明らかに異なる都市計画で造られました

最も違う部分は、戦国城下町では、そこに住んでいるのは、重臣クラスくらいまででしたが、近世城下町では、上記の城割によって、兵農が分離され、常時戦闘可能なプロの戦闘集団である家臣団が、皆、主君の居城の城下町に住むようになり、武士の数が非常に増えた事・・・

もちろん、町が発展すれば、町民も増えますから、戦国時代には入り混じっていたその居住区域を、はっきりと分けて整備したのも、近世城下町と戦国城下町の違いです。

・・・とは、言っても、どのような街づくりを行うか?という事細かなプランは、天下人の指示ではなく、それぞれの大名にまかされていたようで、各城下町によって様々です。

このような、都市計画の事を町割(まちわり)と言いますが、だからこそ、豊臣時代の大坂城を跡形も無く潰して、まったく新しい城を構築した家康も、町割に関しては、すべてを潰すのではなく、豊臣時代の物をそのまま利用し、その外側に新たな町割を配置したというわけです。

当時の一般的な町割は、お城に近い部分に武家屋敷・・・それも、より近い場所に重臣クラスの屋敷を置き、遠くなるにつれて石高の低い武士の屋敷が配置されます。

大阪の場合は、大阪城の北西、地下鉄南森町駅ちかくに、与力町同心町といった地名が、今も残ります。

・・・で、その外側に商人町職人町が配置されるのですが、場所によっては、境目に足軽長屋などを建てて、一線を画す場合もあり、その往来が厳しく制限される事もあったようです(井伊さんの彦根城下はかなり厳しかったらしい)

もちろん、外側にある商人町、職人町の配置も決められ、大阪にも、糸屋町・槍屋町などという地名が、今も残っていますが、大抵は、交通・運輸に関わる場所(大阪では博労町船場は、街道筋や大手筋に設けられる事が多く、魚(肴)を扱う商人の町は、臭うからと幹線道路を外して配置されたりしたようです。

面白いのは、冒頭で書いた思案橋(大手橋)・・・江戸時代(1846年)の記録には、この思案橋の東側に、18軒の塩干魚・松前物(北海道産の昆布とか・・・)の店があった事が書かれているのですが、その江戸時代には、同時期に、現在の西区の(うつぼ)公園のあたりに大きな塩干魚の市場があった事が確認されてます。

・・・で、この18軒の塩干魚屋・松前物さんは、実は豊臣時代のお店の名残り・・・つまり、豊臣時代は東横堀川の内側(地下鉄・北浜駅の東付近)にあった塩干魚屋・松前物屋さんが、徳川時代には、外側へ移動したという事です。

それだけ城下町が大きくなったって事なんでしょう。

もちろん、豊臣時代には、日本海から敦賀・琵琶湖そして淀川を通って運ばれて来た松前物が、江戸時代後半には、瀬戸内海を通る大きな船で大量に運ばれて来たという事もあり、より海に近い運輸に便利な場所に移動したという事もありますが・・・。

他にも、火薬を扱う鉄砲職人や鍛冶屋などの町も、危険という事で城下町のはずれに配置される事が多かったようです。

そして、もちろん処刑場も・・・。

これは、やはり、身分の低い人たちが、その手伝いや死体処理をしていた関連から、城下と城下外の境界線に居住させられる事が多かったためだそうですが、大阪では千日前が元・処刑場として有名・・・って事は、そのあたりが城下町のはずれだったという事なのですね。
(江戸時代の「市中引き回し」のルートを歩いた史跡巡りは2010年12月17日のページへ>>

こういう視点で、地図をみていると、なんだか当時の城下町が見えてくるようで不思議・・・話は尽きませんが、今日はこのへんで・・・
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私の書いた地図では心もとないので、一応、最後に、Googleマップを貼り付けておきます。

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コメント

羽柴茶々さま
はじめまして。
大阪箕面市在住のOSAYANと申します。
わたしも、約10年大阪のガイドブックに載っていない史跡を探求し続けております。
現在、「大阪龍馬会」の幹事、「大阪旅めがね」の大阪城エリアと歴史プレミアムガイド担当、「大阪あそ歩」で2010年の春、坂本龍馬および新選組の大阪史跡めぐりのガイドを務めています。
2009年の春は、大阪検定連携事業の史跡ツアーを2回実施もさせていただいております。
今後、いろいろ勉強させていただきたく思います。よろしくお願いします。

Blog 
http://osaka-siseki.cocolog-nifty.com/blog/

投稿: OSAYAN | 2009年12月31日 (木) 13時15分

OSAYANさん、はじめまして、コメントありがとうございます。

京都と違って大阪の史跡巡り・・・特にマイナーなところは、写真を撮っているだけで白い目で見られますが、めげずに行きましょうね。

春になればツアーですか~~
いいですね。
またイロイロな場所、教えてくださいね。

こちらこそよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2010年1月 1日 (金) 10時33分

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