佐賀・鍋島藩~化け猫騒動の真相
慶長十二年(1607年)9月6日、肥前の戦国大名・龍造寺高房が急死しました。
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怪談話として知られる佐賀・鍋島藩の「化け猫騒動」・・・。
有名なところでは・・・
佐賀・2代藩主の鍋島勝茂(かつしげ)が、家臣の龍造寺又一郎(りゅうぞうじまたいちろう)を騙まし討ちにしたところ、又一郎の首をその飼い猫が持ち帰り、飼い主の血をなめて、妖怪となり、側室・お豊に化けて鍋島家に入り込み、復讐を企てます。
お家騒動を画策したり、勝茂の子供を死に至らしめたり・・・その他、様々な奇怪な事が佐賀中で勃発しますが、やがて、千本本右衛門(せんぼんもとえもん)という勇者が、お豊の本性を見破り、すかさず退治・・・これによって、怪現象は無くなったという・・・
・・・と、上記以外にも、藩主が違っていたり、化けるのが側室ではなかったり・・・といくつかのパターンはあるものの、おおむね鍋島に対して怨みを持った龍造寺の思いを背負った化け猫が、復讐をしようとするものの、最終的に退治されるというのが、共通するストーリーです。
しかし、さすがに、この妖怪話が本当の出来事でない事はわかります。
ただし、こんな怪談話が生まれる土台となる出来事は、実際にあったのです。
それは、鍋島と龍造寺の主従関係・・・上記の物語では、鍋島=藩主に対して、龍造寺=家臣ですが、以前、田手畷の戦いのページ(8月15日参照>>)で書かせていただいたように、もともとは、龍造寺=主君で、鍋島=家臣だったのです。
つまり、鍋島が主君である龍造寺にとって代わったと・・・が、しかし、そんなの戦国の世では、当たり前・・・第一、鍋島の主君だった龍造寺隆信だって、その主君に当たる少弐氏を倒して肥前(佐賀県)を手に入れたわけです(1月11日参照>>)から、いちいち怨んで化けてたら、そこらへん化け猫だらけになってしまいます。
ところが、この龍造寺と鍋島の関係は、そのあたりの下克上とはちょと違う・・・そこに、この化け猫騒動の生まれる要因があったのですね。
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天正十二年(1584年)、肥前の熊と呼ばれて恐れられた、その隆信が、島津との沖田畷(おきたなわて)の戦いで討死します(3月24日参照>>)。
ところが、すでに家督を譲られていた隆信の長男・龍造寺政家は、当主と言えどなばかりで、実質的に領国内の統治は、家臣である鍋島直茂が行っていたのです。
直茂は、隆信の危機を、その知恵で何度も回避した事のある智将ですし、隆信の親戚でもあり義兄弟でもある(直茂の父と隆信の母が再婚してる>>)ので、言わば身内・・・隆信自身が生前、息子・政家に「何かあったら、直茂に相談しろ」と言い聞かせていた事もありました。
さらに、政家自身が、病弱であった、あるいは障害を持っていたなどと言う話もあり、この直茂が、すべてを仕切る事に関しては、他の家臣たちも納得ずく・・・いや、むしろ、家臣たちの話し合いによって、「当主が何もできないのなら・・・」という事で決まった形態だったようです。
それでも、直茂には、主君にとって代わろうなどという気持ちはなく、あくまで、政家を当主として立てていました。
やがて、九州征伐での直茂の活躍を見た天下目前の豊臣秀吉は、主君・政家よりも直茂を重視し、領地を与えて大名扱いするばかりか、政家に隠居するように勧め、まだ5歳の政家の息子・龍造寺高房(たかふさ)に家督を譲り、直茂を、その後見人にするよう命じるのです。
もはや、事実上、完全に直茂が当主のようになってしまったものの、やはり彼の実力は、家臣の皆も認めるところで、むしろ、家臣たちも直茂寄りの状態・・・。
やがて、関ヶ原の合戦後、徳川家康の傘下に入った龍造寺氏でしたが、この頃には、高房も大きくなって、直茂の養女を妻にして、その実権を自分に戻すよう画策しますが、もはや家臣団は皆、直茂の味方・・・
そうこうしているうちに徳川2代将軍・秀忠に仕える高房は、江戸住まいをするようになり、遠く離れた佐賀が、鍋島に乗っ取られるんじゃないか?と気が気じゃない・・・
不安に不安が重なっていき、とうとうご乱心のうえ、慶長十二年(1607年)の3月3日に、妻を殺害して、自らも自殺を図ります。
この時は、何とか一命はとりとめたものの、結局その半年後の9月6日、その傷が悪化して帰らぬ人となったのです。
そう、冒頭で、急死と書きましたが、どうやら、乱心の上の自殺のようなのです。
しかも、父の政家も、息子の死のショックから立ち直れず、その1ヶ月後に亡くなってしまい、龍造寺家は後継者がいない状態になってしまいます。
ただし、この龍造寺氏は、本家・・・他にも、いくつかの分家があったため、直茂は、各・龍造寺家の重臣を集め、「誰が後を継ぐのか?」を話し合ったところ、全員が、直茂の息子・鍋島勝茂を推したのだとか・・・ホンマかいな?
ちょっとアヤシイ気もしますが、同じ龍造寺と言えども、分家の場合は、あくまで本家の家臣ですから、直茂の手腕しだいでは、そういうなりゆきになるかも知れませんね。
かくして、名実ともに、佐賀35万石は、鍋島藩となります。
ところが、かの高房には、隠し子がいたのです。
それも、本人も知らなかった隠し子・・・ただし、あくまで自称のようですが、とにかく、この龍造寺季明(すえあき)なる人物が、龍造寺の復権を幕府に訴えるのです。
この人物が本物かどうかはともかく、どうやら、未だ龍造寺を推す家臣が何人かいたようです。
なんせ、いくら直茂が、周囲の家臣の心を掌握していたとしても、100%というワケにはいきませんからねぇ・・・
しかし、もはや鍋島藩として、安定した地位にある勝茂らも、訴えられた幕府も、真剣に取り合わなかったため、不満ムンムンの季明派の家臣たちが、鍋島の家臣を、次々と闇討ちにしはじめ、「高房の亡霊が復讐している」との噂を流した・・・
どうやら、これが、化け猫騒動の真相のようです。
力ずくで、主君を倒しての下克上でなかったはずですが、それでも、取って代わられた方には何らかの言い分もあったかも・・・
どこかで道を踏み外し、少しのボタンの掛け違えが、何か、おかしな事になっちゃったんでしょうね・・・。
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コメント
鍋島藩の化け猫話はじめて知りました。
面白かったです。
投稿: ねじ巻き | 2011年9月 3日 (土) 23時40分
ねじ巻きさん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
また、遊びに来てくださいね。
投稿: 茶々 | 2011年9月 4日 (日) 00時00分
この龍造寺季明(すえあき)なる人物、あまりのしつこさに、幕府も業を煮やして会津藩お預けにされました。
そして、二百数十年の時が流れて龍造寺季明の子孫は、鍋島製の兵器にコテンパに叩きのめされたのでした。
めでたしめでたし。
投稿: | 2012年10月28日 (日) 18時44分
こんばんは~
会津藩は藩祖・保科正之の遺言を守って、よく戦ったと思います。
投稿: 茶々 | 2012年10月29日 (月) 02時32分