皇女・和宮とガラスの写真
明治十年(1877年)9月2日、公武合体の象徴として、第14代将軍・徳川家茂に嫁いだ皇女・和宮が、その生涯を閉じました。
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第121代・孝明天皇の妹・和宮(静寛院宮・せいかんいんのみや)の降嫁については、つい先日も書かせていただきました通り、地に落ちた幕府の威厳回復のための策として行われた公武合体(皇室と幕府が協力)の象徴的なものでした(8月26日参照>>)。
そのページにも、書かせていただきましたが、その時の和宮には、すでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)という婚約者がいたにも関わらず、その婚約を破棄してまでの徳川家茂(いえもち)との結婚・・・
「天下泰平のため、いやいやながらお受けします」
との言葉通り、本人の意向関係なしの100%の政略結婚・・・。
しかも、大奥に入っても、普段の生活で京都でのしきたりを変えないばかりか、将軍の正室の呼び名である「御台所(みだいどころ)」を使わせず、「宮さま」と呼ばせたなどの話から、家茂と和宮の関係は冷えきっていたのではないか?とも言われています。
しかし、逆に、100%の政略結婚であったワリには、けっこう仲睦まじかったのでは?という見方もあります。
私は、後者・・・二人は、仲睦まじかったのではないか?と思っています。
・・・というのも、和宮との初めての対面の時に、家茂が、自分のほうから挨拶をするという禁中のしきたりを守ったように、その後も、なるべく、武家のしきたりを強要するような事をせず、極力、和宮の事を大切に扱っていたところが見えるからです。
金魚などの珍しい物が手に入ると、必ず和宮に見せたり、和宮が宮中のように歌を送ると、かんざしをプレゼントして返答するなど、そのやさしさがうかがえる逸話も残っています。
その究極が、家茂の遺品です。
二人の結婚生活は、家茂の死を以って、わずか三年半ほどで終ってしまうのですが、その間に家茂は二度上洛し、しかも、2度目の上洛は1年以上滞在していますから、実質的な結婚生活は、もっと短い事になりますが・・・
その2度目の上洛の際、家茂は、和宮に、京都の西陣織をお土産に持って帰って来る約束をするのですが、結局、上方滞在中に21歳の若さで病死してしまい(7月20日参照>>)、その遺品だけが、江戸で待つ和宮に届けられる事になります。
そうです。
その遺品の中には、しっかりと、和宮と約束した西陣織が入っていた・・・少なくとも、家茂のほうは、和宮の事を快く思っていたように感じます。
一方の和宮の心の内は・・・
何と言っても、その後の戊辰戦争で、以前は、あれだけ嫁姑バトルを繰り広げていた天璋院・篤姫とタッグを組んで、徳川家の存続と名誉を守るために、最後まで江戸城に居座ってがんばる(4月11日参照>>)うえに、亡き夫の後を継いで第15代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)に、朝廷への手紙の書き方指導などして全面協力する(1月17日参照>>)わけですから、生前の家茂を嫌っていたとは、とても思えませんよね。
しかも、維新後には、一旦は京都に帰るものの、明治七年(1874年)に東京へ戻り、その後は麻布御殿で暮らしています。
しかし、東京に戻って3年後・・・脚気(かっけ)を患い、箱根搭ノ沢にて療養中の明治十年(1877年)9月2日、和宮は31歳で、この世を去ってしまうのです。
そのお墓は、生前の希望どおりに、徳川家の菩提寺である増上寺の家茂のお墓の隣にあります。
家茂のお墓の隣に、自らのお墓を・・・これが、何よりの彼女の答えでしょう。
徳川の女として死ぬ事を希望した彼女に、家茂への愛情があった事を感じずにはいられません。
ところで、その増上寺の徳川家の墓地が改葬された昭和三十五年(1960年)に、人類学や考古学の立場から発掘調査が行われ、将軍やその奥さんたちの体格や、一緒に埋葬されている様々な貴重な遺品が調査されたのですが、中でも和宮のお墓には、調査する人々も特別な関心がありました。
・・・というのも、武家のお墓は、他にも調査された例がありますが、皇族のお墓は、宮内庁の管理下に置かれているため、調査が不可能な状態・・・徳川の女として亡くなった和宮さんですが、もとは皇族・・・その埋葬の仕方や遺品が、どうしても気になってしまうわけです。
・・・で、かの和宮は、子供がうたた寝をしているような穏やかな感じで埋葬されていたそうですが、皇族のお墓と聞いて連想するような豪華な副葬品は、何も入っていなかったのです。
ただ両腕の間に、名刺判ほどの小さなガラス板が発見されました。
「これは、何だろう?」
初めは、懐中の鏡ではないか?と思われたそのガラス板は、どうやら湿板の写真のようだと、電灯の下でかざしてみたところ、烏帽子(えぼし)直垂(ひれたれ)姿の、若い男性が写っていたのだとか・・・
ところが、その翌日、もう一度その写真を確かめようと、昼間の太陽光の下でかざしてみたところ、一種の化学反応を起こしたらしく、たちまちのうちにその画像は消え、1枚のただのガラス板になってしまったのです。
両腕の間・・・おそらくは、埋葬された当時は、その胸に大事にかかえられるようにして、入れられたガラスの写真・・・。
その写真に写った若い男性とは・・・
若き日に、その思いがかなわなかった有栖川宮熾仁親王?
それとも、溢れんばかりの愛情で、自分を包んでくれた家茂?
烏帽子に直垂は、四位以上の大名に許された殿中での礼装だという事なので、これを踏まえると、おそらく、写真の主は家茂さんだと・・・。
慶応二年(1866年)か三年に、和宮に送られた家茂の肖像画というのが、徳川記念館に残っているそうですが、その肖像画が描かれる時に、和宮は、武家の戦闘服とも言える陣羽織姿を嫌い、正装での家茂の肖像画を希望したのだそうです。
ひょっとしたら、和宮は、若き日に始めて会ったあの日の、礼装の家茂が一番好きだったのかも知れません。
その思いを、しっかりと胸に抱いて、少女のように、眠るように・・・
大事に大事に抱えられたガラスの写真が、彼女の思いを代弁してくれているような気がします。
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