バカ殿を演じきった二代目藩主・前田利常
万治元年(1658年)10月12日、加賀藩・第2代藩主の前田利常が64歳でこの世を去りました。
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前田利常は、あの前田利家の四男・・・母は、まつさんではなく、側室の千代という人です。
そのせいか、幼い頃は、一番上の姉・幸さんの嫁入り先の越中(富山県)守山城で育てられ、父の利家には、ほとんど会った事がなかったそうです。
その上、6歳の時、関ヶ原の合戦とともに起こった浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)の和睦の代償として、相手方の丹羽長重(にわながしげ)のもとへ人質として出されてしまいました。
やがて13歳の時に、後継ぎの男子がいなかった兄・利長の養子となって加賀百万石の二代目藩主となりました。
現在の金沢は、武家屋敷をはじめとする城下町の街並みや、加賀友禅、九谷焼や蒔絵など、全国屈指の伝統をを誇る都市ですが、そのような伝統産業が発達したのも、外様大名でありながら、全国一の石高を誇る大大名となった加賀藩の宿命ともいうべきもの・・・利常さんをはじめとする代々の加賀藩主たちが歩き続けた一筋の道があったからなのです。
それは、豊臣政権下において、父・利家が五大老の一人として、徳川家康と対抗できる立場にある唯一の人であったというところから始まります。
ご存知のように、前田利家と豊臣秀吉は、織田信長の家臣であった頃からの家族ぐるみの親友・・・秀吉が死の間際に、利家の手を握りしめ「秀頼を頼む・・・」と願った話は有名です。
しかし、慶長三年(1598年)8月に秀吉が亡くなると(8月18日参照>>)、その後を追うように、翌年の3月に利家も亡くなってしまいます。
父のあとを継いで五大老になり、秀頼のもり役として大坂城にいた利長でしたが、例の豊臣家内での武闘派と文治派の政権争いの激化(3月4日参照>>)に嫌気がさし、父の遺言を破って金沢に戻ってしまいます。
そこに、言いがかりをつけて来たのが家康・・・「利長が金沢に戻ったのは、家康暗殺計画の首謀者であるからだ」として、圧迫をかけてきたのです。
利家亡き今、もはや、家康とまともにやり合う事は命取り・・・この時は、母・まつが人質として江戸に行く(5月17日参照>>)事と、利常と家康の孫娘・珠姫との婚姻とで、何とか、家康への誠意をアピールし、疑いを晴らしました。
その後の関ヶ原の合戦でも、冒頭に書いた浅井畷の戦いをはじめ、西軍に組する北陸の諸将を、自ら先頭に立って迎え撃ち、前田家が徳川の味方である事を強調したのです。
そう、この時から、前田家は、ずっと徳川ににらまれ続け、ことあるごとに謀反の疑いをかけられ、その都度、恭順な態度をとって弁明し、永遠の臣下であり続ける事をアピールし、お家の安泰をはからねばならなかったのです。
大大名であるが故の悩みです。
そんな中の二代目藩主・利常さんは、なかなかのキレ者・・・下々の事にも気を使い、知行体制を改革して、江戸時代を通じて脈々と受けづかれる加賀藩の体制の基盤を築いた人です。
ところが、寛永八年(1631年)、金沢城が火災に遭ってしまったため城の修理をしている時の事・・・あらぬ噂が、利常のもとに舞込んできます。
「加賀藩の利常は、この機に乗じて、他国から船を買い、城をより強固なものに造り変え、謀反を企てている」と・・・。
この機とは・・・実は、この時、すでに3代目・徳川家光に家督を譲って隠居していた前将軍・徳川秀忠が、ちょうど病にふせっていて、明日をも知れぬ状態であったのです。
もちろん、そんなつもりなど、まったくない利常は、あわてて江戸へと赴き、必死の弁明をして、何とか疑いを晴らすのですが、ここで、利常さん、一大決意をします。
それ以来、利常は常に鼻毛を伸ばし、宴会を開いちゃぁ裸踊りで大はしゃぎしてみたり・・・という奇行に走るようになるのです。
そう、アホのふりをしたのです。
彼は、なるべく国もとへは帰らず、できるだけ江戸にいてバカ殿の演技をし続けました。
江戸という幕府のお膝元で、アホな事をし続ける事によって、謀反の疑いをかけられる事を避け、命を賭けてお家の安泰をはかった義母・まつと兄・利家にならって前田家を守ったのです。
その演技は、万治元年(1658年)10月12日に亡くなる時まで続けられていたそうです。
そして、利常さんのあとを継いだ代々藩主も、その膨大な石高から得られる収入を、武器などには極力使用せず、伝統工芸や伝統文化の育成にお金を注いで、目をつけられないよう気を配ったわけです。
おかげで、見事、前田家は、明治維新が成るその時まで、加賀百万石を維持できるとともに、今に残る伝統文化も受け継がれる事となりました。
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コメント
こんばんは。
質問なんですがこの記事は二代藩主は『前田利常』ですが二代目は利長じゃなかったですっけ?
投稿: ふくちゃん | 2008年10月15日 (水) 20時45分
ふくちゃんさん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、現在、出版されている歴史の本には、利常さんを3代目藩主とするものと、2代目藩主とするものの両方があります。(当然、3代目の場合は利長が2代目です)
それは、本文中にも登場した秀吉の親友・前田利家を、初代・藩主とするか否か?という考え方の違いによるものだと思います。
加賀百万石の祖は利家なので、利家を初代と見る・・・というのも一理あると思いますし間違いではないと思います。
ただ、私の考えは、利家の遺言は「どんな事があっても豊臣を守れ」という事だったわけで、本来、その遺言通りに行動すれば、家康と敵対する事になりますが、それをせず、関ヶ原の合戦で東軍についたのは、息子の利長と妻のまつの「遺言に背いてでも前田家を守る」という判断だったと思います。
結果論ではありますが、それで生き残った事によって江戸時代を通じての加賀藩というものの存在があると考えております。
プラス、利家は豊臣政権時代に亡くなっていますので、その時点で藩というものは存在しません。
上記の二つの理由を重視して、私は、利長が初代・藩主だと考えております。
先ほども言いましたように、だからと言って「利家=初代」というのが間違っているというのではないですよ。
歴史というものは答えがない事が多々あります。
その人が重視する事柄の違いで、様々な考え方があるのが歴史だと思っています。
私は、現在のところ「利長=初代」「利常=2代目」という考え方をさせていただいておりますが、もちろん、これも永遠ではありません。
新たな発見があり、その事を重視するようになれば、その考え方も変わるかも知れない・・・歴史は、常に新しく書き換えられるものだと思いますので・・・
この事は、記事をupする際に、書こうか書くまいか迷った結果、話が横道にソレそうだったので、涙を呑んでヤメた内容だったのですが、ふくちゃんさんのご質問の返答という形で、ここに書く事ができて、気持ちスッキリ!とてもうれしいです。
質問していただいてありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2008年10月15日 (水) 21時35分
そーゆー事だったんですね(^^)
私は仕事の関係で歴史について勉強してるんですが私の持ってる資料は全て利長が二代目になってるので…
私の方こそスッキリです(^_^)v
ありがとうございました。
投稿: ふくちゃん | 2008年10月15日 (水) 23時39分
はじめましてです!
いつも、本当にいつも楽しく拝見させていただいております☆
さて、本日(5月20日)の利長さん毒殺疑惑バカ殿演じきった・利常さんの記事に飛んで参ったのですが、ちょっと疑問に思ったコトがありました。
珠姫さんって、秀忠さんとお江与さんの子供・家康さんの”お孫”さんではなかったですか?
私ごときでおこがましいですが、宜しくお願い致します・・・すみません・・・
※大阪城の屏風展、私も行ってきましたよ☆ピタパで入場割引も利き、内容もかなりよかったし☆ウハウハでした☆※
投稿: おふく | 2009年5月20日 (水) 12時50分
おふくさん、ありがき幸せでございます~
早速、訂正させていただきました~
こういう間違いって、本人は「孫娘」と書いてるつもりなので、何度か読み直しても気づかない事が多く、見つけていただいてお知らせいただく事は、ホント、助かります。
「2度ある事は3度ある」・・・ひょっとして、もう1ヶ所間違ってるところがあるかも知れませんので、また、お気づきになられましたらお教えくださいo(_ _)o
*おぉ・・・おふくさんも屏風、ご覧になりましたか~甲冑や太刀なんかも良いですが、たまには屏風ばかりというのも良かったですね。
私もウハウハでした。
投稿: 茶々 | 2009年5月20日 (水) 17時06分
こんばんわ、です☆
早々のお返事、ありがとうございました!
読まさせていただいている私の方も、この日(08/10/12)は、”孫娘”と頭の中で理解していたものと思われます。
管理人さんの熱くて厚く、且つ篤い語りに、ついつい入り込んでしまうので、”スラスラ~”っと頭の中で読んでしまうのでしょうなぁ・・・。夢中で拝見してます☆
訂正・・というか、解消(?)、ありがとうございました!!
投稿: おふく | 2009年5月22日 (金) 20時50分
おふくさん、こちらこそありがとうございます。
今後ともよろしくお願いしますm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2009年5月22日 (金) 22時34分
前田家って、おまつさんも、2代目も、三代目も、立派な人たちですね。ってツィッターみたいな、つぶやきか!って感じのコメントでごめんなさい。
投稿: MINORU | 2011年11月25日 (金) 00時34分
MINORUさん、こんばんは~
短いコメントでも結構ですよ!
ホントに、前田家は立派な人が多いです。
関ヶ原でもちゃんと保険かけてますしね。
投稿: 茶々 | 2011年11月25日 (金) 02時11分