道鏡事件のウラのウラ
天平宝字八年(764年)10月9日、藤原仲麻呂の乱に関わったとして第47代淳仁天皇が廃され、孝謙太上天皇が第48代称徳天皇として、再び即位しました。
・・・・・・・・・・
江戸時代の川柳に
♪道鏡は
すわるとひざが
三つでき♪
というのがあるのだそうです。
つまり、道鏡の男性としての持ち物がそれほど大きかったと・・・
僧・道鏡(どうきょう)の出身地とされる大阪は八尾の弓削神社では、「笠麿(かさまる)道鏡」と呼ばれる、大木で男性のシンボルを象ったものを担いで、子孫繁栄・五穀豊穣を願って町を練り歩くお祭りがあるのだそうで、これも、物部(もののべ)系の弓削連(ゆげのむらじ)出身の道鏡巨根伝説に由来するものなのでしょうが、その噂のもととなったのは、道鏡を愛してやまなかった第46代孝謙(こうけん)天皇の存在です。
孝謙天皇は、すでにこのブログでも何度か登場していますが・・・
実を言うと、確かに、孝謙天皇は道鏡を寵愛しましたが、実際に二人の間に男女の関係があったかどうかも定かではない事で、ましてや、道鏡の持ち物という事になると、まったくもって根も葉もない噂なのです。
ただ、孝謙天皇が、あまりにも道鏡を重用し、夢中になった事から、そのような噂が・・・。
豪族の家系に生まれた道鏡が、どういう理由で出家したのかは定かではありませんが、あの葛城山で修行し、学識に富み、サンスクリット語を話し、呪験術や宿曜秘法(すくようひほう・ヨガによる健康回復)などを身につけていたという事ですから、もともと、彼はかなりのデキル人であったようです。
孝謙天皇の父である聖武天皇の時代から宮中の道場に仕えていた道鏡でしたが、そこには、彼に匹敵するような僧もたくさんいて、その中から、一歩抜きんでるとい事は、なかなか難しい事でした。
しかし、そんな彼が歴史の表舞台に登場するチャンスがやってきます。
孝謙天皇は、父・聖武天皇と、その皇后・光明子の間に生まれた長女・・・今まで書き忘れてましたが、女性天皇です( ̄○ ̄;)!。
ご存知のように、天皇の地位は、男系男子が継承していくものですから、もともとは、天皇になるはずではなかった孝謙天皇でしたが、期待されて生まれた弟が、1歳で亡くなってしまい、しかも、その間に聖武天皇の別の奥さんとの間に男の子が生まれてしまった事で、「このままでは、他家の女性が産んだ子供が、次期天皇になってしまう」とあせった光明皇后の実家の藤原家の意向で、女性でありながら皇太子となった異例の天皇だったのです。
そんな彼女は、まだ道鏡と出会う前、従兄弟の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に恋をします。
彼には奥さんがいるにも関わらず、仲麻呂の邸宅で寝泊りし、まるで、そこが宮廷のようだった・・・てな話も残るくらいに、一途な彼女・・・。
彼女の従兄弟という事は、母である光明皇后にとっても、仲麻呂はかわいい甥っ子なわけで、病気がちな聖武天皇から、すでに政務の実権を握っていた光明皇后と孝謙天皇の二人に愛されて、仲麻呂はおもしろいように出世していきます。
やがて、仲麻呂オススメの大炊王(おおいおう)に、言われるがまま皇位を譲って、太上天皇となった彼女でしたが、その大炊王が、第47代淳仁天皇となった途端、仲麻呂は、自分の理想としていた新しい都の造営に夢中になり、彼女の事を見向きもしなくなってしまうのです。
「この恋は、終ったのね・・・」と傷心の彼女に追い討ちをかけるように大好きな母・光明皇后も亡くなり(6月7日参照>>)、ひとりぼっちになった彼女は、みるみるうちに元気がなくなり、病気がちになってしまいます。
そんな彼女の病気治療の役をおおせつかったのが道鏡だったのです・・・そう、なんせヨガで元気回復の達人ですから・・・この時彼女は44歳、道鏡も同じか1~2歳年上といったところでしょうか。
病気の時にやさしくされると女は弱いもの、しかし新しい恋に出会った女は強いもの・・・孝謙太上天皇は、またたく間に快復し、元気百倍になるとともに、道鏡大好き度も百倍!
今度は、道鏡がどんどんと出世していきます。
こうなると、おもしろくないのは、仲麻呂です。
彼は、孝謙太上天皇と道鏡の関係について、宮廷内に、おおげさな噂を流し、淳仁天皇を通じて注意したりなんかし始めます。
これに怒った孝謙上皇・・・「そんな事すんねんやったら、天皇の椅子返してぇや!もう、これからは、政務は私がやる~!」
と、天皇復帰宣言をします。
「このままではいかん!」
と、孝謙太上天皇の天皇復帰を阻止しようとする仲麻呂・・・これが、藤原仲麻呂の乱です(9月11日参照>>)。
結局、朝敵となった仲麻呂は、太上天皇の放った軍に追われ、命を落します。
そして、約1ヶ月後の天平宝字八年(764年)10月9日、仲麻呂の庇護のもと天皇となった淳仁天皇は失脚し(10月23日参照>>)、孝謙太上天皇が、再び、第48代称徳(しょうとく)天皇として二度目の皇位についたのです。
しかし、我が世の春は長く続きませんでした。
宇佐八幡から「道鏡を天皇にすれば、天下が太平となるだろう・・・とのお告げが下った」との報告が、大宰府から到着するのです。
皇族以外の人間が天皇になった例は未だなく、にわかに信じ難い称徳天皇は、もう一度、神託を確かめようと、側近・和気広虫(わけのひろむし)の弟・和気清麻呂(わけのきよまろ)を、宇佐八幡へ派遣します。
ところが、清麻呂が授かった神託は、「皇太子には、必ず皇緒の者(皇族)を立てよ」と、一回目とは間逆のお告げが下るのです。
この結果に激怒した道鏡一派が、清麻呂を大隅へ流罪にしてしまう・・・と、一般的な歴史では語られます。
最初の神託は、道鏡が、当時、大宰師(だざいそち)の地位にあった、同族の弓削浄人(きよひと)と結託して、神主に嘘の神託を言わせたとも言われています。
これによって、道鏡は、天皇の地位を狙った天下の悪僧というレッテルを貼られる事になるのですが、以前、その清麻呂流罪のページ(本日とかなり内容かぶってますが・・・9月25日参照>>)でも書かせていただいたように、これは、この次に権力を握る人たちの正当性を印象づけるためのフィクションが多分に含まれている?と、私は思ってます。
もし、本当に道鏡が天皇の座につく事を望んで、ニセの神託を発表したのだとしたら、その天皇の座を望んだのは、道鏡本人ではなく、そのおこぼれに預かろうとするまわりの人間たちでしょう。
しかし、そうだとしても、味方である称徳天皇さえ疑いを持つバレバレのニセ神託を、道鏡の周りの者たちが作ったとは考え難いですよね。
道鏡の権力を維持するなら、もっといい方法がいくらでもあったはずです。
それよりも、ニセの神託を広めて道鏡に難くせをつけ、失脚に追い込もうとする別の勢力が、見るからにオカシイ神託を、ここぞとばかりに明らかにしたと考えるほうが納得いくのかも知れませんね?
その後の清麻呂の神託だって、実際に神様が現れてお告げをしたわけではないでしょうし、こう感じたと神官や巫女が言うだけの事なら、何とでもなりますからね・・・一回目の神託と変わりゃしません。
それは、この後、間もなく称徳天皇が亡くなった時に明らかになります。
称徳天皇が亡くなると同時に道鏡は失脚して流罪となり、逆に、かの清麻呂が政界に復帰するのです。
失意の道鏡は、そのわずか2年後の宝亀三年(722年)4月7日にこの世を去っています。
しかも、その称徳天皇の後に天皇になったのが、第49代光仁天皇・・・この人は、あの天智天皇の孫なのです。
例の壬申の乱(7月22日参照>>)に打ち勝ち、天皇の座についた天武天皇以来、9代・約100年に渡って引き継がれてきた天武天皇の子孫による皇位継承・・・なのに、ここで、いきなり壬申の乱で負けたはずの天智系からの即位です。
臭いますねぇ~
(注:第41代持統天皇と第43代元明天皇は、天智天皇の娘ですが、持統天皇は天武天皇の奥さんで、元明天皇は草壁皇子の奥さんで文武天皇の母・・・それぞれ、次ぎの天皇候補が幼いための中継ぎとして即位していますので、立場的には天武側となります)
ここで、行われたのは、、道鏡という僧の失脚劇ではなく、おそらく、天武派から天智派への政権交代・・・。
そして、もう一つ、藤原氏の中での権力争いの臭いがプンプンします。
あの藤原不比等の4人の子供・藤原四兄弟から枝分かれした藤原家・・・それは、武智麻呂(むちまろ)の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の4つです。
この中で、まずは、麻呂には後継者がなく京家が終わり、次に先の仲麻呂が乱で殺害された事で南家が断絶しました。
そして、今回の光仁天皇は高齢のため、わずか十年で次ぎの天皇が即位するのですが、それが、その光仁天皇の息子の第50代桓武天皇。
桓武天皇の平安遷都は、まさに政権交代の一大イベントだったに違いないのです。
その桓武天皇のブレーンとして、遷都のために力を注ぎ、大活躍する藤原種継は宇合の孫・・・つまり、京家が潰れ、南家がつぶれた後、式家の人間が実権を握った事になります。
ただし、結局、種継は、平安京の完成を見ないまま殺害され、その娘である藤原薬子は、謀反の罪で自害して、この式家も断絶します。
残ったのは房前の北家・・・この後、実権を握り、思うがままに政界を動かすのが、房前から数えて4代目の藤原良房・・・そして、良房からさらに4代目が、あの♪望月のかけたるもなし・・・♪の藤原道長です。
まわりを藤原家で固められ、思うように動くことさえできなかった聖武天皇・・・藤原家に踊らされた感の拭えない称徳天皇・・・そして、もちろん道鏡も・・・
藤原家で、最後まで残り、敵がいなくなった北家が、その全盛の平安時代を牛耳る事を考えれば、何やら壮大な思惑が見えるようです。
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コメント
文中で元明天皇が文武天皇の奥さんになってますが、文武天皇の母の間違いではないですか?
投稿: | 2008年10月 9日 (木) 12時07分
アッ!ホントだ・・・
アレだけ他のページで書いておきながら・・・
情けない(;´д`)トホホ…
早速、書き換えときました~
教えていただいてありがとうございます~
また、間違いに気づかれましたら、教えてください
投稿: 茶々 | 2008年10月 9日 (木) 17時58分
今年は「平城京1300周年」で奈良時代の事に注目が集まりますね。
今日のNHKでこのあと記念式典を放送するようです。
投稿: えびすこ | 2010年10月 9日 (土) 13時33分
えびすこさん、こんばんは~
今日は雨模様でしたが、無事、式典は行われたんでしょうか?
遷都1300年記念祭もあと1ヶ月を切りました。
少し寂しいです。
投稿: 茶々 | 2010年10月10日 (日) 00時51分
記念式典は録画だったようです。
古式ゆかしくやっていましたよ。
関西も昨日は雨でしたか?
関東では大雨でした。
ちなみに今日10月10日は、晴れが多い日ですがまたも雨です。
投稿: えびすこ | 2010年10月10日 (日) 08時19分
えびすこさん、こんにちは~
>記念式典は録画だったようです。
そうでしたか…早とちりして申し訳なかったです。
きょうは関西は晴れてます(◎´∀`)ノ
投稿: 茶々 | 2010年10月10日 (日) 13時08分
こんにちは、お久しぶりです。家はけっこう古い家系ですが、複雑なのです。源平から色々います。中には舎人親王の子孫もいますので、一方を否定するのは難しいです。でも孝謙天皇は出家していました。師である道鏡に何か残したい感じがします。でも天智系に戻ったのは元に戻ったので良かったと思います。百川も国を思っての行動かなと思いました。孝謙天皇の姉と思う井上内親王は長い間斎宮でしたが、年の割に子供を産んだと不思議に思いました。でも藤原もさっさと光仁天皇を即位させた方があんなごたごた騒ぎを起こさなくても良かったのにと思いました。拙い文ですみません。ちょっと体調がすぐれないので纏まっていません。
投稿: non | 2015年4月 2日 (木) 16時50分
nonさん、こんばんは~
道鏡も大きな波に飲み込まれた一人なのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2015年4月 3日 (金) 02時15分
おはようございます。
道鏡について黒岩重吾、今東光は好意的です。
二人とも道鏡は物部の子孫としています。
里中真知子も好意的です。
重吾を読んでいますと弟はクーデターを考えていたようですが、道鏡はやめろと言っていますのでかなり現実的になっていると思いました。
そう言えば道鏡は栃木で慕われています。道鏡さんの名誉回復を願うと西大寺並に熱があります。
多分孝謙天皇と道鏡はプラトニックラブだろうと思います。
最後にお聞きしたいのですが、孝謙天皇は出家していましたが、髪を剃っていたでしょうか?
剃っていなくても袈裟を着ていたのでかなり異様な雰囲気でしょう。
投稿: non | 2015年4月 3日 (金) 06時40分
nonさん、こんにちは~
>孝謙天皇は出家していましたが、髪を剃っていたでしょうか?
どうなんでしょう?
蘇我馬子の時代に、日本で最初に尼僧となった司馬達等の3人の娘さん>>は剃髪していたそうですが、平安時代の貴族の姫は尼削ぎですね~
尼削ぎになるのは天台宗や真言宗が入って来てから…という話も聞くので、孝謙天皇は剃ってたかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2015年4月 4日 (土) 04時47分
茶々さん、こんにちは。
私は鬱状態なので何もする気が無いです。寝ていても疲れるので投稿します。
この状態で思うのは孝謙天皇は由良宮にいたときには鬱状態だったのではと思います。道鏡が助けてくれたのでしょう。ただ恩人なので感謝しただけと思いますし、崩御前の時は永手、真備が軍権を握っていましたので道鏡はある意味で言いますと宗教指導者かなと思いました。
南家と言いますと兄の豊成の子孫が伊予親王事件まで力がありました。京家は麻呂以降は浜成だけですが、式家は吉野までという様に北家以外も平安までは力があったので・・・仲麻呂は藤原一族から勘当されたのではと思います。
最後にエジプトの王族は剃髪していたそうです。ネタルフィフィ、クレオパトラもそうみたいですし、ロシアのニコライ2世の子女も病気で剃髪しました。何だか病気になりますと剃髪するのが古今東西の習わしでしょうか?
投稿: non | 2016年3月24日 (木) 14時52分
nonさん、こんにちは~
帝という地位におられる方は、何かと苦悩が多かったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年3月24日 (木) 18時45分
単なる誤字です。
最初の方で、
”つまり、道鏡の男性としての持ち物がそれほど多きかったと・・・”
X 多きかった
○大きかった
投稿: けんさん | 2017年7月24日 (月) 10時02分
けんさんさん、こんにちは~
わぉ!本当ですね。
見つけていただいてありがとうございます。
訂正させていただいときます。
投稿: 茶々 | 2017年7月24日 (月) 14時36分
茶々さん、こんばんは。
ブログの調子が悪いらしいし、ココログの公式サイトを覗いてみると利用者の大ブーイングの嵐だし、このコメントを投稿してもちゃんと茶々さんのところに送られるのかなと不安ですが、投稿します。
道鏡について、寵臣といっても周りから嫉妬されて大変だろうに、道鏡は官位を拒否できなかった源義経みたいに頼まれたら断れないタイプで、だから孝謙天皇の寵愛を拒否できなかったんじゃないの?など色々な想像をしてしまいますが、
正倉院の本を読んでいたら、恵美押勝の乱より少し前の762年に「欧陽こうの書屏風を道鏡に貸し出す」とあって、
ええっ!?数百年後ならともかく、聖武天皇と光明皇后の崩御の記憶がまだ新しい時期に遺品を貸して下さいだなんて大胆な要求をするな~と驚きました。
現代で例えると、「昭和天皇の遺品を貸してください」ということになるので、それは戦後に生きる現代人でも畏れ多くて無理に思えます。
勿論、孝謙天皇の方から是非使ってくださいと貸し出させた可能性もありますが、もし道鏡の方から要求したというのなら、ただの野心家ではないような一面を垣間見たような気がします。
投稿: 禿鼠 | 2019年3月24日 (日) 22時29分
禿鼠さん、こんばんは~
コメントはちゃんと届いてましたヨ!
ありがとうございます。
おっしゃる通り、道鏡自身は結構マジメで誠実な人だったように私も思います。
ただ…いつの時代もそうですが、その恩恵にタダで預かろうとする輩が色々やらかしたんじゃないか?と…
…にしても、今回のココログのリニューアルは散々です(><)
私の場合は、何とか管理画面に入ることができて記事の更新もでき、こうしてコメントも無事にやり取りできている状態ですが、これも、別のところにある「ブログを最新の状態にする」ボタンをいちいち押さないと、何一つ更新されない状況です。
しかも、チョイチョイ個別ページのURLが変ってしまっているようで(まだブログ全体を確認してないのですが)、検索からのアクセスが2割ほど減ってしまうわ、ブログ内でのリンクが切れてしまってるわで、未だに混乱してます。
ココログ側のシステム変更なのに、何をどうしたら「個人ブログ内の一部のページだけのURLが変わる」なんて状況が起きるのか?
ホント、不可解なリニューアルです。
とりあえず、コメントは大丈夫のようなので、今後ともよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2019年3月25日 (月) 02時40分