負けたのに勝った?人たらし秀吉の離れ業
天正十四年(1586)10月17日、羽柴(豊臣)秀吉からの再三の要請に応じて、徳川家康が上洛を決意・・・この時から家康は、秀吉の臣下という事になります。
・・・・・・・・・・・
日本の歴史に、天下人としてその名を残す二人・・・豊臣秀吉と徳川家康。
この二人の生涯たった一度の直接対決が、かの小牧長久手の戦いです。
天正十二年(1584年)3月12日の亀山城攻防戦(3月12日参照>>)を皮切りに、前半の小牧の戦い(犬山城攻略戦と羽黒の戦いの総称)と後半の長久手の戦い、そしてラストの蟹江城攻防戦・・・これらをひっくるめて小牧長久手の戦いと呼びますが、果たしてこの戦いは、家康の勝利なのか?それとも秀吉の勝利なのか?
そもそもは、織田信長亡き後の織田家後継者の中で、まんまと秀吉の口車に乗せられ、弟の神戸信孝(かんべのぶたか=信長の三男)を葬り去った(5月2日参照>>)兄・織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)が、遅ればせながら「秀吉は、家臣として織田家後継者を支えようとしているのではなく、自らが信長の後継者だと思っている」という事に気づいて、徳川家康を頼って、秀吉に対抗しようとしたのが、小牧長久手の戦いの発端です。
その信雄と家康の動きを察した秀吉・・・まずは、天正十二年(1584年)3月13日に信雄傘下の中川定家が城主を務める犬山城を、配下の池田恒興(つねおき)に攻略させました(3月13日参照>>)。
しかし、秀吉勢の調子が良かったのは、この犬山城攻略戦だけ・・・。
直後の羽黒の戦い(3月17日参照>>)では、森長可(ながよし)が見事に家康にしてやられ、4月9日の長久手の戦い(07年4月9日参照>>)に至っては、犬山城を攻略した恒興も、汚名返上を賭けた長可も討死してしまう(08年4月9日参照>>)という大惨事となってしまいます。
さらに、最終戦となった蟹江合戦(6月15日参照>>)では、一旦手に入れた蟹江城を奪い返され、屈辱的な敗退となってしまいました。
つまり、一連の小牧長久手の戦いのそれぞれの戦いは、ほぼ、織田・徳川連合軍の勝利に終っているのです。
ところが・・・です。
ところが、冒頭に書いた通り・・・
家康はこれだけ勝っておきながら、秀吉の臣下となるのです。
局地戦に勝ったのは家康・・・しかし、一連の小牧長久手の戦いに勝ったのは秀吉なのです。
この奇妙な現象は、ひとえに、合戦ではないところでの秀吉の巧みさと、その秀吉に策略に見事なまでに乗ってくれた戦国屈指の憎めないキャラ・信雄くん(その生涯は4月30日参照>>)の成せるワザ・・・。
おそらく、その時点での総兵力は秀吉のほうがまさっていたでしょうから、その蟹江合戦の後に、秀吉が全勢力を傾けて家康に対したなら、普通に合戦して勝利した可能性もゼロではありません。
しかし、秀吉には、まだまだ他に、平定したい相手がいました。
信長がやろうとしていた西国の毛利や四国の長宗我部(ちょうそかべ)、さらに紀州(和歌山県)の根来衆も・・・。
されど、片手間にそっちをやりながら、家康と相まみえても、勝利できない事は、この小牧長久手で充分悟りました。
そこで、秀吉は、作戦変更・・・強い家康をそのままほっといて、丸めこめそうな信雄にターゲットにを絞るのです。
蟹江合戦のあと、一旦大坂城に戻っていた秀吉は、8月に再び出陣し、家康がすぐには駆けつけられない距離にある戸木城(へきじょう・三重県津市)を、蒲生氏郷(がもううじさと)に落とさせて、信雄を圧迫した後、そっと講和を持ちかけるのです。
どこをどうウマくやったのか・・・
家康にまったく悟られる事なく、信雄ひとりに接近し、11月15日(または11日)、伊勢4郡を信雄に戻すという条件で、見事に講和を成功させます(11月16日参照>>)。
家康にとっては青天の霹靂です。
もともとは、信雄から「一緒に戦かってぇ~」と持ちかけられた合戦です。
それを、独断で勝手に講和されちゃぁ・・・何のために戦ってるんだか・・・。
こっちはそうでもないのに、「好き好き」言われて、しかたなくつき合った彼女に、思いっきりフラれるようなもんです。
「お前から言うて来たんやないかい!」と返したいくらいです。
この時の、家康派の動揺は、あの佐々成政(さっさなりまさ)が、命がけで極寒の北アルプス越え(11月11日参照>>)をして、家康に会いに来た事でも伺えます。
信雄の単独講和で、秀吉と戦う大義名分を無くした家康は、振り上げたこぶしを収めるしかなくなってしまい、10日後の11月21日、家康も秀吉との講和を結んで浜松へ帰還(11月21日参照>>)・・・これで、小牧長久手の戦いは終了するわけですが、その後、秀吉は、家康に対し、再三の上洛を求めます。
しぶる家康に、妹・旭(あさひ・朝日)を嫁として差し出しますが、この時代の政略結婚はイコール人質です。
この時、秀吉の妹・旭は44歳・・・10代での結婚があたりまえで、22歳のお市の方でさえ、晩婚の部類に入るこの時代に44歳はケタ違い・・・しかも、別の人と結婚していたにも関わらず、それを離縁させてまでの家康との結婚です(4月28日参照>>)。
さらに、その旭姫の病気見舞いと称して、実母・なかまでもを、家康のもとへ差し出した秀吉・・・。
こうして、結局、家康は、天正十四年(1586)10月17日、上洛して秀吉との会見をする決意をしたワケです。
その10日後に、大坂城で行われる事になった会見・・・その前日、大坂に入って、秀吉の弟・秀長の屋敷に宿泊していた家康のもとへ、秀吉は、こっそりやってきます。
「わが弟よ!よく来てくれた!」と、大喜び。
そして・・・
「明日、大坂城で、皆に君を紹介するから、一瞬だけ頭を下げて、皆に挨拶してちょ」
と、メチャメチャ軽いノリで頼んだのです。
とりあえず、「わかりました」と返答した家康・・・。
かくして、10月27日の大坂城・・・
大広間に諸大名が居並ぶ中、「三河殿」と呼ばれて、約束通り、チョコッとだけ、挨拶がわりのつもりで頭を下げた家康・・・そこに間髪入れず・・・
「上洛、大儀であった!」
と、昨晩の軽いノリからは、想像もできない、りんとした態度で、力強く言い放った秀吉・・・この一瞬、さすがの家康も、「してやられた・・・」と思ったに違いありません。
威厳たっぷりに家康を見下ろす秀吉と、頭を下げた家康・・・まわりの大名から見れば、どこをどう見ても、家康が秀吉の臣下に入ったとしか見えないこの状況・・・。
あの信長にでさえ、同盟関係であって家臣ではなかった家康が・・・
こうして、秀吉はその人たらしの見事なワザで、小牧長久手の戦いに負けながら勝ったのです。
ま、あくまで「そうだったんじゃないか?劇場」みたいな想像の部分も含む…ではあります。。。
小牧長久手・関連ページ
●3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
●3月12日:亀山城の戦い>>
●3月13日:犬山城攻略戦>>
●3月14日:峯城が開城>>
●3月17日:羽黒の戦い>>
●3月19日:松ヶ島城が開城>>
●3月22日:岸和田城・攻防戦>>
●3月28日:小牧の陣>>
●4月9日:長久手の戦い>>
:鬼武蔵・森長可>>
:本多忠勝の後方支援>>
●4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
●6月15日:蟹江城攻防戦>>
●8月28日:末森城攻防戦>>
●10月14日:鳥越城攻防戦>>
●11月15日:和睦成立>>
●11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
●翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
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コメント
お久しぶりです。いやぁ…いつ見てもこのブログは面白くて為になりますね。あっ、でも今日は一ヶ所だけ誤字を見つけちゃいました。池田恒興が輝興になってましたよ。
投稿: マー君 | 2008年10月17日 (金) 12時07分
マー君さん、ありがとうございます
o(_ _)oペコッ
また、やっちゃってましたね。。。。
しかも、「つねおき」とルビをふっておきながら・・・
訂正しておきました~
投稿: 茶々 | 2008年10月17日 (金) 16時36分
文章を見ると臣下になるのは「やらせ」だと思うんですが、家康が「やむをえん」と言う気持ちではなく、「猫をかぶってやろう」と言う心境とすれば、これは周りにいる秀吉の家臣を騙したともいえますね。タヌキおやじの本領ですね。来年の大河の家康上洛の場面は、おそらく上記の解釈になると思いますよ。
投稿: えびすこ | 2010年7月17日 (土) 09時50分
えびすこさん、こんにちは~
そうですね。
家康の気持ちは、家康に聞いてみないとわからないので、ひょっとしたら猫かぶりなのかも…
個人的には、やはり、信長とのような同盟関係を望んでいたような気もしますが…
投稿: 茶々 | 2010年7月17日 (土) 14時43分