希望と不安を抱いて~大海人皇子・吉野へ出発
天智十年(671年)10月19日、第38代・天智天皇からの皇位継承を固辞した弟・大海人皇子が、吉野に向かって出発しました。
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20歳の時に、中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)とともに乙巳の変(6月12日参照>>)で蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)父子を倒し、その後即位した第36代孝徳天皇(6月14日参照>>)のもと大化の改新を支え、次の第37代・斉明天皇(7月24日参照>>)をサポートし、白村江の戦い(8月27日参照>>)という海外出兵も経験するという波乱の皇太子時代を送った中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が、近江(滋賀県)の大津宮に都を遷し(3月19日参照>>)、天智天皇として即位したのは、天智七年(668年)・・・天皇が43歳の時でした。
しかし、その翌年には、ともに歩んできた鎌足が亡くなり(10月15日参照>>)、その頃には、大化の改新の直後には手を組んで政務をこなしていた弟の大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)との間にも、大きなズレが生じるようになっていました。
それは、天智天皇と大海人皇子の二人を手玉に取った額田王(ぬかたのおおきみ)という女性との三角関係も噂されますが(1月6日参照>>)、それよりも、むしろ、二人の方向性の違い・・・描く未来に差があったというところでしょうか。
二人ともがデキル人物であるが故に、その方向性に違いが生じると、修復が困難な亀裂ができてしまう・・・それは、やがて、天智天皇の後継者という問題に発展します。
早々と、大海人皇子を皇太子に立てていた天智天皇ですが、天皇には日々成長を続ける大友皇子(おおとものみこ)という息子がいます。
ご本人たちの意思はともかく、朝廷内には、天皇と考えの違う皇太子・大海人皇子より、天皇の意思を継ぐ大友皇子のほうが後継者にふさわしいのではないか?という意見が生まれる事になります。
そんな中、天智十年(671年)の秋頃から、天智天皇は病に臥せるようになります。
10月17日、天皇は蘇我安麻呂(そがのやすまろ)を使者に立て、病床の枕元に大海人皇子を呼びました。
この時、すでに大海人皇子と親しい関係にあった安麻呂は、天皇との対面に向かう大海人皇子に対して「用心しなはれや~」と言ったとか言わなかったとか・・・
この時の大海人皇子の出方しだいでは、宮殿を出た直後に殺害する準備もしていた・・・なんて話もありますが、天皇が、そこまで、息子の大友皇子を後継者にしたかったどうかは、疑わしい部分もあります。
なんせ、天智天皇は、その生涯で一言も、息子に天皇の座を譲ってくれと大海人皇子に言った事もないし、皇太子を交代してくれとも言った事がないわけで、後に、壬申の乱という大乱が起こるのだから、この時点で、後継者争いがあったのだろうと、後の世の人間が勝手に思っているだけかも知れないわけですから・・・。
現に、この日、大海人皇子と面会した天智天皇は、「後をよろしく」と、大海人皇子に皇位を継承するように頼んでいるのです。
しかし、大海人皇子自身が、「僕は病気がちなんでできません・・・倭姫王(やまとひめのおおきみ・天智天皇の皇后)に皇位を譲って、大友皇子に政務をやってもらってください」と、断ってしまいます。
そして、「出家する」と言って退室し、その場で剃髪し、身につけていた武器を返上するのです。
もちろん、安麻呂が言ったように、その言葉通りに受け止めて、大海人皇子が皇位継承をOKしていたら、その場で殺害・・・なんて事になってたかも知れませんが、逆に、天皇は本気で皇位を譲ろうと思っていたかも知れません・・・お互いの心の内までは、計り知れませんからねぇ。
かくして、天智十年(671年)10月19日未明・・・大海人皇子は妃の鵜野讃良々皇女(うののさららのおうじょ・天智天皇の娘)、息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)以下、舎人(とねり)や女官ら数十名とともに、大津宮を出発したのです。
『日本書紀』では、この日、天智天皇に、行き先が吉野である事を告げ、その許しを得てからの出発という事ですが、未明という事は、その夜中のうちに許しを得たのか?それとも事後報告だったのか?という感じですが、出発に際しては、天智天皇の重臣である蘇我赤兄(そがのあかえ)・中臣金(なかとみのかね)・蘇我果安(そがのはたやす)の三人が宇治まで見送ったという事です。
この見送りに関しても、都を出てから大海人皇子を殺害しようとしていたとか、大海人皇子に疑いを持っていた彼らが本当に大海人皇子が吉野に行くのかどうか確認しようとしたとか、別れる事になった兄弟に本当は仲良くしてもらいたかったという純粋な気持ちからの見送りだったとか、様々な解釈がされていますが、この中のひとりが、「虎に翼を着けて放つようなものだ」と言ったというのが、もし本当であったなら、やはり、すでに未来に起こる大乱のきざしがあったという事なのでしょう。
虎とは、もちろん大海人皇子の事・・・ただでさえ強い虎に翼を着けて放つのですから、いかに危険かという意味です。
しかし、当の大海人皇子は、それほど強気の吉野行きではなかったと思います。
かつて、蘇我入鹿が次期天皇にと願っていた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ・天智天皇と大海人皇子の異母兄)も、入鹿が中大兄皇子に暗殺された時に、逃げるように吉野に入っていますが、その後、弟・天智天皇の手によって殺害されています。
たとえ、この吉野行きが、近江朝廷を倒すための準備のためであったとしても、そのタイミングで予定通りの確かな準備が整うかどうかも、それまでの間に古人大兄皇子のように追手が放たれるかどうかも、現時点では予測不可能なわけで、必ず生きて帰れるかどうかの保証ない旅立ちだったでしょう。
三人の重臣に見送られて旅立った大海人皇子ご一行は、その日のうちに明日香に到着し、翌・20日には吉野に向かって峠越えをするのですが、その時詠んだ大海人皇子の歌が『万葉集』に残っています。
♪ み吉野の 耳我(みみが)の嶺に
時なくそ 雪は落(ふ)りける
間なくそ 雨は零(ふ)りける
その雪の 時なきが如(ごと)
その雨の 間なきが如
隈(くま)も落ちず 思ひつつぞ来(こ)し
その山道を ♪
「吉野の耳我峯に、深々と雪は降り、絶え間なく雨が降る・・・まるで、その雪は永遠に降り続くかのように、その雨は止む事がないかのように・・・そんな思いを抱きながら山道をひたすら歩いた・・・」
降り続く雨など無いのに、まるでその雨が永遠のように思える・・・明日は晴れるという見通しのたたない不安な時、人は、このような心境になるのではないでしょうか?
虎に例えられた男でさえ不安なこの山道を、夫・大海人皇子とともに、この日、この道を歩いたであろう鵜野讃良皇女は、時に前を見据え、時に後ろをふりかえりながら、ただ一縷の望みを持って着いて行った事でしょう。
そんな思いを抱えながら歩いた山道・・・それが、先日ご紹介した奥明日香(9月5日参照>>)・・・あの芋峠を越える飛鳥川沿いの道だったとされています。
そのページでも書かせていただいた通り、後に持統天皇となった鵜野讃良皇女は、その生涯で、合計31回も吉野へ通います。
彼女が、吉野に、そして、この道にそこまでこだわったのは、おそらく、この日の吉野行きこそが、夫婦二人の転機であったからではないでしょうか。
やがて、一と月半後の12月3日、天智天皇はこの世を去り(12月3日参照>>)、大海人皇子が吉野を出る時が刻々と近づく事となりますが、そのお話は6月25日のページで>>。
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