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2008年10月27日 (月)

天皇の権威復活~正親町天皇と織田信長

 

弘治三年(1557年)10月27日、後奈良天皇の崩御のため、第106代・正親町天皇が践祚(せんそ・皇位を受け継ぐ事)しました。

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群雄割拠した戦国時代も後半に入って、天下統一の実力を持つ武将が登場します。

ご存知、織田信長豊臣秀吉徳川家康・・・。

以前も書かせていただきましたが、この三人の天下人と、ほぼ同じ時代を生きる天皇も三人・・・

徳川家康には、家康の孫・徳川和子を中宮に迎え、その徳川の血を引く娘に皇位を譲る後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)

豊臣秀吉には、常に天皇家を大事にしてくれる秀吉に、源平藤橘(げんぺいとうきつ)と同等の貴種・豊臣の姓を与える後陽成(ごようぜい)天皇(4月14日参照>>)

Odanobunaga400a そして、織田信長と時代をともにしたのが、本日の第106代・正親町(おおぎまち)天皇です。

この二人の関係は・・・
悪く言えば癒着した政治家と企業のような、良く言えば持ちつ持たれつの関係・・・そう、この正親町天皇は、天皇というよりも、政治家なみの駆け引き手腕を発揮してくれます。

・・・というのも、あの応仁の乱(5月20日参照>>)以来続く戦乱の世・・・有名無実のような室町幕府では、地方からの税もままならず、朝廷は常に貧窮状態

この頃は、先祖代々受け継いできた儀式も中止せざるを得なくなり、亡くなった先の天皇の葬式さえ行えない状態で、その権威も地に落ちていたのです。

現に、この正親町天皇の父の後奈良天皇(9月5日参照>>)も、そのまた父・祖父の後柏原天皇も、費用不足で皇位を継いでから20年以上もの間、即位の礼をまともに行う事ができなかったのです。

もちろん、即位の礼を行えない状況は、今回の正親町天皇も同じ・・・。

冒頭にも書いた通り、正親町天皇が皇位を継いだのは、弘治三年(1557年)10月27日・・・信長がようやく弟・信行との後継者争いに終止符を打ち(11月2日参照>>)、あの武田信玄上杉謙信川中島で3度目の合戦(8月29日参照>>)をおっぱじめていた頃です。

そんな正親町天皇が即位の礼を行う事ができたのは、皇位を継いでから4年目の事・・・この時、そのための費用を出したのが、あの毛利元就でした。

元就は、弘治元年(1555年)に厳島の戦い(10月1日参照>>)に勝利して、名門・大内氏を滅亡させ、さらに南北朝から続く尼子氏を脅かしつつある、まさに新進気鋭の上り調子真っ只中!

この時、正親町天皇は元就を陸奥守に任じ桐菊の紋を与えています。

そうです・・・ここから、正親町天皇の、由緒正しくない新参者の戦国武将たちに、天皇家との関係を持つ事で、その権威のおすそ分けをし、反対に寄付や御殿の修理を頼むという持ちつ持たれつの関係をフル活用する天皇家復活作戦の始まりです。

そして、この正親町天皇が皇位を継いでから即位の礼をする4年の間に、桶狭間の戦い(5月19日参照>>)で全国ネットに躍り出たのが、かの信長・・・。

やがて、その信長は、足利義昭を奉じて上洛する事になりますが、この際には、正親町天皇は、安寧を祈願するとともに、応仁の乱以来のたびたびの戦火の怯える公家たちへの根回しするかたわら、信長に対しては、京の人々に危害を加えぬよう軍の規律をしっかりと保つようにと伝えています。

これによって、信長軍は、抵抗勢力の六角氏を撃ち破りさえすれば(9月12日参照>>)、意外にすんなりと京に入る事ができ、京の人々にもすこぶる評判が良かったのです。(入京後に三好との戦いがありますが→9月7日参照>>)

その後、信長は、ともに上洛して第15代室町幕府将軍となった義昭との関係が悪化(1月23日参照>>)しても、天皇家へは皇室御用地や公家の領地回復、紫宸殿や清涼殿の修理、借金返済に困った公家のための徳政令を発布・・・などなど、様々な援助を続けます。

時には、信長が、義昭への攻撃を口実に御所の近くである上京を焼き討ち(4月4日参照>>)したりもしたものの、正親町天皇のほうも、天正二年(1774年)3月28日には、大事な大事な正倉院のお宝の香木・蘭奢待(らんじゃたい)を削らせてあげたり(3月28日参照>>)天正六年(1578年)の11月4日には、信長の要請に答えて、石山本願寺&毛利との和解の仲裁に入ったりと大サービス!

しかし、その良好な関係の中、信長は、たびたび正親町天皇に譲位するよう求めるようになるのです。

なので、天正九年(1581年)に天皇の前で行った、御馬揃(おうまぞろえ)なる軍事パレード(2月28日参照>>)も、一説には、天皇にその武力を誇示するため・・・なんて事も言われたりしますが、実はそこには、天皇と朝廷のモロモロがあるのですが、そのお話は2011年11月4日のページでどうぞ>>

やがて正親町天皇は、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任命する事で、良好な関係を維持する決意を固めるのですが・・・

しかし・・・
ご存知のように、信長は、そのいずれかが欲しいのか?それとも、すべてを蹴るのか?の返答もしないまま、あの本能寺で自害する事になってしまいました(6月2日参照>>)

謎多き本能寺の変の黒幕として、天皇をはじめとする朝廷内の公家の名前が、推理の一つとしてあがるのも、上記のように、正親町天皇と信長の関係が、徐々に壊れつつあったからなのでは?・・・という観点からなのです。

やがて、信長を討った明智光秀山崎の合戦(6月13日参照>>)で破った秀吉を、天正十三年(1585年)に関白に任じ、正親町天皇は孫の和仁(周仁・後陽成天皇)親王に皇位を譲り、自らは上皇となりました。

この譲位というのも、第102代・後花園天皇(在位:1428年~1464年=永享の乱とかの時代です・2月10日参照>>から、約120年ぶりの事となります。

つまり、この120年間は、先の天皇が亡くなったので次の天皇が・・・という流れのままだった状態から、正親町天皇が信長や力のある戦国武将との連携をうまく保った事によって、天皇家の地位を回復させたというわけです。

そして冒頭に書いたように、この次は、戦国天下人篇・第二幕・・・【後陽成天皇と豊臣秀吉】>> へとつながっていきます。
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