道三より大物?斉藤義龍の「親から国盗り物語」
弘治元年(1555年)10月22日、美濃・稲葉山城内で、斉藤道三の嫡男・斉藤義龍が弟の孫四郎と喜平次を騙まし討ちしました。
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一介の油売りから、美濃(岐阜県)の実力者・長井長弘の家臣となって、主君である長井氏を乗っ取り、その長井氏の主君だった守護代・斉藤利長の斉藤氏を乗っ取り、さらにその上の主君だった守護・土岐頼芸(ときよりなり)も追放して、ついに美濃一国を手にした斉藤道三(さいとうどうさん)・・・ご存知『国盗り物語』の主人公で、戦国下極上の代表格です。
まぁ、現在では、この国盗り劇は父子2代の物語ってのが定説(1月13日参照>>)となってますが、それでも、代表格は代表格・・・
で・・・天文二十一年(1552年)に、その美濃乗っ取り劇を行った道三は、天文二十三年(1554年)には、すでに隠居して稲葉山城から鷺山城へと移り、嫡男の斉藤義龍(よしたつ)に家督を譲ったとされますが、それが事実だとすると、一国一城の主という状態は、たった2年間だったという事になります。
ただし、この隠居劇は、江戸時代以降の軍記物に出て来るお話で、おそらく道三は天文二十三年の時点では、まだ、隠居はしておらず、この10月22日の嫡男・義龍の弟・殺害事件を以って、息子によるクーデターが決行されたと考えるべきでしょう。
もちろん、その火種は、もっと以前からありました。
かの『信長公記』によれば・・・
「道三は長男・義龍の事を「アホ」と罵り、次男の孫四郎や三男の喜平次を「利口」として、下の二人ばかりを溺愛した事で、義龍との間に亀裂が入った」とあります。
この道三の態度から、次第に、二人の弟も、兄を侮るようになり、道三+弟二人VS義龍の構図ができあがっていく事になります。
やがて、弘治元年(1555年)の10月に入った頃から、義龍は病と称して、稲葉山城の奥に引きこもってしまうのです。
そして、訪れた弘治元年(1555年)10月22日、この日、稲葉山城の麓にある井口(いのくち)にある私邸に向かった道三・・・義龍は、このスキを狙って、二人の弟をそばに呼び寄せ、殺害を謀ったのです。
この報を聞いて驚いた道三は、急遽手勢を集めて、稲葉山城下を焼き払い、長良川を渡って対岸へと逃走します。
・・・つまり、ここで道三は鷺山城へ入り、義龍が家督を継いだという事になるのではないか?と思います。
なぜなら、天文二十三年の時点で、道三が隠居して鷺山城に居るなら、わざわざ井口に出かけているスキを狙う必要もありませんし、すでに家督を譲られているのなら、あえて強硬手段に出なくても・・・という気がするのです。
道三が井口に出かけている間に弟を殺害するのは、何より、道三がまだ稲葉山城にいたからであり、家督を弟のどちらかに譲ろうとしていたからに他ならないのではないでしょうか。
ところで、弟二人を騙まし討ちして、父親を追放して・・・というと、なにやら義龍さん、極悪非道な人のようにも思いますが、どうやらそうでもないようです。
・・・と言うのは、以前、道三のご命日となる長良川の戦いの日に書かせていただきましたが(4月20日参照>>)、この後、道三・義龍父子が決着をつけるべく戦ったその合戦での、お互いの手勢の数です。
この合戦は、斉藤家の父子の戦い・・・つまり、どちらの兵も、斉藤家の家臣なわけですが、道三の呼びかけに答えたのは約2千。
一方の義龍に味方した者は、1万7千と言われています。
義龍が極悪非道で強引なクーデターを決行していたなら、たとえ、彼が稲葉山城に陣取っていたとしても、これほど多くの家臣の支持を得たとは、とても考え難い・・・ここに、単に弟のデキがいいから可愛がったというだけの親子の衝突でない事がうかがえます。
よく、耳にするのは、義龍が道三の実子ではなかったという話です。
義龍の母である深芳野(みよしの・三芳ノ方)は、もともと、かの土岐頼芸の側室だったのですが、彼女は評判の美人・・・どこかで、彼女を見かけた道三はたちまちのうちに一目惚れしてしまい、半ば脅す雰囲気で、当時は主君であった頼芸に頼み込んで、「そんなに好きならば・・・」と、譲り受けた女性だったのです。
しかし、その後、ほどなく義龍を生んだ事から、「譲り受けた時には、すでに妊娠していた」という噂が・・・もちろん、その子供が義龍なのですが、そうなると、その後の土岐氏は道三によって乗っ取られるのですから、当然、義龍にとっては道三は父の仇という事になります。
ただし、今のところ、これは事実ではなく後世の創作とされています。
ただ、そうでなくても、噂があったのは確かなようで、義龍は、むしろ、これを利用したようです。
なんせ、土岐氏を乗っ取っての国主・・・たとえ新参者のトップであれ、乗っ取られた以上、傘下に入らざるを得ないものの、以前からの土岐氏の家臣が、斉藤家にはたくさんいたわけですから、もしかしたら土岐氏の血を引くかもしれない・・・となると、名門のプライド高い彼らは、俄然、義龍の味方となるのです。
さらに、もう一つ・・・『信長公記』には、
「道三は、大した罪でもない者を、牛裂きにしたり、釜を置いて奥さんや親兄弟に火を焚かせて煮殺したりの凄まじい成敗をした」というような事が書かれてあり、どうやら道三は、その力ずくの下克上さながらの、強引な統治の仕方をしていたようです。
土岐氏を倒してから、この義龍のクーデターまで、わずか3年ですから、それだけで道三の領国統治能力をうんぬんする事はできないかも知れませんが、わりと早いうちから、家臣の信望を失い、領国経営がうまくいっていなかったのは確かなようです。
乗っ取りがウマイから経営もウマイとは限りませんからねぇ。
そして、道三が嫌っていた事や実子ではないの噂が流れる事でも垣間見えるように、義龍は父親には似ず、母親似で、心穏やかなイケメン(イケメンは家臣となるのに関係ないが・・・)、その人望もあつく、多くの家臣の心を掌握したという事なのです。
結果、長良川の戦いでの数の差というものが生まれてくる事になるわけです。
親子の亀裂というよりは、家臣・領民のために起こるべくして起こったクーデター・・・かくして、親子による国盗り物語の行方は・・・2012年4月20日のページでどうぞ>>
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長良川の戦いの関連ページ:10月19日【道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状】もどうぞ>>
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