武田信虎・甲斐統一!飯田河原の戦い
大永元年(1521年)10月16日、甲斐(山梨県)に進攻した福島正成を、武田信虎が撃退した飯田河原の戦いがありました。
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とにかく、謎の多い戦いです。
中世甲斐国の基本史料である『勝山記』にも、どのような状況だったのか、くわしい記述はなく、そもそもの福島正成の甲斐進攻に関しても、当時、駿河(静岡県東部)の戦国大名だった今川氏親(うじちか)の命令によって・・・という話と、逆に、正成が氏親と対立した末の独断での進攻であったという話の両方があります。
また、この飯田河原の戦いに続く上条河原の戦いで討死したとされる、その正成自身も、討たれた者が正成本人だったか、福島を名乗る別人であったかの判断が難しいとされています。
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この年の2月末頃、駿河の今川氏の重臣であった土方城主・福島正成が、1万5千の大軍を率いて、甲斐の南部へやって来ます。
この時、甲斐一国をほぼ手中に収めていたのは武田信虎でしたが、それは、今川の支援を受けながら、最後まで抵抗していた甲斐西部の国人・大井信達の娘=後の大井夫人を嫁に取って成された和睦で(9月28日参照>>)、しかも、たった一年前の事・・・甲斐国内の国人たちは、一応傘下の姿勢は見せているものの、未だどう動くかわからない状況でした。
そんな中、9月には、甲斐国内の富田城・勝山城などの諸城を攻略しながら、さらに北上をした福島勢は、信虎の本拠地・躑躅(つつじ)ヶ崎館(甲府市)に迫ります。
10月に入って、いよいよ危機感をつのらせた信虎は、当時妊娠中だった大井夫人を要害山城(もしくは積翠寺)に非難させると、大永元年(1521年)10月16日、自ら2千の兵を率いて、飯田河原にて、これを迎え撃つ事になりました。
この時は、数の上でも絶対的に不利だった武田方でしたが、わずかに地の利はコチラにアリ・・・信虎は虚兵の計(兵の数をゴマかして多く見せる)など駆使して、敵の将兵数百騎を撃ち取るという大勝利を収めます。
しかし、これでも、福島勢はわずかに後退しただけで、軍勢そのものが国元へ退いたわけではありませんので、まだまだ余談を許さない状態でしたが、そんな中、かの大井夫人が、11月3日に男の子を出産したというニュースが陣中に舞い込みます。
後継ぎの誕生に士気上がる武田勢・・・この男の子は勝千代と名付けられますが、そう、すでにお気づきの、後の晴信=武田信玄です。
将兵たちの士気の上昇は、そのまま武田方の追い風となり、11月22日、再び両者は上条河原の戦いに突入します。
今度の衝突は、日中の戦いこそ引き分けに終ったものの、22日から23日にかけての深夜の武田勢の夜襲によって勝敗が決したという事です。
武田勢は、またまた数百騎の敵を討ち、福島勢の総死者は4千に及び、大将の正成以下、多くの重臣が討死し、武田方の大勝利とされていますが、そのワリには、福島方が撤退したのが、翌年になってから・・・という事なので、やはり謎多き合戦です。
しかし、いかに謎多き戦いでも、この戦いの後に福島勢が撤退したという事は確かな事・・・これだけの兵力の差がありながら、敵を退けた要因としては、例のどちらに動くかわからない状態あった甲斐の国人たちが、外敵の侵入に危機感を抱き、数多く、武田の味方として参戦したからとも言われていますが、それも、推理の域を出ないようです。
ただ、不可解な部分はあるものの、勝利した信虎は、これで、名実ともに甲斐統一を成し遂げた事になります。
また、この戦いの軍功によって板垣信方が、信玄のもり役に抜擢され、信玄の将来に大きく影響を与える事になるであろう予感を感じさせる一戦でした。
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