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2008年10月10日 (金)

謀反人の娘で殺人犯?春日局が天下を握る

 

嘉永六年(1629年)10月10日、江戸幕府3代将軍・徳川家光乳母・お福が、第108代・後水尾天皇に拝謁し、春日局の称号を賜りました。

・・・・・・・・・・

徳川家康の孫で第3代将軍の徳川家光乳母として江戸城に入り、大奥で頂点を極めた、ご存知、春日局(かすがのつぼね)・・・。

彼女は、本名を斉藤福(ふく)と言い、明智光秀の重臣だった斉藤利三(としみつ)を父に、稲葉良通(よしみち・一鉄)の娘・(あん)を母に持つ、なかなかの家柄の出身です。

しかし、ご存知のように、光秀が本能寺の変(6月2日参照>>)で主君・織田信長を討ち、父もそれに従っていた事で、彼女の運命は大きく変わります。

山崎の合戦(6月13日参照>>)で、羽柴(豊臣)秀吉に大敗した光秀は、落ち武者狩りで命を落し、捕らえられた父・利三は、謀反人として六条河原で斬首されました(6月17日参照>>)

当時、4歳だった彼女は、その父の処刑を目の当たりにしたという事ですが、(はりつけ)あるいは車裂きにされたとの話もあり、もし本当にその姿を見たとしたら、その思いはいかばかりであったのでしょうか・・・。

当然、一家は離散して、幼い彼女は母と行動をともにする事になるのですが、この後、父の友人だった海北友松(かいほうゆうしょう)(8月26日参照>>)の保護のもと、比叡山の麓で身を潜めていたとか、父の妹が土佐(高知県)長宗我元親(ちょうそかべもとちか)の妻となっていた縁で四国で隠れ住んだなどと伝えられていますが、とにかく、この間は流浪の身なので、くわしい事はわかりません。

やがて、母の実家である稲葉家の働きかけによって罪が許され、母の兄である稲葉重通(しげみち)清水城(岐阜県)に引き取られます。

Kasuganotubone500a そんな彼女は、なかなか気の強い女性だったようです・・・というか、強くなければ生き抜いていけませんわなぁ。

父の死をその目でみて、さらに不遇な少女時代・・・しかも、幼い時に天然痘を患ったため、顔はあばただらけで、とても美しいとは言いがたい・・・しかし、そんな不幸に屈する事なく、むしろ「負けへんぞ~!」という感じの不屈の気の強さが、後の春日局を作ったとも言えるわけですからね。

やがて、17歳になった彼女は、重通の娘婿・稲葉正成と結婚します。

娘婿・・・つまり、彼は子持ちの再婚です。

彼は、重通の娘と結婚し、婿養子となって稲葉姓を継いでいたのですが、その娘が、すでに亡くなってしまっていたので、重通の姪でもあり、面影の似ている彼女との結婚・・・という事になったのです。

不幸な過去と、あばたの顔を持つ彼女に贅沢は言えませんが、それでも新婚時代の二人は仲睦まじく、三人の男の子ももうけて、幸せな結婚生活を送っていました。

ところが、舅の重通が隠居して京都に移ると、正成は徐々に本性を現します。

そう、彼は無類の女好き・・・何人もの愛人を作っては、妻と同居させていました・・・と言っても、この頃の一夫多妻は男の甲斐性、そこンところは、彼女もわきまえていますから、くやしいながらも耐えに耐え抜いておりました。

しかし、問題は、関ヶ原の合戦の後に起こります。

実は、彼女の夫・正成は、小早川秀秋の家臣で、あの関ヶ原の合戦の時に、東軍に寝返るように秀秋に進言したのが彼だったのです(9月14日参照>>)

その功績によって恩賞も貰い、出世街道まっしぐらだったこの時期は、その浮気グセも何とか耐える事ができましたが、その主君の秀秋が、合戦後、わずか二年で亡くなってしまい、お家は断絶し、正成は浪人の身となってしまうのです。

ところが、それでも治らぬ浮気グセ・・・「無職のくせに何しとんねん!もう、我慢できるか!」と、ここで彼女はブチ切れたのです。

なんと、愛人の一人を刺殺し、そのまま離婚状を叩きつけて家出・・・京都の重通のもとに身を寄せながら、「何かいい仕事はないものか?」と職探しをしていたところ、粟田口の高札場にて、一本の立て札を目にします。

『将軍家の孫、竹千代君の乳母を募集』

彼女は早速、京都所司代の板倉勝重を訪ね、乳母に応募・・・そして、見事に採用されるのです。

もちろん、この部分に関しては諸説あります。

結婚しているにも関わらず勝手に乳母に応募した彼女に対して正成のほうが激怒して離婚したとか、乳母に採用された妻に食わせてもらうのはカッコ悪いとして離婚したとか、夫の出世の道を開こうと乳母に応募するも結婚していては採用されないので夫婦二人の納得づくで離婚したなどなど・・・

また、採用に関しても、はなから公募などしておらず、知り合いに頼み込んだからとか、関ヶ原の功労者である秀秋の小早川家の断絶に家康が心を痛めていたからとか、すでに彼女は家康の愛人であったからなどなど・・・先日、光秀=天海説(10月2日参照>>)でも書かせていただいたように、家光はお福の子供では?なんて話もあるくらいです。

とにもかくにも、後の家光=竹千代の乳母となった彼女の家光への溺愛ぶりは、皆様も、よくご存知の事と思います。

家光の母のお江与の方が、弟の忠長ばかりを可愛がるため、家中に将軍の後継ぎは忠長になるのでは?の噂が広まった時には、伊勢神宮への参拝と称して江戸城を出て、自ら駿府城の家康のもとへ行き、家光を後継ぎにするように直談判してみたり、家光が天然痘にかかった時には、「生涯、薬は飲まない!」薬断ちの願をかけ、寝ずの看病をして助けたとか、ホモの趣味があって女性に興味を示さなかった家光に、尼僧を近づけて女性に開眼させたとか、その凄まじいまでの愛情エピソードは数知れず・・・

やがて、家光の成長とともに、彼女の江戸城での立場はゆるぎないものとなっていき、親類縁者を次々と江戸城に出仕させるようになれば、さらに、その取り巻きも増え、並み居る大名たちを押しのけて、その権力は絶大なものとなります。

そして、いよいよやってきました嘉永六年(1629年)10月10日・・・

彼女は、家光の妹・和子が、時の天皇・後水尾(ごみずのお)天皇に嫁いでいた事もあり、御所に昇殿して会おうとしますが、いくら、幕府内で絶大な権力を握っていても、身分は斉藤家のお福のまま・・・とても宮中に入れる身分ではありません。

そこで、三条西実条(さんじょうにしさねえだ)仮の妹という事にして宮中入りを強行し、無位無冠のまま天皇に拝謁するという前代未聞の事をやってのけるのです。

これには、さすがの後水尾天皇も激怒・・・と言いながらも、お福に対して従三位の位と春日局の称号を与えるのです。

いえ、天皇は、無位無冠で自分に会いに来た彼女個人に激怒したワケではないでしょう。

そんな事をさせておきながら、黙って官位や称号を与えねばならないほど、武家の力が大きくなってしまったのか・・・という事に、激怒というよりは、空しさを感じてしまったのかも知れません。

結局、天皇は、このわずか1ヶ月後に、徳川家の血をひく、わが娘・女一宮(おんないちのみや)への譲位を決行するのです(4月12日参照>>)

・・・という事は、後水尾天皇・退位の引き金を引いたのは春日局?・・・

父の処刑をその目で見、謀反人の娘として不遇の少女時代を送った彼女が、まさに女としての天下を手中に収めた瞬間でした。
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コメント

春日局は来年どういう経緯で登場するでしょうか?乳母と言うのは、出産直後ではないとできませんからね。
お江さんが忠長を溺愛したと言う逸話(最も家光関係の逸話は後世の創作と言われます。)は、最近では否定されています。幼児期の将軍の子息は原則乳母・侍女が養育していたため(家光も忠長も幼児期は侍女が養育していた様です)で、周囲が親心(2人目が生まれると、上の子よりも手がかかる)を理解できなかった可能性もあります。
この点が来年の終盤ではどう扱われるでしょうか?
家光・忠長の将軍世継ぎを巡る件は、当時の徳川家譜代・直参の派閥争いの発展と言う説もあります。

投稿: えびすこ | 2010年2月19日 (金) 09時45分

えびすこさん、こんばんは~

以前、忠長さんのご命日にも書かせていただきましたが、忠長さんの乳母は朝倉局という人です。

この方がドラマに登場するのかどうか?
楽しみですね。

投稿: 茶々 | 2010年2月19日 (金) 17時35分

家光の乳母と忠長の乳母が別々である、と言うのは理解していました。
史実どおりなら劇中では、一貫して「お福」と呼ばれるはずです。称号「春日局」を賜るのはお江さんの死んだ後(つまり、「ストーリー外」の事)ですから。
配役クレジットでは「お福(春日局)」と表記されるでしょうね。

余談ですが、真田幸村の大河ドラマ化の動きがあるらしいです。実現なら2015年に「真田太平記」をリメイク?

投稿: えびすこ | 2010年2月19日 (金) 18時20分

えびすこさん、こんばんは~

真田幸村ですか~
楽しみですね

投稿: 茶々 | 2010年2月19日 (金) 20時47分

「本能寺の変」前後の回で春日局の父・斉藤利三が出ましたが、登場はあの時だけですね。地震の前なのでもう忘れている視聴者がかなりいると思います。
春日局が付いた徳川家光は、滑舌が悪かったと聞いた事がありますが、本当なら時代劇で演じる大体の俳優は「早口で話す」家光ですね。

お昼の「千思万考」を見ておきます。
向井くん扮する秀忠は(若い時代は)なんとなく、性格的には息子の家光みたいにも見えるんです。江さんより背は大きいですが、あれでまだ小学生の年齢です。先週、高校生の年齢の江さんに「そなたは子供」と言われましたね。

投稿: えびすこ | 2011年6月26日 (日) 10時21分

えびすこさん、こんにちは~

向井くんは、頑張って若さを表現してましたが、もともとあの実年齢で11歳を演じるのは、樹里ちゃんの6歳の江ほどではなくても無理があり過ぎですね。

投稿: 茶々 | 2011年6月26日 (日) 14時52分

いい加減な事を書かないでほしいですね。

投稿: | 2014年9月12日 (金) 17時20分

>いい加減な事を書かないでほしいですね。

でしたら、どこがどうなのか、もう少し具体的にあなたのお考えを聞かせていただかないと、ご指摘の箇所を修正する事ができません。

できましたら、ご意見とともに、出典もお示しいただければ、調べなおす事もできますので、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2014年9月12日 (金) 18時03分

春日局(お福ともいう)に対して感じたことは、苦境を乗り越えるだけの強い精神力と強運ではないかと思います。謀反人の娘というレッテルを貼られた点では、細川玉子(後の細川ガラシャ)と同じですが、ガラシャと決定的に違うのは、春日局の場合は、徳川家光の乳母&教育係として、長期政権としての徳川幕府が、264年間続いたことに大きく貢献したのに対し、ガラシャの場合は、最終的には、心の救いを求めるために、キリスト教信者としての道を選んで、その果てに、細川家家臣の介錯によって、慶長5年(1600年)に、38歳の生涯を閉じました。春日局とガラシャの人生を比較すると、同じ謀反人の娘としてのレッテルを貼られたにも関わらず、違う人生を歩むようになったのは、不思議な気がしました。

投稿: トト | 2016年3月16日 (水) 18時37分

トトさん、こんにちは~

ガラシャは、自身の死に場所を、しっかりと選んだと思いますよ。
自由に行動の取れない大名の正室としては、最大限の意地を見せたようにも思います。

投稿: 茶々 | 2016年3月17日 (木) 15時46分

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