謀略の達人・宇喜多直家~本当はけっこうイイ人?
天正七年(1579年)10月30日、宇喜多直家の名代として、従兄弟の宇喜多基家が織田信忠に謁見し、降伏を申し出・・・織田信長が直家の降伏を受け入れました。
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戦国の梟雄(きょうゆう)と称される宇喜多直家(うきたなおいえ)・・・。
下克上はなはだしい戦国乱世・・・キレイ事を言ってると背後から襲われ、油断してると寝首を掻かれる・・・とは言え、この人ほど腹黒いと言われる人はなかなかいません。
刺客を放って敵将を暗殺したり、邪魔だからと毒殺したり、狩りに誘い出して間違えて撃っちゃった事にして殺したり・・・と、合戦での華々しい勝利より、なにやら陰険でじっとりとした感じが目立ちます。
しかし、大国に挟まれた小さな国の武将は、多かれ少なかれ、そういったやり方でないと伸し上がっていけないのも確か・・・直家さんだけを責める事はできません。
直家が生まれた宇喜多家は、もともと備前(岡山県東部)を治める浦上家の家臣でしたが、祖父の代に家中での権力争いに巻き込まれて祖父は殺され、父とともに命からがら脱出し、直家は6歳にして放浪生活という不遇の歳月を味わっています。
やがて、成人する頃になって帰参が許され、再び浦上家の家臣となるのですが、その頭角はすぐに現れます。
亀山城(岡山市)や砥石城(といしじょう・岡山市)を奪って、あっと言う間に備前南部を手中に収めた後、戦上手で聞こえた穝所元常が城主を務める龍ノ口城(岡山市)を攻めるのですが、難攻不落と言われたこの城をなかなか落す事ができなかったところ、この城主が男色であるとの噂を耳にし、岡剛介なる美少年刺客を送り込んで色仕掛け作戦を決行したりなんかします。
「そんなアホな!なんぼ美少年好きでも、相手は戦上手なんやから・・・」と思いきや、元常はあっさりとこの美少年に寝首を掻かれ、龍ノ口城を、いとも簡単に陥落させてしまいます。
やがて、浦上家でも一番の有力者になった直家は、さらに勢力を拡大し、徐々に主君である浦上家当主・宗景を脅かすようになります。
この頃には、すでに直家は安芸(広島県西部)の毛利氏の後ろ盾を得ており、まさに、主家・浦上家を乗っ取る勢い・・・脅威を感じた宗景は、織田信長に後押しを頼みますが、ついに、天正五年(1577年)、宗景を天神山城(岡山県)から追い払い、備中(岡山県西部)の一部も手中に収めました。
そして、その同じ年には、毛利氏傘下の一員として、信長傘下の山中鹿介が城番を務める上月城(こうづきじょう・兵庫県)(11月29日参照>>)を、一旦は攻め落としますが、翌年の3月には、信長の中国平定担当のあの羽柴(豊臣)秀吉が鹿介ら尼子氏を支援して総攻撃を仕掛けて来たために、あえなく上月城を手放してしまいました。(2月17日参照>>)
しかし、その翌月に、すぐさま、その上月城を取り戻すべく3万の軍勢を率いてやってきた吉川元春(毛利元就の次男)と小早川隆景(元就の三男)が上月城に総攻撃を仕掛けた時には、直家は参戦しませんでした。
『備前軍記』によれば、この時、直家は、仮病を使って日和見・・・つまり二股をかけていたのだとか・・・。
直家は、どうやら、この上月城の攻防戦は、信長が勝つとみていたようです。
しかし、この攻防戦に信長自身が兵を出す事はなく、中国担当の秀吉は別所長治の三木城(兵庫県)への攻撃に忙しく(3月29日参照>>)、多くの支援を得られなかった上月城は、3ヵ月後の7月3日、尼子勝久の切腹によって攻防戦の幕を閉じたのです(7月3日参照>>)。
・・・で、慌てて「病気が治った」と称して、毛利軍の陣へと勝利のお祝いに駆けつけた直家は、「どうぞ、お帰りになる時は、わが領内を通って、わが城へ・・・最高のおもてなしをしますから・・・」とのゴマすりトークで弁解しますが、元春と隆景は、完全無視で安芸へ帰ってしまいました。
直家は、この時、もし、毛利軍が立ち寄ったなら、元春と隆景を討ち取って、その首を手土産に信長の傘下に収まるつもりでいたようですが、さすがの元春と隆景は、直家お得意の暗殺・謀殺の手の内を見切っていたようです。
そう、もう、このあたりから、直家は、毛利から織田へ寝返る事を心に決めていたわけなのですが、さすがに、つい何ヶ月か前まで、思いっきり毛利の配下として戦ってたわけですから、信長から、なかなか、その許しが出ず、翌年の天正七年(1579年)10月30日、従兄弟の宇喜多基家が、直家の名代として信長の息子・信忠に謁見し、ようやく承諾を得たのです。
これには、かの秀吉が仲介役として奔走したようです。
そのためか、その後の直家は、秀吉に対しては、あの謀略しまくりの陰険さを忘れたかのように、誠心誠意、尽くしに尽くし、最前線で毛利相手に戦う事になります。
そんな直家さんですが、さすがに、晩年に病気が重くなった時は気弱になっていたようで、『武将感状記』では、家臣たちを集めて、「もし自分が死んだら、殉死(後追い自殺)してくれるか?」なんて聞いたりしてします。
多くの家臣が気をつかって、「あの世までお供します!」と答える中、戸川秀安(ひでやす)なる者が・・・
「人には向き不向きっちゅーのがあります。俺は、戦に関しては誰にも負けませんが殉死はできません。それに、多くの者を手にかけた家臣では、お供をしても地獄に落ちるだけ・・・殉死してもらいたいなら、僧侶にでもしてもらいなはれ」と、直家の気弱な発言を一蹴します。
これは、多くの者を、意味無く死出の道連れにする事をヨシとしない秀安の忠告だったわけですが、これに対して直家は、すなおに「気が動転してしまった・・・スマン、誰も死ななくていい・・・」と謝ったと言います。
やがて天正十年(1582年)2月14日(1月9日とも)、岡山城にて53歳の生涯を閉じます。
平気で人を騙すところから、戦国武将としては、あまり人気がないと言われている直家さんですが、冒頭に書いた通り、それは、戦国を生き抜くための手段であって、ネはけっこうイイ人なのかも知れません。
天正七年の10月に信長傘下となり、天正十年の2月に亡くなるのですから、結局、直家と秀吉とのイイ関係は、わずか二年間だった事になりますが、
直家が亡くなった時に、わずか10歳だった彼の息子に父の家督を継ぐダンドリをしてやったり、秀家の名を与えて養子にして五大老の一人に任命したり、自らの養女にした前田利家の娘・豪姫と結婚させたり(5月23日参照>>)と、秀吉の宇喜多家への親切ぶりは尋常じゃないです。
秀吉の事ですから、多少の打算はあったでしょうが、やはり、直家との関係が、相当良いものだったからなのではないでしょうか。
もちろん、その息子・秀家は、ご存知のように、秀吉亡きあとの豊臣家を命がけで守る事になりますが・・・(8月6日参照>>)。
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コメント
漫画家の大竹直子さん(ご存知ですか?私もあまり知らない人ですが)が宇喜多直家のファンらしいです。大竹さんが描いた直家のポスターがあるようです。
「戦国武将列伝」にもたまに読み切りのコミックを載せています。4月発売の次号では黒田官兵衛の読み切りコミックが載ります。
投稿: えびすこ | 2014年3月21日 (金) 14時05分
えびすこさん、こんにちは~
大竹直子さんは読んだ事無いですが、BLな作品で人気がある方ですよね。
戦国BLは、意外にファンが多いです(*゚ー゚*)
投稿: 茶々 | 2014年3月21日 (金) 18時09分
宇喜多直家といえば、松永久秀・斎藤道三にも匹敵する策略家ですよね。乱世を乗り切るためだったからこそ、「謀略こそ正義」という考え方を身に付けたのかもしれません。ただし、嫡男である宇喜多秀家に対しては、父親としての愛情を注いでいたはずでしょう。何しろ秀家は、直家が、元亀3年(1572年)に生まれましたが、当時の直家の年齢が44歳だったことを考えると、後継ぎ誕生に対する喜びは大きかったと思います。最終的に直家は、秀家の将来を心配して、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に託したわけですが、おそらく、直家は、秀吉の天性の人柄を信じて見ようと思って、策略家としての知恵を働かせたような気がします。もちろん、直家は、策略家ではありますが、秀家の父親でもあり、1人の人間でもあるわけですからね。
投稿: トト | 2016年1月27日 (水) 09時10分
トトさん、こんにちは~
秀吉に息子を託した直家の判断は正しかったですね。。。
ま、さすがに、関ヶ原の結果までは予想できなかったでしょうが…
投稿: 茶々 | 2016年1月27日 (水) 15時22分
宇喜多直家のことで、新たに追記したいことがあるのですが、もし直家が、あと20年ほど長生きしていたら、宇喜多家の運命が大きく変わっていたかもしれませんね。直家のような策略家なら、豊臣秀吉亡き後の天下の行方がどうなるかは、見極められたでしょう。しかし、直家は、謀略だけの人生を送ることが多かったのか、健康管理をおろそかにしてしまって、死去したのではないでしょうか。天正9年(1581年)に、当時10歳の宇喜多秀家を残して、死去したことを考えますと、秀吉に秀家を託したとはいえ、無念だったはずだと思います。
投稿: トト | 2016年1月28日 (木) 08時38分
トトさん、mこんにちは~
人は、晩年、病気になると気弱になりますね~
投稿: 茶々 | 2016年1月28日 (木) 15時16分