皇女・和宮~替え玉説について
文久元年(1861年)10月20日、第14代将軍・徳川家茂との結婚のため、皇女和宮が京都を出発しました。
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幕府の威信回復のため、公武合体の象徴として行われた将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の結婚・・・。
その経緯と状況については、以前、書かせていただいた通り、すでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)という婚約者がいたにも関わらず、その婚約を解消してまでもの結婚に、和宮本人は、まったく乗り気ではなく、「天下泰平のために、いやいやながらお受けします」と、いった感じの完全なる政略結婚ではありましたが(8月26日参照>>)、決意を固めた皇女・和宮(かずのみや)・・・文久三年(1861年)の10月20日、彼女は京都を出発します。
行列は中山道を通って11月15日には、江戸へ到着。
華やかな花嫁行列は前代未聞の規模で行われ、通る宿場町の中には、和宮様にために、町の形を変えたところもあったのだとか・・・
そして、翌年の2月11日に婚礼が行われる事になるのですが、今日は、実は、この時、江戸にお嫁に行ったのは、和宮さん本人ではないのではないか?というお話を書かせていただきたいと思います。
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それは、有吉佐和子さんの小説『和宮様御留』で有名になった替え玉説・・・
小説では、家茂との結婚が決まった時の和宮のあまりの嘆きっぷりを、不憫に思った母・観行院(かんぎょういん)が、独断で女中をその身代わりとする事にし、礼儀作法や御所言葉を身につけさせて、江戸へ送るのですが、あまりの環境の変化についていけず、その女性は、江戸へ向かう途中で、精神的に参ってしまい、「わたしは和宮ではない!」と叫び出したため、急遽もう一人の女性を代役に立てて江戸城に入り、風邪をひいた事にして、1ヶ月間の特訓の後、和宮として生きた・・・というものです。
もちろん、この話自体は小説ですから、その内容は有吉さんの創作なわけですが、「ひょっとしたら、江戸へ行った和宮はニセ者ではないか?」と疑いを持たれるようになったきっかけというのが、実際にあった様々な謎だったわけです。
それは、例の増上寺にある和宮さんのお墓・・・
先日、和宮さんのご命日のページ(9月2日参照>>)に書かせていただいたように、徳川家の菩提寺である増上寺の墓地が改葬された際に、発掘調査が行われたのですが、そこにいた和宮さんは、まるで少女がうたた寝をするような雰囲気だったと言われるくらい、キレイな状態で埋葬されていたわけです。
しかし、それにも関わらず、なぜか左手の手首から先の骨が見つからなかったというのです。
亡くなったのが明治十年(1887年)で、調査されたのが昭和三十五年(1960年)なら、まだ77年しか経っていないわけですし、もし、病気やその時の栄養状態で、極端に骨がもろくなっていたとしても、一部だけが無くなるというのは、とても考え難い事です。
おそらくは、生まれつき、あるいは、何らかの事故か病気で、生前に左手を失ったものと考えられますが、実際の和宮さんの記録には、そのような事は一切出てきません。
逆に、和宮さんは、小さい時から関節炎を患っていて、足のほうが不自由だったとされているのですが、増上寺のお墓の主は、極端な内股ではあるものの、足が悪かった形跡は見当たらなかったのです。
そして、それに関しては、勝海舟の書いた『氷川清話』に、「御殿の庭の踏み石に、姑・篤姫と和宮のぞうりだけが置いてあり、将軍のぞうりが下に落ちていたのを見つけて、ポンと庭に飛び降りて、自分のを下におろし、将軍のを石の上にあげた」という、江戸城でのエピソードが書かれているのですが、伝えられるように足が悪いのであるなら、ポンと呼び降りるなんて事はできないし、第一、そのような行動は公家のお姫様がなさるような行動ではないのではないか?というのです。
また、和宮さんとされる遺骸の頭髪は赤毛でしたが、家茂の棺に収められていた和宮さんの遺髪は黒髪であったという話もあります。
これらのお墓に関する事実と、有吉さん自身が耳にした、替え玉となった女性の姪という人から聞いた話が、先の小説のもととなっているようです。
上記以外にも、京都時代の和宮と江戸に行ってからの和宮の歌の趣味が違っているとか、京都に和宮さんの遺骨を納めたお墓が別に存在するなど、替え玉説を裏付けるような話もチラホラ・・・。
とは、言え、やっぱり、替え玉説は仮説の域を越えないものではあります。
かく言う私も、江戸へお嫁に行った和宮さんは、やはりホンモノの和宮さんであったと思っています。
というのは、その増上寺のお墓の調査報告によると、その遺骸は、当時の一般の人々とは明らかに違う様子だったという事を小耳に挟んだからなのですが・・・。
現在と違って、当時のお公家さん、しかも、天皇の妹なんていう人は、一般人とはかけ離れた生活をしていて、それこそ重い物など持った事もないし、激しい運動なんてした事がないなんて事が多々あり、お公家さん独特の骨の形成になっているのだそうですが、増上寺の和宮さんとされる遺骸は、その特徴をしっかりと持っているのだそうです。
骨の形成なんていうのは、ちょっとやそっとの年数では特徴は出ませんから、やはり幼い時から、そのような生活をなさっていた人物なのではないかと思います。
そして、それよりも、さらに、江戸の和宮さんがホンモノだとの証しだと思うのは、何と言っても、徳川最後の時の活躍です。
篤姫が、徳川存続の願いを込めて、西郷隆盛に手紙を書いたお話(4月11日参照>>)は、以前書かせていただきましたが、この時、和宮も、朝廷に手紙を書いています。
この時の手紙という物に効果があるとすれば、それは本人の直筆による物であるからであって、別人の手紙なら、何の効果も得られない事になりますからね。
また、徳川から朝廷へ送る手紙も、彼女がチェックして、「こんな書き方ではダメ」なんて、何度も書き直させていた(1月17日参照>>)といいますから、そのような事は、ちょっとやそっとのお姫様教育を受けただけの人では、到底できない事なのではないか?と思います。
もちろん、替え玉であろうが、ホンモノであろうが、いずれにしても、謎は残りますが、また、その謎が、更なる推理へと導いてくれる歴史のおもしろさでもあるんですよね。
いつか、解決する時が来てほしいような・・・
謎は謎のままのほうがいいような・・・(*^m^)
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コメント
こんにちは。いつも楽しく読ませていただいています。
有吉佐和子の「和宮様御留」、小学生のときに読みました。ドキドキする展開と、憧れていた「お姫様」の生活の現実にかなりショックを受けつつ、一気に読みきったのを覚えています。確か、替え玉さんの姪という人と会った話は、あとがきに出てくるのですが、その時、母に、このあとがきは小説の一部で、実はこれもフィクションだと聞いた覚えがあります。信じ込んでいた私は、改めて、「有吉さん、すごい!」と思ったのですが。かれこれ四半世紀前の記憶なので、間違っているかもしれませんが、本当はどうだったのでしょうね。
投稿: おきよ | 2008年10月20日 (月) 18時27分
おきよさん、コメントありがとうございます。
そうですか・・・小説を読まれたんですね。
それも小学生で・・・スゴイなぁ!
私は、ドラマになったのを見ましたが、聞くところによると(ドラマスタッフには申し訳ありませんが)小説のほう数段オモシロイという事なので、いつか読んでみたいと思っているのですが・・・。
あとがきに関しては、有吉さんサイドでは、「フィクションではない」と主張されているようですが、やはり歴史学者さんからは、一蹴されているようです。
個人的には、あーだこーだと推理していく事が楽しいので、謎を提示してくださる事は大歓迎なんですけどね。
投稿: 茶々 | 2008年10月20日 (月) 19時17分
茶々さんこんばんは、
中仙道の宿場には和宮様に関する言い伝えも残っているようです。
私としては本物であってほしいと思ってます。有栖川宮様との悲恋もなくなってしまいますもの・・
左手首がなかった話は、有名だし、なんか怖いですね。
投稿: エコリン | 2008年10月21日 (火) 01時54分
エコリンさん、こんにちは~。
私はまだ、和宮さんの写真は、あの「おすべらかし」の写真しか見たことないのですが、どうやら、和宮さんとされる洋装での写真があるらしいのですが、それだと、左手も写ってるそうです。
ますます、謎は深まりますが、まぁ、その写真も、あくまで「和宮さんとされる写真」という事なので、ご本人ではない可能性もあるのだとか・・・
でも、やっぱり私も、江戸に行って家茂さんと仲睦まじかったその方が本物であってほしいと思っています。
投稿: 茶々 | 2008年10月21日 (火) 10時35分
始めまして。
テレビドラマ【篤姫】の影響で和宮と徳川家茂に興味をもち、ネット検索をしていたらこちらのブログに辿りつきました。
本当に歴史にお詳しいんですね。感心致しました。やっぱり専門にお勉強を…?
私も和宮は本物であって欲しいと願っている一人です。
それと家茂とは不仲説もあるようですが、心から想い合っていた御夫婦であって欲しいと…。
ネット検索で知ったのですが、家茂の棺には明らかに和宮とは違う髪の束が入っていたとか…。
棺は大阪で封をされ、江戸へ運ばれたものなのでその棺に和宮の髪を入れるのは不可能だからその髪の主は大阪での家茂に最も近い人物、つまり側室であったのではないかと考えられているそうですね。
将軍だからそばに誰か女人がいるのは仕方がないとしても、棺にはその人の髪の束を入れて欲しくなかったなぁ~なんて私は思ってしまいました。
このことに関するお話でなくてもいいのですが、和宮、家茂のことで何か知っていらっしゃることや新たに分かったことがあったらまた、教えて下さいね。
ありがとうございました。
投稿: おみや | 2008年10月21日 (火) 13時39分
おみやさん、こんにちは~。
>棺は大阪で封をされ、江戸へ運ばれたもの・・・
なるほど、それなら和宮さんとは別人の髪で納得ですね。
ただ気になるのは、大坂で封をされた棺・・・江戸でお顔を拝見する事はできなかったのでしょうかね。
今と違って、運ぶのにも日にちがかかるだろうし、やっぱりムリなのかな?と思いますが、何となく、最後に和宮さんと会えてたらいいな~と思ったりなんかして・・・
コメントありがとうございました。
また、時々覗きにきてください。
投稿: 茶々 | 2008年10月21日 (火) 21時09分
「将軍の骨」というところで和宮の頭蓋と復元された横顔が載ってます。
一般人との区別はわからないけど、別人説はちょっとごり押しかなぁ。
でも本はドキドキしながら読みましたよ(^^)
と和宮の着物着て座ってる写真の左手、なんだか変だなぁと思うんですがどうでしょうね?
手先の形がねぇ。。。
洋装見てみたいですね。
投稿: 味のり | 2008年10月22日 (水) 01時15分
味のりさん、こんにちは~。
>なんだか変だなぁと思うんですが・・・
私も、そう思うんですが、もともと高貴なおかたは、袖から手をモロに見せたりしないんだとか・・・
そう言えば、篤姫の写真も、普段着のような着物の時(虎皮に座ってるヤツ)も、正装のような装束の時も、手はあんまり出してない・・・何か不自然な感じですもんね~。
あぁ、いうものなのかも知れない・・・
投稿: 茶々 | 2008年10月22日 (水) 08時58分
こんにちは
早速、コメントに御返事を頂き、大変、恐縮致しています。有難うございました。
家茂公の棺は大阪から軍艦で江戸に運ばれたらしいんですね。棺は一度も開かれることなく増上寺に埋葬され、和宮さんは御主人と対面することはなかったようです。
家茂は病死(暗殺説もあるようですが…)だったそうなので、遺体はきっとやつれ、変わり果てていたのではないかと私は思いました。
だから和宮さんはイケメン (だったらしいですね。(笑))の御主人の元気だった頃の面影を抱きながら余生をおくったと思うので、むしろ遺体と対面できなかった方が良かったんじゃないかと私は思ったりもしました。
永遠に誰が写っていたのかわからなくなってしまった和宮さんの胸に抱かれていた写真。もし写っていたのが有栖川宮熾仁親王だったとしたら自分を徳川の人間として葬って欲しいという和宮さんの遺言と矛盾しますよね。間違いなくそういう遺言だったのだとしたらの話ですが…。私はindoor-mamaさんの【皇女・和宮とガラスの写真】の記事を読ませて頂きながら涙が止まりませんでした。
indoor-mamaさんは、いろいろな歴史上の出来事の話題を提供していらっしゃるのにこればっかりで、まことに恐縮ですが、興味深く、楽しませて頂き、嬉しいです。有難うございました。
一般の歴史上の事実には超オンチなのでindoor-mamaさんの記事で少し、勉強させて頂きたいと思っています。
投稿: お宮 | 2008年10月23日 (木) 15時26分
お宮さん、再びの励みになるコメント、ありがとうございます。
>遺体はきっとやつれ、変わり果てていた・・・
そうですね。
あくまで想像ですが、和宮さんは純粋で少女のような方だという感じがしますので、最後には会わないほうが良かったかも知れませんね。
一旦京都に帰ったのに、東京へ戻って来た和宮さんは、やっぱり家茂さんの事が好きだったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2008年10月23日 (木) 18時35分
こんばんは
本当に同じ話題で何度もすみません。
家茂公には元気で妻の和宮さんの元に帰って来て欲しかったと心から思います。
でも反面、和宮さんも31か2で亡くなってしまうので、今度は御主人の方がやもめになっちゃうのか!?それも気の毒だなと思ってしまいました。
和宮さんはやるべきことをしっかりやって御主人の元に召されていったのだという気がしています。
やっと誰にも何ものにも二人が引き裂かれることのない所に…。
『今度こそ、本当にお幸せに!』って心から思いました。
たいへん、失礼致しました。
では、また。
投稿: おみや | 2008年10月23日 (木) 20時12分
おみやさん、こんばんは~
>『今度こそ、本当にお幸せに!』
ほんとにそう思いますね。
投稿: 茶々 | 2008年10月23日 (木) 23時55分