日本初の政党・自由党誕生!
明治十四年(1881年)10月18日、日本初の政党・自由党の結成大会がありました。
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まずは、明治六年(1873年)10月の明治六年の政変(10月24日参照>>)・・・征韓論論争で辞職した西郷隆盛とともに野に下った板垣退助が、故郷の土佐(高知県)に戻って打ち立てた自由民権のための結社・立志社から始まります。
庶民の自由や参政権を求める自由民権運動ですが、この最初の頃は、後の自由民権運動とは少し違ったものでした。
・・・というのも、上記の通り、板垣が故郷の友人に声をかけて作った立志社ですから、当然、、その構成は、ほとんどが土佐の士族です。
同じように野に下った西郷のまわりがそうであったように、やはり、ここも武士の特権を奪った政府への不満を抱く士族たちの集まりで、自由民権というよりは、もっぱら打倒!藩閥政府ばかりが中心となっていたのでした。
やがて起こった西南戦争(9月24日参照>>)でも、当然のごとく同調の声が上がり、密かに兵を集めて、政府転覆計画なんかを立てたりもしましたが、この時は、大久保利通の同郷・西郷への見事なまでの裏切りぶりに、彼らの立ち入る隙間はありませんでした。
そのうち、彼ら土佐の士族たちは、自由民権運動から離れ、その後に、運動を支えたのは豪農と呼ばれた人々でした。
それまでの江戸時代では、いくら財力があっても、いくら学問ができても、農民は政治に参加する事はできませんでしたが、時代は明治に変わり、「ひょっとしたら、我々も参政権を持つ事ができるのではなか?」・・・そう思い始めた裕福な農民たちにとって、自由民権運動は、まさにピッタシだったわけです。
彼らは、全国各地で同盟を結成し、集会を開いて期成をあげ、国会開設に向けての運動を展開します。
やがて、それは一般農民にまで広がり、その運動が最高潮に達した時・・・先日、書かせていただいたばかりの明治十四年の政変(10月11日参照>>)です。
世論の風に脅威を感じた政府が出した苦肉の約束・・・「10年後に国会を開く」
「10年あれば、その間に運動も沈静化するだろう」というちょっとした期待を持って、この約束をした政府でしたが、板垣は、すでに、政党を立ち上げる準備を、ちゃっかりやってたんですねぇ・・・なんせ、10月12日に「国会開設の勅諭(ちょくゆ・天皇のお言葉)」が出され、10月18日に結成大会ですから・・・。
こうして、明治十四年(1881年)10月18日、日本で初めての政党・自由党が誕生したのです。
そして、翌・明治十五年(1882年)には、その明治十四年の政変で、失脚した大隈重信の立憲改進党も誕生します。
二つの政党は・・・
自 由 党 =主権在民
一院制
普通選挙
支持層:農民
手本:フランス
立憲改進党=君民同治
二院制
制限選挙
支持層:資本家・知識人
手本:イギリス
と、このような違いがありましたが、当時の藩閥政府・打倒の目標は同じ・・・
危機感を抱いた政府は、すぐに、現政府を支持する政党・立憲帝政党を結成しますが、不人気のため、わずか一年で潰れちゃいました。
しかし、自由党も立憲改進党も、ともに正面の敵は現政府であったものの、やはり、方針の違いからか、がっちりとスクラムを組む事はなく、お互いに反発し合う間柄でした。
そんな中、自由党に危機が訪れます。
先の西南戦争での戦費調達で、世はインフレ真っ只中・・・この状況を打開するため、時の大蔵卿・松方正義(まさよし)が行ったデフレへの誘導政策・松方デフレによって、様々な物価が大暴落!
これで、自由党を支えていた多くの農民が破産してしまい、先が見えなくなった彼らは、その矛先を政府に向けようとします・・・それも、武力で・・・。
血気にはやる党員を、「もはや統率しきれない」と判断した板垣は、明治十七年(1884年)10月・・・自由党の解散を決意しました。
日本で初めての政党は、わずか、3年の命でした。
そして、一方の立憲改進党も、この同じ年、大隈の離党によってその勢いを失い、もはや虫の息となってしまいます。
しかし、これらの政党は、しっかりと将来へ夢をつなぎます。
やがて、自由党は再結成され、立憲改進党も息を吹き返し、初の選挙(11月24日参照>>)へ向けて、ともに形を変えながら、大きく羽ばたいていく事となるのです。
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コメント
不思議な事に日本の「自由党」は、昭和でも平成でも短命政党になっています。昭和も平成も自由党は与党なんですが。
日本の政党で「新党~」・「新~党」・「~新党」は短命である、と言うジンクスは政治記者の間で有名です。
この間の「千思万考」で板垣退助を取り上げていました。負傷した時の名セリフは「昔言ったような気がする」と、晩年にあった銅像の除幕式の時で本人が証言したようです。
調べてみると板垣退助は昔は大河ドラマによく出ていましたね。平成10年以降は登場しなくなっています。「龍馬伝」に出なかったのは今でも意外な気がします。
投稿: えびすこ | 2012年5月25日 (金) 09時07分
えびすこさん、こんにちは~
板垣退助の言葉については、確か、襲われた日の日づけで書かせていただきましたが、「昔言ったような気がする」と本人が言ったというのは初耳でした。
大河は、いつのほどからか政党の色濃い方は、あまり出なくなりましたね~
お札に政治家が使われなくなった頃からかも知れません。
投稿: 茶々 | 2012年5月25日 (金) 16時48分
茶々さん、こんにちは。
今の自民党ですが、さかのぼると板垣の自由党、大隈の立憲改進党になります。
ですので自民党が一つにまとまっているのも不思議な話です。
でもイギリスでも今の形になったのは20世紀になってからですし、入れ替わりもどこの国でも多いです。
それを考えますと自民党の系統が自由党、立憲改進党になるのもそういうものかなと思いました。
フランス、イギリスとモデルが分かれていますが、そんなに差はないのと農村部、都市部の性格の違いかなと思いました。でもこの両政党が自民党発足まで議会の主導権を握っていたのでやはり議会は板垣、大隈の志が生きていたのかなと思います。それに伊藤がそこに加わるのかなと思いますが、銅像を見ますとこの3人です。多分4人目はないでしょう。
投稿: non | 2016年6月 7日 (火) 15時43分
nonさん、こんばんは~
国会議事堂の4隅めは、やはり、未来のために空けておくべきでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年6月 8日 (水) 04時11分