歴史に埋もれた名も無きヤマトタケルたち
日本書紀によれば、景行四十年(110年?)の10月7日、第12代景行天皇の命令で東方征伐に向かったヤマトタケルノミコトが、伊勢神宮にてヤマトヒメノミコトから草那芸の剣を賜りました。
・・・・・・・
ヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭健命)は、その景行天皇の息子・・・ヤマトタケルが生まれる時、天皇は、碓(うす)を背負って産屋のまわりを回るという安産祈願のまじないをやっておりました。
一人の男の子が誕生し、「よかった、よかった」と、碓をおろしかけたところ、何やらもう一人生まれそうだ・・・てな事になって、再び碓を背負ってグルブルと・・・
あまりの重たさに耐えかねた天皇は「碓に誥(たけ)びたまひき」・・・つまり、「碓のアホ!」と叫んだのだとか・・・
こうして生まれた双子の男の子・・・兄がオオウスノミコト(大碓命)、弟がヲウスノミコト(小碓命)、この弟のヲウスノミコトが後のヤマトタケルノミコトです。
ヲウスノミコトが15~6歳頃になったある時・・・
天皇が目をつけたエヒメ(兄比売)・オトヒメ(弟比売)の美人姉妹を、宮殿に連れてくるように命じられたオオウスは、姉妹に会った途端、父に渡すのが惜しくなり、自分のモノにして、二人ともに子供を生ませちゃいます。
その事で、バツが悪くなったオオウスは、いつも一緒にする事になっている朝夕の食事に姿を見せなくなってしまうのですが、親子の会話の少なさが気になった天皇は、「お前から、オオウスに、食事は一緒にする事に決まってるんやから、ちゃんと出て来いや!って言うといてくれへんかな」と、弟のヲウスに頼みました。
しかし、数日たっても、いっこうに兄は現れません。
「おい、お前、ちゃんと、兄貴に、俺の言うた事、伝えたんか?」
と、天皇がヲウスに尋ねると・・・
「ハイ!ちゃんと(オヤジが怒ってる事)伝えときましたよ」
「どんなふうに伝えたんや?」
「兄貴がトイレに入ってるとこ見計らって、手足を踏み潰してバラバラにして、ムシロに包んで裏庭に捨てときました~」
・・・っと、平然と答えるヲウスを見て、近くに置いておくのが怖くなった天皇は、「西の方の熊曾(クマソ)の地に、朝廷に従わない健(タケル・猛々しい者)がいるから、ヤツらを討って来い」という命令を出すのです。
そこで、ヲウスは、叔母であるヤマトヒメノミコト(倭姫命)から衣装を借りて短剣を懐に持ち、女装してクマソタケル兄弟の宴会に忍び込み、宴もたけなわの中、油断して酔っぱらっているタケル・兄を、持っていた短剣で一突き!
逃げるタケル・弟を背後からブスリ!
虫の息のタケル・弟は・・・
「俺らは、クマソの猛々しい者という意味でクマソタケルと名乗ってたけど、俺らを討ったアンタは日本の猛々しい者・・・この先は、ヤマトタケルと名乗りなはれぇ~」
と、言って息絶えます。
その後、クマソからの帰り道、土地々々の豪族を倒し、最後にはイヅモタケル(出雲健)も討ち取って、西方を平定して、父の元へ帰って来るのです。
しかし、天皇は、その功績を褒めるどころか、すぐに・・・
「東の方にも朝廷に従わない者がいるから、平定して来い」
と、命令するのです。
かくして、(たぶん110年の)10月2日に都を出発したヤマトタケルは、10月7日、東方へ旅立つ報告も兼ねて、伊勢神宮に奉仕する叔母のヤマトヒメに再び会いに行き・・・
「オヤジは、俺が死んだらえぇと思てるんやろか・・・兵も無しで東国を平定して来いと言う・・・」
と、ヤマトタケルは、叔母に訴え、嘆き悲しむのです。
ヤマトヒメは、そのかわいそうな姿に何も言う事ができず、宝剣の草那芸(草薙・くさなぎ)の剣と火打石の入った皮袋を渡し、ただ見送るだけでした。
後に、遠征先の相武(サガム)の国は焼津(ヤイヅ)で、土地の者に騙されて火に囲まれた時、この剣と袋を使って、ヤマトタケルは窮地を脱する事になります。
やがて、各地を転戦し、東国を平定して帰る途中、伊吹山の邪神を退治しようと出かけますが、その時に、草那芸の剣を尾張(愛知県)のカノジョの自宅に置いてきてしまったため、邪神に惑わされ、いつしか足が腫れあがり、三重にくびれた餅のようになってしまい、動けなくなりました。
ヤマトタケルは、そのまま伊勢の能煩野(のぼの)という所で、帰らぬ人となります・・・そこが、現在の三重だそうです。
ずいぶん前にupした【ヤマトタケルは実在したか?】のページ(7月16日参照>>)で、ヤマトタケルは、大和朝廷が西へ東へと勢力をのばしていく過程を、ヤマトタケルという一人の人格に置き換えて描かれているのだろうという事を書かせていただきました。
もちろん、その考えに変わりはありませんが、このように、少しくわしく物語りを見ていくと、様々な事が読み取れます。
ヤマトタケルノミコトの母は、針間(はりま)のイナビノオオイツラメ(伊那毘能大郎女)という女性です。
針間は播磨・・・つまり、現在の兵庫県の西部のあたり・・・その昔は、朝廷にはむかう一大王国であった吉備国の勢力範囲だった場所ではないでしょうか?
吉備国と言えば、以前の【昔話・桃太郎】のモデルとなったであろうキビツヒコノミコト(吉備津彦命)のお話(12月1日参照>>)・・・。
そこで書かせていただいた通りに、ヤマトタケルの父である景行天皇の2代前の崇神天皇の時代に、大和朝廷の臣下に、吉備が組み込まれたのだとしたら、針間出身の姫の子供・・・という事は、ヤマトタケルとは、大和朝廷に征服された土地の人々の事・・・と考えると、一連の話にも納得がいきます。
恐ろしく強い吉備の兵士たちは、朝廷に征服された後、今度は西方征伐の最前線に立たされ、戦いを強いられます。
しかも、休む間もなく、次から次へと戦に狩り出され、さらに、元・敵国であった彼らには、手柄をたてても褒美などまったく望めません。
この時代の徴兵は、現地までの交通費も、食糧も、そして武器さえも自分自身で確保しなければなりませんから、それは大変だった事でしょう。
そんな彼らにも、母や妻や子供がいます・・・東方への遠征前に交された叔母との会話は、そんな彼らの心配する母や妻を、ヤマトヒメの姿を借りて描いたのという事なのかも知れません。
♪大和(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば
畳(たた)なづく 青垣
山籠(やまごも)れる 大和うるわし♪ 倭健命
大和は優れた国
山々が重なり目にしみる垣を造る
山々に囲まれた大和は心安らぐ場所・・・
ヤマトタケル白鳥陵
白鳥陵への行きかたは、HPの大阪・歴史散歩でどうぞ>>
三重で命を落としたヤマトタケルの魂は、美しい白鳥の姿となって、河内の国に現れ、少し羽根を休めた後、再び空高く飛び去ったと言います。
古代の歴史に埋もれた英雄の悲しい最期は、1900年後の私たちにも、何かを語ってくれているようです。
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