北条氏康~謙信・信玄に撃ち勝った隠れた名将
元亀二年(1571年)10月3日、戦国時代、100年にわたって関東を支配した後北条氏の3代目・北条氏康が亡くなりました。
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北条五代と言って、まず、思い出すのは、やはり初代の北条早雲・・・。
いくら支族とは言え、幕府将軍家を、地方の一大名が倒して支配権を握った(10月11日参照>>)わけですから、まさに下克上・・・早雲は、戦国の幕を開けた一人と言えるでしょう。
そんな後北条氏ですが、関東の大部分を支配し、実際に、その勢力範囲が最大のものとなったのは、3代目の北条氏康の時代・・・ドラマなどでは、なかなかスポットが当たる事はありませんが、この氏康さんも、かなりのデキル武将なのです。
天文十年(1541年)に氏康が家督を継いだ頃の関東は、未だ、古河公方の足利晴氏と関東管領の上杉憲政(のりまさ)が元気ビンビンの時代・・・。
氏康は、家督を継いだ3年後の天文十三年(1544年)から、7年間にわたって古河公方と関東管領相手に戦い続け、ついには、二人を追い出し、最終的に関東300万石を北条の支配下に収める事に成功しています。
中でも、天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(4月20日参照>>)は、毛利元就の厳島の戦い(10月1日参照>>)、織田信長の桶狭間の戦い(5月19日参照>>)と並んで、戦国の三大奇襲戦として語り継がれる大勝利となりました。
しかし、それだけ勢力が大きくなると、そのぶん敵の大きさも比例して大きくなるのが世の常・・・ここから、氏康は、戦国屈指の名武将と対峙しなければならない事になります。
それは、越後(新潟県)の長尾景虎・・・後の上杉謙信です。
氏康に関東を追われた上杉憲政が越後へ逃れ、謙信を頼った事から、永禄三年(1560年)8月、謙信自らが関東へと進攻してきたのです。
しかも、一旦は北条の支配下に収まったとは言え、まだまだ地盤がグズグズだった関東武士たちの多くが、関東管領の看板を背負った謙信の呼びかけに呼応し、反北条の姿勢に転じてしまい、なんと、その数は、総勢10万にもなっていたのです。
氏康さん、最大のピ~ンチ!
しかし、ここで、その最大のピンチを救ったのが、自ら手を加え続けた居城・小田原城でした。
その生涯の中で、ほとんど負け戦のない武勇優れた氏康さんですが、実は内政に関しても非常に優れていたのです。
徹底した検地を行い、家臣や領民の負担を明確にして税制改革を行ったり、大規模な都市開発で城下町を発展させたりと・・・そして、そこには、城下町の成長とともに成長し、更なる堅固な城となっていた小田原城があったのです。
氏康は、野戦をせず、この小田原城に籠城して、謙信の大軍を相手に、持久戦に持ち込む作戦に出ます。
そして、その作戦は見事に成功します。
籠城して1ヶ月・・・未だビクともしない小田原城相手に、兵士の士気もさがりつつあった上杉軍に、ころあいを見計らって反撃を仕掛けた北条勢・・。
結局、謙信は、何も得るものの無いまま、撤退を余儀なくさせられてしまうのです。
しかし、憲政から関東管領職を譲られた謙信が、このまま納まるわけもなく、その後も、上杉と北条の対峙は続く事になるのですが、やがて訪れた永禄七年(1564年)、謙信に誘発された安房(あわ・千葉県南部)の里見義弘との第二次国府台(こうのだい)の合戦(1月8日参照>>)・・・またまた夜戦の奇襲で、見事、勝利したのです。
これで、下総(千葉県北部)をも、支配下に収める事に成功しました。
しかし、安心はできませんでした。
例の桶狭間の戦いにて大黒柱の今川義元を失った事で、一気にその勢力に衰えを見せ始めた駿河(静岡県東部)の今川氏に、永禄十一年(1568年)、甲斐(山梨県)の武田信玄が、突如、攻撃を仕掛けてきたのです(12月12日参照>>)。
義元の生存中には、それぞれの息子や娘を婚姻させて、甲相駿・三国同盟を結んでいた武田と北条と今川(3月3日参照>>)・・・義元の後を継いでいた今川氏真は、当然、北条に助けを求める事になります。
ここからの氏康は、謙信と並ぶ、もう一人の戦国屈指の名武将・武田信玄との戦いに突入する事となったのです。
やがて、今川氏を倒して、北条の相模(神奈川県)へと進攻を開始する信玄・・・永禄十二年(1569年)の10月1日には、小田原城を包囲した武田軍に対して、またまた籠城作戦で迎え撃つ氏康・・・。
そして、またしても、その籠城作戦は成功するのですが、この時の武田軍は、兵糧の確保が不十分だった事もあり、わすか5日間で、撤退させられています。
帰国の途についた武田軍に追い討ちを仕掛ける氏康・・・自ら率いる本隊に先駆けて、北条氏輝・氏邦に2万の軍勢を与えて、武田軍を追撃させましたが、残念ながら、この時は、本隊到着の前に北条勢は撃破され、氏康と信玄が直接対決する事はありませんでした(10月6日参照>>)。
その後も、武田との小競り合いが続く中、対・武田の一環として謙信との和睦を結ぶ氏康でしたが、その和睦もあまり成果が得られないまま、病魔が彼を襲う事になってしまいました。
以前、戦国時代の食べ物事情のページ(2月13日参照>>)でご紹介した通り、息子・氏政の食事の仕方のドン臭さを嘆いた氏康さん・・・己の知略で戦国の世を生き抜き、関東一円に勢力を広げ、さらに領民からも慕われた名将から見れば、確かに、息子は情けなかったのかも知れません。
江戸時代の学者たちからも、「文武に徳を備え、合戦には負けず、民政にも優れた古今の名将」と評された氏康さん・・・はたして、その脳裏には、目の前の上杉や武田よりも怖い、豊臣秀吉が見えていたのかも知れません。
「楽しみは諸侯の後に楽しみ、うれいは万民の先に憂う・・・」
元亀二年(1571年)10月3日、稀代の名将・北条氏康は、自慢の小田原城にて57歳の生涯を閉じました。
追記:本ページのタイトルに「隠れた名将」とさせていただきましたが、「隠れてない!」「超有名です!」とおっしゃる北条ファンの皆様・・・この「隠れた」というのは、あくまで、私の個人的主観で、「謙信や信玄に比べると、ドラマの主役になったのを、あまり見かけないなぁ」と思ったというだけなので、どうか広~いお心でのお許しを・・・
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コメント
「甲相駿三国同盟」の当事者3武将の時代が、それぞれの家中の全盛時代のような気がします。大河ドラマでは3武将が駿河湾を眺めるシーンがありますね。「3代目」としては日本史上、足利義満や徳川家光に劣らない人物ですね。
後にほぼ丸々徳川家康に領土が移りますが、この当時は武蔵(今の埼玉・東京・神奈川東部)より、相模(今の神奈川西部)の方が「都会」と言う感じでしたね。江戸城に移ると聞いた徳川家臣が驚いたと言う話を聞きます。
投稿: えびすこ | 2010年10月 3日 (日) 13時18分
えびすこさん、こんばんは~
家康が入った江戸城はあばら家みたいなところでしたからね~
しかも、当時の江戸は、小さな漁村でしたから…
それだけに開発し甲斐のある場所だったでしょうが…
「公方から関東を守れ!太田道灌・江戸城を築城」>>も参照していただけるとありたいです。
投稿: 茶々 | 2010年10月 3日 (日) 21時42分