栄西が伝えたお茶・その後~闘茶と御茶壷道中
建久二年(1191年)10月31日、この日、臨済宗の開祖・栄西(7月5日参照>>)が宋(中国)から帰国し、お土産として持ち帰ったお茶が、後に全国に広まった事から、今日10月31日は・・・といっても、旧暦に10月31日は無いので、おそらくは「1191年10月31日=建久二年10月5日」なのだと思うのですが、とりあえず、今日10月31日が日本茶の日・・・という事なので、本日はお茶のお話をさせていただきます。
とは言うものの、栄西さんとお茶のお話は一昨年書かせていただきましたので(2006年のページを見る>>)、今日は、その続きのお話をさせていただきます。
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鎌倉時代の初めに栄西がもたらし、臨済宗の僧の間で飲まれるようになったお茶は、室町時代は南北朝動乱になって、明日をも知れぬ時代を生き抜くに武士・・・特に婆沙羅(バサラ)大名と呼ばれるハヤリ物好きの武士の間で大流行します。
しかし、僧たちが眠気覚ましや薬感覚で飲んでいたのに対して、こちらは、さすがにバサラ・・・ド派手な飲み方です。
それは、『闘茶』・・・いわゆる賭け事で、茶寄合という会合を開いて、そこで出されたお茶の産地を当てる勝負です。
最初は、「本茶」か「非茶」かを当てるのを10番で1回とし、一晩で何回も行われ、膨大な賭け物が動いたと言います。
この「本茶」というのが、当時、最高のお茶とされていた栂尾(とがのお)産のお茶の事で、それ以外の産地の物が「非茶」という事になります。
栄西が持ち帰ったお茶の種を明恵(みょうえ)(1月19日参照>>)という僧が栂尾・高山寺で栽培したのが、栂尾産のお茶の始まりだそうですが、これを見ると、すでに、この頃、お茶の栽培が各地で行われ、それが都・京都に集荷されるという流通ルートが出来上がっていた事がわかりますね。
やがて、この闘茶は、栂尾産と同時に、各地のお茶の産地をも当てる複雑なものになっていくのですが、それとともに足利尊氏が式目で禁止を呼びかけるという事もあり、徐々に南北朝の動乱がおさまるにつれ衰退していきました。
さらに、この頃から、茶所の最上位とされていた栂尾に強力なライバルが出現します。
もともと、お茶の栽培というものは、寒肥・春肥などなど年7~8回は肥料を与えないといけないらしいのですが、当時の肥料といえば・・・そう、出物腫れ物ところ嫌わずのアレです。
今でこそ、全国各地、様々な食べ物がいきわたり、地域によって栄養の摂取の仕方が変わるなんて事はありませんが、当時は、まだまだ、都と地方の差がはげしく、栄養豊富な都の人々が排泄するアレが、一番栄養価の高い良質の肥料とされていたのです。
都に近い宇治なら、その良質の肥料を手に入れる事が容易だった・・・って、「栂尾も京都やん!」と現代人は思ってしまいますが、今とは交通の便がまるで違うのです。
当時は、嵐山高雄パークウェイもありませんので、栂尾へは周山街道一本・・・しかも、道幅が狭く、たくさんの荷物を一度に運ぶ事は困難でした。
その点、宇治には、あの宇治川が流れています。
当時は、一度に大量の物を運ぶには、船が一番・・・なんせ、肥料はその新鮮さが第一ですから・・・。
かくして、宇治茶は、良質のお茶の大量生産に成功し、一方の栂尾は良質ではあるものの大量生産する事ができなかったのです。
この事は、この後、訪れる茶の湯ブームに大きく関わってきます。
武野紹鷗(じょうおう)(10月29日参照>>)らが起した茶の湯は、千利休を以って完成し、戦国武将の間でステータスとなるにつれて、その需要が高まり、大量生産は第1の条件となります。
こうして、宇治茶は日本一の座を獲得する事になるのですが、やがて、幕府が江戸に移っても、やはり宇治茶が日本一・・・定期的に、京都から江戸へ運ばれるのですが、これが、あの有名な御茶壷道中です。
毎年、5月下旬から6月上旬に、約半月かけて京都から江戸へ運ばれ、大名行列でさえ道を開けなければならない御茶壷のお通りは、将軍のお通りと同じだったと言います。
皆さんご存知の「ずいずいずっころばし」・・・
♪ずいずいずっころばし ごまみそずい
ちゃつぼに追われて ドッピンシャン
抜けたら どんどこしょ
俵のねずみが 米食ってチュウ
チュウ チュウ チュウ
おっ父さんが呼んでも おっ母さんが呼んでも
行きっこな~し~よ
井戸のまわりで お茶碗かいたのだ~れ♪
これは、御茶壷道中が村を通る時に、「もしかして粗相があって斬り捨てられたら大変!」とばかりに、慌てて家の中に入って、戸をピシャリと閉め、ねずみが米を食べても、お父さんが呼んでも、お母さんが呼んでも、お茶壷が通り抜けていくまで出てきちゃダメよと、子供に教え込んだ歌だと言われています。
そんな御茶壷道中は、慶長十八年(1613年)から慶応二年(1866年)まで、まさに江戸時代を通じて続けられていたと言います。
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