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2008年10月24日 (金)

明智光秀と丹波・福知山の明智藪

 

天正七年(1579年)10月24日、明智光秀が安土で織田信長に謁見し、丹波国を平定した事を報告しました。

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明智光秀と言えば、どうしてもあの本能寺の変を思い出してしまいます。

主君の織田信長に叱責され、足蹴にされて、柱だか欄干だかに頭を打ち付けられながらも耐えて耐えて・・・そして本能寺で大爆発!(6月2日参照>>)

・・・と、ドラマなどでは、大抵こんな感じで描かれますが、皆さんご存知の通り、アレはほとんど後世の創作です。

そりゃぁ、何か失敗をすれば怒られもしたでしょうが、それは他の家臣も同じで、光秀だけが怒られてたわけではありませんし、実際には、信長さんのパワーハラスメント的な記録は皆無です。

石山本願寺と和解した頃から、信長は、あの佐久間信盛(7月24日参照>>)を筆頭に、古い家臣たちを一掃して新しい人材登用を試みはじめますが、そんな家中改革の出世頭は、明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉です。

しかも、光秀と秀吉では光秀のほうが一歩リード、家臣団の中で最も早く一国一城の主となっています。

パワーハラスメントどころか、信長一番のお気に入り家臣だったのです。

そんな光秀さん・・・以前書かせていただいたように、その経歴は謎に包まれています(10月18日参照>>)

清和源氏土岐氏の流れを汲む明智氏(9月20日参照>>)というのも、本当のところはわからないし、生まれた年さえはっきりしないのですから・・・

ところが、室町15代将軍・足利義昭が信長を頼った時に、いきなりその家臣として登場し、知識が豊富で教養にあふれ、京で使われている室町言葉を話し、しかも礼儀作法がしっかりしている・・・その上、最近出回り出したばかりの鉄砲の腕もイイとくれば、信長が食いつかないわけがありません。

なんせ、信長の家臣は、ほとんど尾張の人・・・室町言葉を話せなきゃ、朝廷や幕府との交渉もおぼつかない状況だし、特に朝廷からは田舎者扱いされますからね。

ここは一つ、洗練された雰囲気のシュッとしたお兄さんに広告塔になっていただいて、中央の方々に、「織田君って、なかなか都会的~」と言わせたい。

それにしても、光秀は、そんな教養をどこで身につけたんでしょうか。

越前(福井県)朝倉氏に仕える前に、諸国を流浪していたって言うけれど、ただ流浪しただけでそう簡単に身につきませんからねぇ。

光秀のこの洗練された雰囲気と比較されるのが、同じように出世した、かの秀吉です。

出自が低い秀吉の武器は、持ち前の要領の良さと斬新なアイデアと愛想の良いキャラクター・・・対する光秀は、正反対の・・・と言いたいところですが、私としては、光秀も秀吉と同じような環境で育ったのではないか?と思っています。

もちろん、謎に包まれているので、自分勝手な印象ですが・・・。

秀吉は、自分の出自や無学をさらけ出して、自分自身を貶め、負けを認めておいて相手を上の立場にあげておきながら、いつの間にか逆転してしまう。

光秀は、それができないタイプの人だったのではないでしょうか?

もともとの出自が良いのではなくて、出自が低いぶん、バカにされたくないから影で努力する・・・負けを認めたくないから頑張る・・・そんな感じの人ではなかったかと思います。

・・・・・・・・

あ・・・そうそう、今日は光秀が信長に、丹波国を平定した事を報告したという話でしたね。

かのルイス・フロイスによれば、その性格は、独裁的で秘密主義、残酷で策謀家で平気で人を裏切り、自分を偽装する事が得意・・・と散々な言い方をされている光秀ですが、この平定した丹波一国を与えられ、亀山福知山に城を築き、内政には、なかなかの手腕を発揮しています。

その城下町の基礎を築いた福知山では、今も、毎年8月14日~16日と25日・26日の5日間、『ドッコイセまつり』が開催されています。

このお祭り・・・全国ネットのガイドブックなどでは、『福知山踊り』という名前で紹介されたりしていますが、地元では『ドッコイセまつり』と呼ぶのが一般的で、この「ドッコイセ」というのは、福知山城の築城に携わった領民たちの作業の時のかけ声だったのだとか・・・

領民たちが「ドッコイセ」と唄いながら作業する中、いつしかそこに踊りがついて年に一度の祭となり、それが400年もの長きに渡って受け継がれる・・・これこそが、光秀の内政が成功していた事の証しと言えるものなのかも・・・。

Aketuyabufukutiyama 明智藪:右後ろが福知山城です。

福知山市内を流れる由良川には、その氾濫防止と海運の発展を願って光秀が築いた『明智藪(あけちやぶ)と呼ばれる大堤防が今も残ります。

福知山の歴史散歩はホームページでどうぞ>>
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コメント

早速のリンクありがとうございます。
私のほうも早速リンクさせていただきました。今後もお互いに頑張りましょうね!(*゚▽゚)ノ

投稿: 左近将監 | 2008年10月24日 (金) 11時24分

左近将監さん、ありがとうございます~

お互い末永く・・・よろしくお願いします

投稿: 茶々 | 2008年10月24日 (金) 12時13分

はじめまして、いつも楽しく拝見しています。DJのクリスペプラーさんが明智光秀の子孫だってご存知でしょうか?日本人であるお母様のご先祖様だそうですよ。家系図があるとご本人がおしゃってました。‘洗練された雰囲気のシュッとしたお兄さん’ってまさにペプラー氏そのものじゃないでしょうか。

投稿: JOY | 2008年10月25日 (土) 23時30分

JOYさん、コメントありがとうございます。

やはり、そういう家系の方は、家系図が残っているもんなんですね~。

「洗練された雰囲気のシュッとしたお兄さん」は、私の勝手なイメージですが、意外に当たってるかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2008年10月26日 (日) 01時17分

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