政治から美術へ~岡倉天心を転身させた奥さんのご乱心
明治三十一年(1898年)10月15日、岡倉天心らが、美術研究団体・日本美術院を結成しました。
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慶応四年(1868年)、明治政府は神仏分離令を発令します。
国のトップが徳川家から明治天皇になった事で、日本古来の神道が国の宗教とされ、それまでの混在する状態から、「神と仏を、きっちりと分離せよ」と言うのです。
それは、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動に発展し、それまで、同じ敷地内にあった神社とお寺が移動させられたり、あるいは壊されたり・・・同時に、多くの仏像や仏教美術が破壊されたり、外国に流出したりしたのです。
あの奈良の興福寺の五重塔が250円で売りに出されたのも、この頃・・・しかも、その250円はてっぺんに着いている相輪の金具代で、建物には価値がないとみなされていたのですから驚きです。
以前、書かせていただいた金毘羅(こんぴら)さんも、この時に紆余曲折・・・イロイロありました(10月9日参照>>)。
もちろん、宗教絡みだけではなく、城郭も、徳川時代の忌まわしい遺物&ただデカイだけの無用の長物として壊される事もあったのです。
しかも、その廃仏毀釈とともに、押し寄せた西洋化の波で、美術の世界でも西洋一色となり、日本画は西洋画よりも劣るという考えが蔓延していったのです。
そんな中、日本美術の素晴らしさを説き、後進を育て、日本画改革運動や古美術の保存に力を注いで、近代日本美術の発展に尽くした人・・・それが、岡倉天心(てんしん)なのです。
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岡倉天心は、本名を岡倉覚三(かくぞう)と言い、生糸の輸出業を営む元福井藩士・岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として、文久二年(1863年)に横浜で生まれました。
12歳で東京開成学校(後の東京大学)に入学し、アメリカから講師として招かれていたフェノロサから政治経済を学びますが、そのフェノロサが、美術の専門知識もあり、日本の古美術や仏教美術にも関心があった事から、彼の通訳として、一緒に寺院など各所を巡った事で、天心本人も、徐々に美術に興味を持つようになります。
在学中、16歳で大岡もと(基子)という女性と結婚・・・やがて、17歳で学校を卒業して文部省へ就職した天心は、そこで命じられた全国の社寺調査を行ううち、日本美術の素晴らしさを知ると同時に、冒頭に書いたように、それが軽視されている事を肌で感じ、「これを守っていかねば!」という思いを抱くようになるのです(6月25日参照>>)。
明治十九年(1886年)に、フェノロサとともに、欧米の美術教育を目の当たりにした天心は、帰国後、東京美術学校(後の東京芸術大学)の開校に携わり、4年後の明治二十三年(1890年)には、27歳の若さで、その校長にも就任します。
その天心のもとで学んだのが、あの横山大観(たいかん)や菱田春草(しゅんそう)といった、この先、日本画を革新的にリードする面々です。
しかし、以前の欧米視察で学んだ西洋絵画の手法を取り入れ、新しい日本画のありかたを目指す天心の方針は、伝統美術から抜けきれない周囲のおエラ方からの非難を浴びる事になってしまいます。
その圧力に耐えかねて、校長を退職した天心は、自分を慕ってついてきた大観・春草らの同志26名とともに、その半年後の明治三十一年(1898年)10月15日、日本美術院を創立したのです。
ところで、このように、美術ドップリの人生を送っている天心ですが、実は、本当は、美術の道に進むはずではなかったのです。
確かに、生涯の師とも言えるフェノロサの影響で美術が大好きになりました。
しかし、先に書いた通り、学校で学んでいたのは政治経済・・・天心は、自分を育ててくれた乳母の話す、安政の大獄(10月7日参照>>)で散った尊皇攘夷論者・橋本左内(10月7日参照>>)が大好きで、もともと政治の事を勉強したくて入学したワケで、もちろん専門も政治だったのです。
そんな彼の卒業論文のテーマは『国家論』・・・美術とはまったく関係ありません。
実は、政治の世界を目指していた天心を、美術の世界へと転身させたのは、あの16歳で結婚した奥さんなのです。
学生結婚した天心・・・卒業を間近にひかえ、論文も完成し、後は提出日を待つばかりとなった頃、ちょうど奥さんは妊娠中・・・。
この時、二人はささいな事で夫婦ゲンカをしてしまったのですが、そこで、怒りにまかせて奥さんご乱心!・・・目の前にあった卒業論文をビリビリに破り捨ててしまったのです。
「あぁ!まだコピーとってないのに~!」とは言わないでしょうが、その時は、すでに、期限は2週間後に・・・とても、今から同じ物を書きなおす余裕はなく、「どうしたもんか」考え抜いた結果、天心は、以前、あこがれのフェノロサ先生から聞いた美術に関しての話を思い出し、わずか2週間で『美術論』を書き上げて、何とか期限までに提出したのです。
つまり、卒論のテーマが美術だったので、就職した文部省で、美術行政を担当する事になったわけで、ひょっとして、それがなかったら、別の部門の担当になっていたかも知れないのです。
無論、これだけ、美術の発展に尽くした人ですから、もしかしたら、その時、美術行政の担当になっていなくても、結局は、美術の道に進んだのかも知れませんが、奥さんの怒りのご乱心が、美術への近道を作ってくれた事は確かかも知れません。
人間、何が幸いするかわかりませんねぇ・・・論文もたまには破ってみるもんだ!・・・って~違うかぁ?
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コメント
岡倉天心とフェノロサって言うと法隆寺の救世観音思い出します。
今シーズン3回行ってますが残念ながらまだ秋は対面してないです(^◇^;)
投稿: ふくちゃん | 2008年10月15日 (水) 23時49分
ふくちゃんさん、こんばんは~
やっぱり、天心が日本美術のすばらしさを痛感した一番のモノは、夢殿のご開帳だったでしょうね。
>今シーズン3回・・・
すばらしいですね~
私も救世観音様には2度ほど対面しておりますが、2度目もやっぱり感激しました~
法隆寺は、私自身が、歴史好きなのをを確認して最初に訪れた場所なので思い出深いです。
投稿: 茶々 | 2008年10月16日 (木) 00時28分
茶々さんもかなりイラストがうまいのですが、中学・高校時代は美術部だったんですか?(・∀・)イイ! イラストギャラリーを見ると「イラストレターレベル」のうまさなので(*^-^)。
歴史雑誌のさし絵に採用されてもいいくらいです。
投稿: えびすこ | 2011年7月 4日 (月) 22時18分
えびすこさん、こんばんは~
子供の頃に漫画家になりたかったので、絵を描くのは好きです。
専門的にやった事はありませんが…
最近ななかなか時間がなくてイラスト無しになっちゃってますが…(;´д`)トホホ…
投稿: 茶々 | 2011年7月 4日 (月) 22時40分