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2008年10月29日 (水)

水戸黄門の大日本史が皇室系図に与えた影響

 

享保五年(1720年)10月29日、水戸藩『大日本史』240巻を幕府に献上しました・・・と、実は昨年の10月29日にも、この大日本史の事を書かせていただきました。

昨年は、かの水戸黄門さまが、日本の歴史を一冊にまとめようという考えに至った経緯や、その関連から行った古墳の発掘調査について書かせていただきました(昨年のページを見る>>)が、本日は、一部完成した(すべてが完成するのは明治三十九年=1906年です)この大日本史が、後の世に与えた影響など、お話したいと思います。

・・・・・・・・・・・

もし、お手元に歴史の教科書をお持ちでしたら・・・、なければ、ネットで確認していただいても良いのですが、今の『皇室の系図』には、初代・神武天皇から、現在の125代・今上天皇まで、神話時代の天皇の実在か架空かの問題はともかく、脈々と受け継がれてきた第○○代という順位があるわけですが、実のところ、いくつかのややこしい部分があります。

そのややこしい部分を決定したと思われるのが、この大日本史・・・というか、この大日本史の天皇の在位の記述に従って、現在の教科書等にも第○○代という書き方がされているのです。

大日本史は、初代の神武天皇から第100代の後小松天皇までの100代(厳密には南北朝合一まで)の天皇を、ほぼ年代順に追う形で、様々な事が書かれているわけですが、たとえば、一番ややこしい南北朝時代・・・。

ご存知のように、この時代は、南朝と北朝・・・この両方に天皇がいたわけですから、同時に二人の天皇が存在した事になります。

Nanbokutyoukeizu2cc ・・・で、現在の教科書等では、第96代・後醍醐天皇の次の第97代は、その息子・九男の後村上天皇、そして第98代は、その後村上天皇の第一子・長慶天皇・・・南朝の天皇が代々その順番を継いでいくのです。

南北朝時代の天皇系図→)

この間の北朝の天皇である光厳天皇光明天皇崇光天皇・・・は、それぞれ、北朝第1代・北朝第2代・北朝第3代として歴代天皇には数えません。

この南朝を正統とする書き方の基本となったのが大日本史。

南北朝時代は、おおむね北朝が都である京都に居を構え、北朝中心に事が運ばれたにも関わらず南朝を正統としたのは、三種の神器の行方も影響しています。

ご存知、三種の神器・・・

あの天照大御神(天照大神・アマテラスオオミカミ)天岩戸に隠れた時に(7月6日参照>>)、連れ出す手段として、榊に結びつけた八咫鏡(やたのかがみ)八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)、そして、須佐之男命(素戔鳴尊・スサノヲノミコト)八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に尻尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣)の3つです。

これは、歴代天皇に受け継がれている物なので、とにかく、この3つのお宝を持ってる人が天皇という事なのですが、実は、この南北朝の動乱の最初の段階で、一旦、北朝側に捕まった後醍醐天皇は、その命と引き換えに三種の神器を北朝側に渡すのですが、後日、幽閉先から逃げ出して、「北朝に渡したアレはニセ物だった」と主張し、吉野にて南朝という朝廷を誕生させる事になり、最後の南北朝合一(10月5日参照>>)のところでも、南朝側の後亀山天皇が、北朝第6代の後小松天皇に、三種の神器を渡して合一となるので、一応、この南北朝の時代は、南朝が持っていたのが本物という事になってます。

ただし、大日本史で、南朝側が正統とされるのは、この三種の神器もさることながら、後醍醐天皇に味方した新田義貞の影響が大きいんでしょうけどね。

それは、徳川家康が新田氏の子孫の言い張っていたので・・・

つまりは、徳川家のご先祖が味方したほうに軍配を上げた感が拭えません・・・まぁ、徳川御三家の水戸の黄門さまが編さんしたわけですから・・・。

この大日本史が南朝を正統とした事は、幕末の勤皇の志士たちにも大きな影響を与えたとされます。

ただし、教科書で南朝を正統とするのには、即決されたわけではなく、明治期には一波乱もありました。

・・・というのも、明治天皇が北朝第3代の崇光天皇の子孫にあたるため、明治の頃の皇室や公家が北朝を正統としていたからで、明治のはじめ頃の教科書では、両方が正統だとされていたようです。

しかし、明治の終わり頃に、「両方が正統とすれば、この国が二つに分裂していた事を認める事になる」と歴史学会で大議論となり、当時、明治天皇が所持していた三種の神器が、例の南北朝合一の時に、南朝から北朝へ渡された三種の神器だとして、大日本史の記述を採用し、北朝の天皇は数えないものとなったのです。
(現在では、後醍醐天皇の「アレはニセ物」という主張もアヤシイという事で、北朝の天皇は、歴代天皇に数えはしないものの、どちらか一方が正統という考えはないようです)

さらに、第39代・弘文天皇を、第39代とするのにも、大日本史の影響があると思われます。

この弘文天皇とは、あの壬申の乱(6月24日参照>>)で敗れた大友皇子の事です。

第38代・天智天皇が、弟の大海人皇子「皇位を譲りたい」と言ったのを、大海人皇子が蹴って、出家して吉野に入るわけですが(10月19日参照>>)、その天智天皇が亡くなった後に挙兵して、壬申の乱で天智天皇の息子・大友皇子を倒して天武天皇となるアレです。

天智天皇が亡くなってから、大友皇子が敗れるまで、わずか半年ちょっとであったため、それまでは歴代天皇に数えられはいませんでしたが、明治三年(1870年)に第39代・弘文天皇という事になりました・・・大日本史の記述と同じになったのです。

また、第14代・仲哀天皇の奥さん・神功皇后は、仲哀天皇が亡くなってから応神天皇が継ぐまで、かなりの空白期間がある事から(9月5日参照>>)、それまでは天皇の一人として数えられていましたが、神功皇后は大友皇子とは逆に、大正十五年(1926年)に歴代天皇から外されています・・・神功皇后も、大日本史では天皇とされていません。

「南朝の正統」
「大友皇子を弘文天皇とする」
「神功皇后は天皇に数えない」

・・・と、それぞれの大日本史の記述が、どのような経緯で現在の皇室系図や教科書に採用されたかのもっともっと細かな事は、私も、まだまだ勉強しなくてはいけないところなのですが、こうしてみると、少なからず影響を与えた事は確かだと思いますね。
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コメント

日刊スポーツによると、「水戸黄門」が年内で打ち切りになるΣ(゚д゚;)らしいです。
長年のファンとして残念です。(。>0<。)
来年からTBSの月曜は時代劇がなくなるのかな?
3~4年前から視聴率低迷が顕著で、週刊誌でも「打ち切り寸前か?」と言う記事が出ていました。
確かに日曜の「JIN」には負けていましたね。
水戸黄門は視聴者の年齢層が高く、若い世代が見ないという事情もあったのかな?
でも、これを機に若い世代向けの時代劇が製作されれば、「時代劇の灯」は残ります。
まさか、大河ドラマより先に終わるとは…。
下手すると大河ドラマも「連座」して、地上波の放送を止めて、BS単独放送に移行する時代が来るのかも?

投稿: えびすこ | 2011年7月15日 (金) 09時12分

えびすこさん、こんにちは~

そうですか…
水戸黄門が終わるのですね。
やはり、寂しいですね。

投稿: 茶々 | 2011年7月15日 (金) 11時37分

以前、「大河ドラマが打ち切りになると水戸黄門も連座するかも」と書きましたが、反対になりそうです。12月で終わる予定です。水戸市・常陸太田市はさぞや残念でしょう。
でも「ハンチョウ」はいつまでもできる番組ではないので、いずれ新番組が必要ですね。来年以降のTBSの月曜夜8時台の番組はどうなるんでしょうね?
若い人のテレビ離れがあるので、民放時代劇も20代や30代前半の俳優を、主役にしないといけないと思いますね。
「水戸黄門」の打ち切りはファンとして寂しいですね。

投稿: えびすこ | 2011年7月15日 (金) 12時29分

えびすこさん、こんにちは~

夜8時代のドラマは、ターゲットが広すぎてなかなか難しいかも知れませんね。

結局は、皆で楽しめるバラエティになったりして…

投稿: 茶々 | 2011年7月15日 (金) 17時03分

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