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2008年10月 5日 (日)

フビライの日本侵略計画はあったのか?

 

文永十一年(1274年)10月5日、総勢4万と言われる元軍が、対馬西岸の佐須浦沖に姿を現しました。

・・・・・・・・・

元軍・2万、高麗軍・5千6百、その他の航海士や水夫・1万5千の軍勢を率いて、2日前に大陸を出発した船団は、文永十一年(1274年)10月5日対馬(つしま)沖に到着・・・夕刻にはその中の約3百の兵を、佐須浦(対馬市厳原町)に上陸させました。

世に言う元寇=蒙古襲来の第一回目・文永の役の勃発です。

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元軍の船(宮内庁三の丸尚蔵館蔵「蒙古襲来絵詞」部分)

この知らせを聞いた対馬国守護代の宗助国(そうすけくに・資国)は、すぐさま80騎ほどの軍勢を引き連れて佐須浦へ向かいました。

翌・6日に、現地に到着した宗勢は、いったんは、上陸軍を海に押し戻すほどの活躍をみせますが、最終的に全滅し、敵の放った火によって、佐須浦一帯は焦土と化しました。

その後、次々と上陸する元+高麗軍によって、一般島民への暴行・殺害・略奪行為が行われ対馬は壊滅します。

元+高麗軍は、一週間ほど滞在した後、今度は壱岐(いき)へと向かい、14日には、壱岐西北部から上陸・・・壱岐国守護代・平景隆(たいらのかげたか)との夜を徹しての死闘の末、平勢を全員自刃に追い込みました。

その後、さらに周囲の島を襲撃しながら九州へと向かった元+高麗軍の船団・・・やがて、文永十一年(1274年)10月19日博多湾に侵入してきたのです(10月19日参照>>)

Qubilai600at ところで、この文永の役と、7年後の弘安の役(6月6日参照>>)・・・2度にわたって行われる元の襲来ですが、当の元の皇帝・フビライ(クビライ=忽必烈・Хубилай хаан)真意はどうだったのでしょう?

本当に、日本を侵略するつもりだったのでしょうか?

そもそも、最初にフビライの国書を日本に持ってきたのは、高麗の使者でした。

文永四年(1267年)に来日した彼らから、翌年、フビライの国書と高麗の添え書きの2通を手渡さたれた筑前国(福岡県)守護少弐資能(しょうにすけよし)は、すぐに、鎌倉幕府にその書状を送りますが、「外交の事は朝廷がやるべき」と考える幕府は、それを京都に転送するのです。

受け取った朝廷は、どうしていいか戸惑うばかり・・・右往左往してるうちに、結局、幕府の「返事をすべきでない」という意見に傾き、フビライの国書を無視する・・・という結論に達したわけです。

幕府が、「返事をすべきでない」との判断をした理由の第一は、「無礼である」という事だそうです。

そのフビライの国書のおおまかな内容は、以前、時の執権・北条時宗元の使いを斬殺した日のページ(9月7日参照>>)でも書かせていただいたのですが、もう一度、ここで引用させていただくと・・・

「あんなぁ、高麗(こうらい)は、俺ンとこの属国やねんで。
君とこって、昔から高麗と仲えぇし、中国に使い送ったりしとったやんか。

せやのに、俺の代になってから、いっこも使いよこさんと、ぜんぜん交流ないやん。

ひょっとして、俺ンとこの国の事、ようわかってないんちゃうかな?って思て、心配してんねやんか。

せやから、こっちから使いを出して、手紙渡して、俺の気持ちわかってもらおかなって・・・・俺かて、できたら武力行使は、したないしなぁ・・・」

と、こんな感じです。

この最後の部分・・・「俺かて、できたら武力行使は、したないしなぁ・・・」が、無礼だという事になったのです。

つまり、幕府は、この部分を『脅迫』と判断したのです。

確かに・・・実際には、お目にかかった事はありませんが、ドラマなど見かけるぼったくりのコワイお兄さんのセリフに似てます。

「俺かて、こんな事したないんやけど・・・」と言いながら、散々暴れまくって金を巻き上げていきます。

日本人の心の奥底には、こういった言い回しが、脅しである事がインプットされているようですが、今回の相手はフビライ・・・そのお国柄も違いますから、本当に、脅しのつもりで、そう言ったのか?
はたまた、言葉通り、武力行使は避けたいと思っていたのか?

その心の奥底を読み取るのは、おそらく不可能なのでしょうが、ただ、この国書の末尾には『不宣(ふせん)という文字が書かれていたらしいのです。

この不宣というのは、中国の様式で、相手に敬意を表する場合に、末尾につけるものなのです。

少なくとも、この国書の内容と、その末尾の不宣の文字を見る限りでは、日本を、臣下にしたり、属国として元に取り込もうという姿勢は見えず、元以前の中国と日本の関係・・・つまり、貢物を持った使者をよこしての交流を復活させる事=円満なる国交回復を願っているだけのようにも思えます。

しかし、幕府はこの国書を脅迫と受け取りました・・・よって、「無礼な国書に返事はしない」との徹底した無視を繰り返すわけですが、もし、フビライの真意が、本当に友好的な国交回復にあったのだとしたら、フビライ側から見れば、「せっかく、こっちが仲良うしょ~って言うてんのに、シカトするんかい!」と怒り爆発となるわけです。

そうなると、最初のうちは、侵略目的ではなく、それこそ、「ちょっと威しをかけておいて、その後、あらためて外交交渉の席につかせて、国交回復へと持ち込みたい」という意図のもとでの出兵だったのかも知れませんね。

まぁ、結局、武装船団でやって来るので、コチラは迎え撃つしかありませんが・・・

以前も書かせていただいたように、お国柄が違えば、考え方も常識も違いますから・・・とかく、外交というのは、今も昔も難しいものです。
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