「三本の矢」の毛利を救ったのは4本目の矢~毛利秀元
天正七年(1579年)11月7日、中国地方一帯に勢力を誇った毛利元就の四男・穂田元清の息子で、後に輝元の養子となって、さらに長門長府の初代藩主となる毛利秀元が誕生しています。
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この毛利秀元さん・・・個人的には、毛利家にとって、とても重要な人だと思うのですが、ドラマなどでは、あまり大きく扱われる事がありませんねぇ。
毛利家と言えば、あの「三矢(さんし)の訓(おし)え」=三本の矢の逸話・・・毛利家を、西国の雄に押し上げた毛利元就が、その死を間際にして、3人の息子に言ってきかせた一家団結の教訓です。
それは、Jリーグチームがサンフレッチェ広島(サン=3・フレッチェ=矢)と名付けられるほど有名なエピソード・・・。
「1本だと折れやすい矢も、3本束ねると相当な力を以ってしても折る事ができない・・・だから、兄弟3人で力を合わせて頑張れ」というもので、地元には、3人の息子に、教訓を言ってきかせる元就親子の銅像なんかもあるようですが、残念ながら、このエピソードは後世の創作です。
第一、元就の長男の毛利隆元は、父より先に亡くなっていますので(8月4日参照>>)、元就の臨終の時に、3人の息子に言いきかせる事はできないわけですから・・・。
かと言って、まったくのウソではありません。
それは、まだ隆元が元気だった弘治三年(1557年)・・・11月25日付けで、元就が、長男・隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景の3人の息子宛てに「三子(さんし)教訓状」なる書状を送っている事に由来します(11月25日参照>>)。
そこには、「3人の間に少しでも亀裂が生じたら、3人とも滅亡すると思え」てな事が書いてあって、この書状の内容がもととなって、3本の矢の逸話が生まれたのです。
実際の、元就の息子たちも、この父の教えをよく守り、父の死後は、若くして亡くなった隆元の息子・毛利輝元を、毛利家の当主として元春と隆景が見事にサポート・・・この二人の名字に川がついていたところから、毛利の両川(りょうせん)と呼ばれていた事は、このブログでも度々書かせていただいています。
・・・と、こうしてみると、あたかも、元就には3人の子供しかいなかったように思ってしまいますが、実は、元就さん、70代になっても、まだ子づくりに励んでいた元気満々ジィチャンで、男女それぞれ12人のお子さんを設けております。
そのうち、9人の男の子と2人の女の子は無事成人しています・・・って、キュ・・・9人?
そうなんです。
今後、毛利家を盛りたてていくであろう男の子が9人もいるのにも関わらず、先の教訓の手紙は3人にだけ・・・だから、逸話も3本の矢・・・
実は、この3人が正室・妙玖(みょうきゅう)さん(11月30日参照>>)との間にできた子供・・・この時代、どうしても、正室の子供と側室の子供との間に、格差ができてしまうのは、しかたのない事なのでしょうね。
・・・で、今日ご紹介する毛利秀元さんのお父さん・元清さんは、元就と乃美(のみ)の方との間に生まれた、元就にとって4番目の男の子です。
ただ、乃美の方は、正室が亡くなった後に、継室・・・つまり後妻となるので結局は正室なのですが、やはり、上の3人の息子とは扱いが違ったのでしょうか?
そんな元清は、17歳の時に伊予水軍に属する来島通康(くるしまみちやす)の娘を妻にし、24歳の時に毛利配下の穂田資元(ほいだすけもと・穂井田)の養子となって穂田元清と名乗り、28歳の天正七年(1579年)11月7日、宮松丸・・・後の秀元が生まれたのです。
ところで、今日の本題・・・なぜ、この秀元さんが、毛利にとって重要なのか?というお話ですが・・・
それは、文禄元年(1592年)7月20日の事・・・
その時、かの豊臣秀吉は例の朝鮮出兵(3月26日参照>>)の指揮をとるため、備前(佐賀県)の名護屋に滞在していたのですが、母・なか(大政所)の危篤の知らせを聞き、いてもたってもいられず、急遽、京都に戻る事になり、瀬戸内海を船で航行中でした。
しかし、その日は大変波が荒く、船は、小さな岩礁にぶつかってしまうのです。
(武蔵VS小次郎の決闘で知られる巌流島だと言われています)
かろうじて岩につかまり、何とか助けを求めますが、荒波はいやおうなく身体を痛めつけ、老いた秀吉にとっては、その命も時間の問題・・・
すると、向こうのほうから、荒波をものともせず近づいてくる小さな舟がありました。
小舟の操りに慣れた少年は、震えながら岩にしがみついている老人を助けますが、助けたその老人が太閤秀吉と聞いて、びっくり。
秀吉が、命の恩人となった少年に何か褒美をやろうと、その名前を聞くと、「毛利元就の四男・四郎元清の息子だ」と言います・・・これには、秀吉もびっくり。
そう、この少年が宮松丸・・・秀吉は、早速、大坂城に連れ帰って、自分の一字を与え、秀元と名乗らせたのです。
その後、この秀元は、実子がいなかった輝元の養子となるのですが、秀吉は「周防・長門(山口県)の2国は秀元の物・・・誰も、これを奪ってはならない」という約束を、徳川家康ら五大老に連判させたのだとか・・・。
やがて、秀吉が亡くなった後に勃発した関ヶ原の合戦で、かの輝元は西軍の総大将として大坂城に(7月15日参照>>)、秀元は、大坂城に留まる輝元の代理という立場で、毛利勢を率いて関ヶ原に向かいます(9月15日参照>>)。
結果は、ご存知の通り、家康率いる東軍の大勝利となります。
事前に家康との密約を交わしていた吉川広家(元春の息子)の指示によって、現地で参戦する事はなかったので、合戦を見ていただけの毛利は、約束通り領地が安堵される・・・はずでした。
しかし、家康は見事な約束破りで、領地を大幅にカットしてしまうのです(9月28日参照>>)。
結局、毛利に残った領地は、周防・長門の2国・・・そう、あの秀吉が、「秀元の物、誰も奪うな」と言って、家康らに連判させた、あの2国だけだったのです。
先ほどの、瀬戸内海での遭難のエピソードが、どこまで事実に近いのかはわかりませんが、もし、本当に何らかの約束事があったのだとしたら、おそらく、未だ、「豊臣家のために関ヶ原の合戦をやった」というポーズをとっている段階の家康にとって、毛利から周防・長門の2国までを奪い取る事は、豊臣恩顧の家臣たちの反感を買う事としてできなかったのではないか?と思います。
かくして、周防・長門の2国に押し込められた毛利・・・その後、輝元に実子が生まれた事で、秀元は、毛利家当主の座を辞退し、長門長府の初代藩主となります。
この毛利本家の当主を辞退するのは、もちろん、偉大なジッチャンの教えを守っての事です。
この行動を見ただけでも、秀元が、冷静な判断のもとに先を読む力のある名将であった事がわかります。
あの小早川隆景が、秀元の事を「家族(孫含む)の中で、一番オヤジ(元就)に似てる」と言ったというのもわかる気がします。
その後、輝元の直系が耐えた後も、それを引き継いで萩藩主となったのは、秀元の子孫でした。
こうして、江戸時代を通じて、毛利の家を守り続けてきた秀元の末裔たち・・・やがて徳川250年の後、長州藩は、幕末の表舞台に登場する事となるのです。
ね・・・秀元さんなくしては毛利は語れないくらい重要人物だと思いませんか?
・‥…━━━☆
●秀元さんの大坂の陣での活躍ぶりは
【大坂夏の陣~グッドタイミングな毛利秀元の参戦】で>>
●大江から毛利へ続く気になる4番目の法則については
【広元を祖に持つ戦国武将…4本目の矢の法則】で>>
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コメント
はじめまして!
日本史ブログランキングのほうから来ました
ちょうど3本の矢を昨日歴史で習ったところですo(*^▽^*)o
三矢の訓えって後世の創作なんですね。
授業中習ったのですが秀元の名前が秀吉から来てるのは知りませんでした
関が原といえば西軍は石田三成が中心になってると言いますが、総大将の輝元と副将の宇喜多秀家は最近知りました。
なんで三成が中心になってたんでしょうか
私は三成が大将だと思ってました!!
投稿: 奈央 | 2008年11月 8日 (土) 11時46分
奈央さん、はじめまして~
コメントありがとうございます。
歴史の授業・・・今となっては懐かしい響きです(*´σー`)
ところで、西軍の中心人物は、やはり石田三成・・・ただ、家康と相対するとなると、それ相当の格のある人物でないと・・・
って事で、西国の雄・毛利の当主・輝元に、総大将をお願いしたって事でしょうね。
これからも、また、遊びに来てくださいね。
投稿: 茶々 | 2008年11月 8日 (土) 14時06分
忘れられた頃にやってきました(^O^)/
3本の矢って作り話だったんですね!
最近、テレビで歴史について新説を紹介してる番組を見たんですけど、おもしろかったです。
投稿: 見習い大工 | 2008年11月 8日 (土) 22時42分
こんにちは。
毛利秀元には、そういうエピソードがあったんですね。もっと注目されてほしいですね。
「三本の矢」の話は創作だったんですね。ちょっと残念です。
11年前の大河ドラマ「毛利元就」で、中村橋之助さんが熱演していたのが印象に残っていたのですが。
そういえば大河って創作の部分が多いんですよね。この前ふれた、本能寺の変でのヤスケの話にしてもそうでしたし。
投稿: KAKI | 2008年11月 8日 (土) 22時50分
見習い大工さん、お久しぶりです。
>テレビで歴史について新説を紹介してる番組
私も、あの番組、よく見ます。
中には、かなりムリしてるのもありますが、歴史は、いろんな角度から見るのが最高にオモシロイと思うので、わくわくしながら楽しんでます。
ミス○○のお姉さんたちが、もう少しレポーターに慣れてくだされば、さらにおもしろくなるでしょうが、やたら大騒ぎするレポーターよりは、あの淡々さが初々しくてイイです。
投稿: 茶々 | 2008年11月 9日 (日) 00時28分
KAKIさん、こんばんは~
>大河って創作の部分が多いんですよね・・・
そうですね、
ドラマはドラマでドキュメンタリーではありませんので、よりおもしろくなるのであれば、創作もアリだと思って見ています。
最近の篤姫は、残り回数が少なくなったせいか、ポンポンと話が進んでいき、時の流れの速さと、出演者の化粧の濃さについて行くのが大変です・・・
投稿: 茶々 | 2008年11月 9日 (日) 00時39分
今年の夏、萩観光して毛利家の墓所の一つにも行って来ました。立ち並ぶたくさんの灯篭に圧倒されそうでした。城址の石垣の配置がちょっと変わっていて、萩城が現代に残されなかったのがとても残念です。
しばらく前には永井路子さんの本にはまっていたので、大河のときはワクワクして見たけど、あれはひどかったです。原作、いろいろ調べられていて面白いのに~。
投稿: おきよ | 2008年11月10日 (月) 14時51分
おきよさん、こんばんは~
>大河のときはワクワクして見たけど・・・
そうなんですか?
残念ながら、その年の大河は見ていないのですが、比較的よく描かれる戦国時代も、毛利元就が主役っていうのは、あまりなかったようなので、スタッフも手探り状態だったのかも知れませんね・・・
だとしたら、来年も手探り状態の大河になりそうですね。
投稿: 茶々 | 2008年11月11日 (火) 00時48分