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2008年11月24日 (月)

信長を一番困らせた男~本願寺・顕如

 

文禄元年(1592年)11月24日、浄土真宗・本願寺の第11代法主(ほっす)顕如が50歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

考えて見れば、あの織田信長を一番悩ませた人は、当時、群雄割拠していた戦国武将ではなく、この顕如(けんにょ)だったのかも知れませんね。

浄土真宗の中興の祖・第8代の蓮如(れんにょ)の時代に大きく信徒を増やした真宗は、蓮如がいさめるにも関わらず、長享二年(1488年)6月、加賀一向一揆を起し、武士の支配下とならない百姓の持ちたる国を誕生させました(6月6日参照>>)

以来、武力を持つ巨大な集団は、時には対立する武将と衝突しながら、時には援助してくれる武将と同盟を結びながら・・・第10代・証如(しょうにょ)の頃には、「戦って討死した者の極楽浄土は間違いない!」というような考えが蔓延し、「進めば極楽、退けば地獄」のスローガンのもと、各地に巨大な信徒の都を造りあげていました。

その証如の時代に、本願寺は、京都・山科から、大坂・石山(現在の大阪城公園付近)へと本拠地を移し、堀をめぐらし土塁を築き、大阪湾のデルタ地帯に、一大自由都市として出現するのです。

Isiyamahonganzimokei330 石山本願寺(模型)

天下統一を狙う信長にとって、支配下に治まらない自由都市はあってはならない物・・・宗教が政治に圧力をかける事もあってはならない物・・・

やがて、証如の後を継いだ第11代・顕如は、ことごとく対立する信長を仏敵とみなし、元亀元年(1570年)8月、「打倒!信長」を、諸国の信徒に呼びかけるのです。

10年にわたる石山合戦の勃発です。

各地から信徒たちが、続々と石山本願寺に集結するとともに、越前(福井県)長島をはじめ、各地で大規模な同時多発一揆。

特に長島一向一揆では、信長の弟・信興(信与)が一揆衆の攻撃によって自刃に追い込まれた(11月21日参照>>)だけでなく、信長自身もが命の危険を感じるという、最大のピンチを経験しています(5月16日参照>>)

さらに顕如は、信徒だけでなく、奥さん・如春(にょしゅん)の姉が武田信玄の正室・三条の方であるという戦国武将の政略結婚さながらのパイプを使って信玄をも動かし姉川の合戦(6月28日参照>>)で信長に負けた浅井・朝倉とも連携し、越後の上杉とも和解して支援を求めます。

Nobunagahouimouisiyama 以前、長島一向一揆のページにupした図ですが・・・

西国の雄・毛利などは、わざわざ大量の水軍を動員して、海からの兵糧補給に努める大サービス!

信長にそのプライドをズタズタにされた15代将軍・足利義昭がらみとは言え、信長を360度取り囲むこの包囲網を造りあげるあたりの顕如さん、僧侶にしておくのはもったいないくらいの大した政治力です。

もはや、信長も風前のともしび・・・・と思いきや、やがて、信玄と謙信が亡くなり、大阪湾での海上戦に毛利が敗れた(11月6日参照>>)頃から、徐々に形勢が逆転しはじめます。

海上が信長に制圧されてしまっては、さすがの石山本願寺も、いずれ飢えが訪れる事は必至・・・ちょうど、そのタイミングで、信長から正親町(おおぎまち)天皇を通じての、講和が持ちかけられます。

信長とて、すべての敵を一度に相手にすれば己が危ない・・・一つ一つ個々にケリを着ける作戦に路線変更したのです。

天正八年(1580年)3月17日、顕如は、7月までに本願寺を明け渡す約束で、信長との講和を成立させ、ここに石山合戦が終了しました。

約束に従って、顕如は、4月9日に本願寺を退去し、紀州(和歌山県)鷺森(さぎのもり)へと身を寄せましたが、顕如の長男・教如(きょうにょ)は、なおも、本願寺内に居座りつづけ、各地の信徒に戦い続けるよう檄文を送ります。

対して、顕如は、各地の信徒に「戦いをやめよう」との手紙を送り、従わない教如に代わって、弟・准如(じゅんにょ)を、自分の後継者に指名します。

ただし、この親子の反目には、本当は芝居だったというウワサもあります。

つまり、ともに信長のその後の行動に不審を持っていた二人が協力して・・・
父・顕如が先に本願寺を出て信長の様子を見ぃ~の、教如が期限ギリギリまで踏ん張りぃ~の、牽制しぃ~ので、講和を守らせようとした・・・というのです。

本当のところは、藪の中ですが、結果的に講和は守られ、教如は期限ギリギリの4ヶ月後に本願寺を退去・・・8月2日に信長に引き渡されました。

しかし、この引渡しの前後で失火が起こり、石山本願寺は炎上してしまいます。

しかも、こうまでして手に入れた石山本願寺の跡地に、何の手を加える事もないまま、信長は2年後の本能寺の変で亡くなってしまいます。

その後、天下を取った豊臣秀吉と、顕如は良好な関係を築き、引き籠っていた紀州から、和泉・願泉寺へとその身を移しますが、この時期に、あの徳川家康が動きます。

それは、以前、三河領内で起こった一向一揆(9月5日参照>>)で、手痛い目に遭った家康が、それ以来、領内で浄土真宗を禁止にしていたのを、突如として禁制を解除したのです。

おそらく、秀吉と本願寺が、あまりに親密な関係になる事を恐れたものと思われますが、これは、あまり効果がなかったようですね・・・。

なぜなら、その後、秀吉と家康の間で勃発した、あの小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)の時に、その武力に期待して、家康は顕如に支援を求めますが、顕如はあっさりと断っています。

そのおかげか、一旦、大坂・天満に移っていた顕如は、天正十九年(1591年)1月19日に、あの山科本願寺以来(8月23日参照>>)の京都、しかも七条堀川という一等地に広大な土地を、秀吉から寄進して貰い、ここに本願寺を再興するのです。

これが、現在の西本願寺・・・・。

しかし、その伽藍造営中の文禄元年(1592年)11月24日顕如は、新しい本願寺を見る事なく、50歳でこの世を去りました。

・・・で、完成した本願寺で第12代法主となったのは、教如・・・って、顕如さんは、あの時に、「弟の准如を後継者に・・」って、言ってなかったっすかぁ?

そうなんです。

ここで勃発しちゃうのが、後継者問題・・・結局、ここで二つの派閥に分かれてしまった事で、本願寺には、西本願寺と東本願寺があるわけですが、そのお話は、1月19日のページでどうぞ>>

ちなみに、このページでも散々、一向一揆、一向一揆と言ってますが、実は、浄土真宗と一向宗は、別物・・・本当は、・・・と、これも別のページで書いていますので、そのお話は11月28日のページでどうぞ>>
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コメント

 東本願寺派ながら不勉強で(;´д`)、興味深く読ませていただきました。2007年11月28日の記事も読ませていただきましたが、西と東、どっちが教如さん、准如さんでしょうか。混乱してしまったので、もう一度教えてください o(_ _)o

投稿: おきよ | 2008年11月24日 (月) 13時53分

おきよさん、コメントありがとうございます。

いずれ、その事をメインに書く日がくるかとは思いますが・・・

この後、奥さんの如春さんからクレームがついて、結局、七条の本願寺は顕如の決めた通りの弟・准如さんが第12代として継ぐのですが、そのうちグッドタイミングで天下が家康に移り、今度は家康が教如に対して六条烏丸に寺地を寄進し、それが東本願寺となります。

中途半端なところで、次にバトンタッチしちゃって・・・
スミマセンo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2008年11月24日 (月) 17時07分

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