黒田如水~ジッチャンの目薬で先を見る目を養った?
天文十五年(1546年)11月29日、豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛孝高が誕生しました。
・・・・・・・・・
あの竹中半兵衛(6月13日参照>>)と並んで、豊臣秀吉の名軍師として名高い黒田官兵衛孝高(よしたか)・・・後に、剃髪して名乗った如水(じょすい)という名前が有名なので、本日は如水と呼ばせていただきますが、彼らが称される軍師という職業は、現在の私たちが抱くイメージとはちょっと違います。
そもそも、日本では近代になるまで軍師という役割の人もいなければ、その単語も使われてはいないはずです。
もちろん、実際にその時代に生きていたわけではなので「絶対=100%」とは言いませんが、もし、言葉として使っている人がいたとしても、おそらくそれは、東アジアや中国における、そのような役割の人の事であったはず。。。
そんな中で近代になって三国志の諸葛孔明のなどが演劇や小説・講談などで語られる時に「軍師」という役職名が持ち上がった感じで、それ以前には、日本には、諸葛孔明のような軍師はいなかったと思われます。
以前も、山本勘助のところで書かせていただいたのですが(5月23日参照>>)、日本において軍師という位置付けの人は、必勝祈願を行ったり、出陣の儀式を仕切ったり、「明日は運勢が良いので、明日出陣しましょう」なんていう占い師のような仕事が主で、どこから攻めるなどと進言する時も、それは、風水の方角の吉凶を根拠にしての発言で、軍事的な作戦というものではありません。。。なので、彼らの本職は陰陽師だったり僧だったりします。
如水や半兵衛の場合は、確かに、武勇で名を馳せたというよりは、その智謀によって作戦や戦術を発案したり、主君の相談役になったりという事ではありますが、実際に、自ら兵を率いて出陣して戦場に行きますので、あくまで、軍師<武将という事になりますが、大きく間口を広げれば、軍奉行や与力といった人たちも軍師の部類に入るので(10月7日参照>>)、ほぼ皆が軍師であり武将でありという感じだと思います。
ところで、本日の主役・黒田如水さん・・・ドラマなどでは、大抵、秀吉を通じて織田信長の傘下となった頃から登場し、あの荒木村重の謀反(5月4日参照>>)での説得役としてスポットと浴びる事もあり、何かと、幼い頃を想像し難いのですが、それこそ、いきなりオッサンで生まれてくるはずはなく、誰にでも子供時代というものがあるわけで、本日は、その信長傘下となるまでの事を少し書かせていただきます。
・・・とは言え、如水さんはともかく、その先代・先々代となると、史料も少なく、あくまで「・・・と言われている」という類のものではありますが・・・
如水の生まれた黒田家は、近江(滋賀県)北部の黒田村(木之本町)の出身で、近江源氏の流れを汲むお家柄・・・ひいお爺ちゃんの黒田高政は、第10代室町幕府将軍・足利義稙(よしたね)に仕えていたものの、その命令に反したため、一族郎党を連れて、逃げるように備前国(岡山県)の邑久郡(おくぐん・瀬戸内市)に移り住んだと言います。
やがて、祖父・黒田重隆(しげたか)の代になって播磨(兵庫県)の小寺氏の家臣となり、その実力でみるみる出世し、小寺氏の城の一つであった姫路城の城代を任されるほどの重臣となります。
この重隆という人は、夢に出てきた目薬を、実際に作って売り出して大儲けをしたというアイデア商売人でもあったらしいのですが、後に如水と九州での勢力を二分する薩摩(鹿児島県)の島津家が、如水に「目薬屋」というニックネームを着けているところからみても、その夢の話はともかく、目薬が大ヒット商品となっていた事は確かでしょうね。
そして、その重隆の後を継いだのが黒田職高(もとたか)・・・如水は、この職高の息子として天文十五年(1546年)11月29日に生まれます。
この頃には、職高は、小寺氏の家老にまで出世していて、主君の小寺政職(まさもと)からの信頼もあつく、小寺姓を賜って小寺職高と名乗っていました。
やがて、幼いなりにもその頭角を現してくる息子に信頼をおく職高は、永禄十年(1567年)、22歳になった如水に家督を譲り、自らは隠居の身となります。
そんなこんなの天正三年(1575年)、長篠の合戦(5月21日参照>>)で武田勝頼を破った信長が、いよいよ天下統一へと動きはじめ、、徐々に、その勢力範囲を拡大してくる事になります。
西の毛利と東の織田の2大勢力に挟まれる形となった如水らの播磨・・・小大名でしかない小寺氏は、毛利につくか織田につくかで家中は騒然となるのですが、やはり、主君・政職をはじめ、多くの家臣は、毛利につく事を提案しますが、その中で、如水ひとりが、織田の傘下となる事を主張します。
どうやら、この時、すでに水面下で秀吉と接触していた如水は、信長の実力を見抜いていたようですね。
やはりそのスルドイ心眼は、ジッチャンの目薬のおかげ?
如水は、毛利に傾く家中において、秀吉から聞いた信長の話を、主君らにとくとくと話して皆を説得し、小寺氏は、信長の傘下となる事に決定しました。
この小寺氏の織田傘下の表明には、如水自らが信長のもとへと赴いて直接報告し、信長は大いに喜ぶとともに、そんな如水の事を大変気に入って、愛用の刀を授けたのだとか・・・
かくして、その信長の命で、中国の平定を担当する事になった秀吉とともに、彼は、西の最前線で、その智謀と戦略を大いに発揮する事となるのです。
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 朝倉宗滴、最後の戦い~加賀一向一揆・大聖寺城の戦い(2024.07.23)
- 織田信長と清須の変~織田信友の下剋上(2024.07.12)
- 斎藤妙純VS石丸利光の船田合戦~正法寺の戦い(2024.06.19)
- 北条氏康の華麗なる初陣~上杉朝興との大沢原の戦い(2024.06.12)
コメント
お久しぶりです。暮れに向けて世間があわただしくなった昨今、いかがお過ごしでしょうか?我が家はあいにくの喪中であるため年始の支度ができないので、来年の正月三が日はどこにも遠出に行けそうにありません。
さて大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送開始まであと1か月となりました。黒田重隆役は竜雷太さんですね。主演の岡田准一くんと一緒に出る場面はありそうですか?
官兵衛は22歳で家督を継いだ直後に嫡男・長政をもうけていますね。官兵衛孝高も若くして家督を長政に譲っていますね。考えてみると(番組内では)1人息子の長政が丈夫だった(武将としても)のが黒田家に良かったんでしょうね。
ちなみに大河ドラマの戦国作品の男性主人公で、20代のうちに嫡男が生まれたのは前田利家以来だと思います。やはり若いうちに跡継ぎができると精神的に違うんでしょうかね?
投稿: えびすこ | 2013年12月 4日 (水) 17時01分
えびすこさん、こんにちは~
子供が生まれても、無事に成人する事が難しい時代でしたから、若いうちから後継ぎへの思いは大きかったでしょうね~
投稿: 茶々 | 2013年12月 5日 (木) 11時58分