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2008年11月11日 (火)

耳川の戦い初日~大友の大砲と島津の奇襲

 

天正六年(1578年)11月11日、豊後大友宗麟薩摩島津義久との耳川の戦いの初戦高城川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

前年の5月の木崎原の合戦での奇襲で薩摩(鹿児島県)島津義弘に大敗を喫して日向(宮崎県)の南半分を奪われた伊東義祐は、豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)のもとへと逃げ込み、支援を求めます(8月5日参照>>)

「島津を日向から追っ払ってくれたら日向の半分をあげちゃう~」
という義祐のお誘いに、キリスト教王国を造りたい宗麟は、息子に家督を譲った後、3万5千の大軍を率いて海路にて南下を開始・・・天正六年(1578年)の8月12日には日向無鹿(むしか・宮崎県延岡市)に着陣し、キリシタン王国建設を着々と進めていく一方で、宗麟の別働隊として陸路で南下していた重臣・田原紹忍(しょうにん・親賢)の率いる2万の軍勢が、勢力の境界線である耳川を渡り、島津配下の高城(宮崎県木城町)へと迫ります(8月12日参照>>)

高城は、高城川と谷瀬戸川の浸食によってできた高台に構築されていて、北・東・南の3方が崖となっていて、平坦な西方向は、空堀で防御されていました。

この城に対して、大友勢は、城の北側に田北鎮周(しげかね)、東方の谷瀬戸川沿いに星野鎮種(しげたね)、城のすぐ東側に佐伯宗天(そうてん・惟教)を配置し、総大将の紹忍は宗天の後方に陣取り、10月20日、高城の包囲を完了します。

Mimikawa11cc 画像をクリックすると大きくなります。
このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。

一方、高城を守る山田有信は、この大友勢の動きを、本国・鹿児島に知らせるとともに、2km南に位置する佐土原城(さどわらじょう・宮崎市)島津家久(義久の末弟)にも知らせます。

急を聞いた家久は、即座に行動を開始・・・大友勢の包囲をくぐって、高城内に入城・・・この援軍によって、城内の兵は何とか3千となりました(10月20日参照>>)

この間にも、大友勢は、最新鋭の武器・国崩(くにくずし)で高城に攻撃を仕掛けます。

国崩は、宗麟にポルトガル人からプレゼントされた佛狼機(フランキ)・・・後方から砲弾と火薬をこめる方式の大砲です。

当時はまだヨーロッパにしかなかった最新鋭の大砲にさぞかし島津勢は戸惑った事でしょうが、残念ながら、扱う側の大友勢も戸惑ってたようで、結局、この時の国崩の攻撃は、一発も高城には届かず、効果はなかったとの事・・・。

小競り合いで時間を稼ぎつつ、籠城を続ける高城・・・一方、有信からの知らせを受け取った当主・島津義久は、自らが3万の大軍を率いて鹿児島を出陣し、11月1日には、先の佐土原城へと到着しました。

さらに、あちこちから集結した島津の軍勢は5万にふくれあがりますが、対する大友軍にも援軍が到着し、総勢6万・・・大きな決戦を予感させる展開となりました。

そして、いよいよ決戦が近づいた頃、島津義弘(義久の次弟)は大友への伏兵を仕掛けるべく、より高城に近い財部城(たからべじょう・宮崎県児湯郡)に入ります。

しばらくの間続いた雨によって、平静を装っていた戦場に火蓋が切られたのは、天正六年(1578年)11月11日の白昼・・・前日の夜10時頃、闇にまぎれて4千余りの義弘の伏兵が川を渡り、宗天の陣と、その後ろの大将・紹忍の本陣との間に密かに入り込み、この時を待っていたのでした。

伏兵がいるとは知らず、真昼間、宗天と紹忍の本陣との間を行き交う大友の兵士たち・・・そこへ、いきなりの奇襲をかけたのです。

まったく無防備なところを奇襲された大友勢は乱れに乱れ、またたく間に宗天の陣は焼き払われ、陣を逃げ出したところに、朝早く財部城を出た残りの義弘の軍勢が加わって交戦します。

本陣をはじめとする他の大友の陣から、反撃をしようと試みますが、これには高城に籠城する城兵たちが牽制を仕掛け、大友勢は完全に分断された形となり、何の反撃もできないまま、この日は、500余りの死者を出して大敗してしまいました。

5万の島津に6万の大友・・・互角の戦いになるはずのこの合戦でしたが、蓋を開けてみれば島津の大勝。

これには、やはり総大将の有無が関わっていたように思います。

確かに、この場に宗麟がいなかったのは、彼がキリシタン王国の建設にかまけて、この戦いを軽く見ていたわけではなく、重臣たちを信頼して任せただけで、それは戦国の合戦においては度々ある事・・・先日書かせていただいたばかりの、安祥城の戦い(11月6日参照>>)でも、当主の今川義元は出陣せず、軍師の太原雪斎が総大将を勤めていましたよね。

・・・が、今回の場合は、結果論ではありますが、やはり、宗麟のいなかった事が軍の連携の乱れにつながったような気がします。

相手の島津は当主・義久が自らが軍を率いての参戦ですから、士気も上がりますが、一方の大友勢は、互いに武功を競い合い、指揮系統が乱れ、一致団結できなかった事が敗因と言えるでしょう。

この日の夜10時頃には、義久の本隊3万の軍勢が、根白坂(ねじろざか)に到着します。

ここは、高台になっていて、高城とその周辺の河原に布陣する大友の軍勢が見事に見渡せたと言います。

いよいよ、明日は決戦・・・白々と明けてくる空の下、大友の布陣を見下ろす義久の脳裏には、島津お得意の秘策の青写真が、すでに描かれていたに違いありません。

一方の大友勢のほうは・・・実は、この日の夜に開かれた軍儀でも、それぞれが喧々囂々と己の意見を述べるばかりで、いっこうにまとまらず、初日の連携の乱れは翌日にも尾を引く事になるのです・・・が、そのお話は、やはり、明日=【激戦!耳川の戦い~島津の秘策・釣り野伏】でどうぞ>>
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コメント

いやあマニアな内容で恐れ入りました。史実または時代考証度はどのくらいでしょうか?素晴らしい内容です。布陣図もいいですね。是非、西南の役関係を掲載してください。
遅れました、お初にお目にかかります。よろしくお願いします。

投稿: 敬天愛人 | 2008年11月17日 (月) 19時58分

敬天愛人さま、はじままして、ご訪問ありがとうございます。

お名前から察しますところ、西郷さんファンとお見受けします。

史実度や時代考証は、あくまで趣味程度なので、広いお心でお読みくださいませ。

コメントありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2008年11月17日 (月) 22時37分

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