毛利元就の三矢の訓え…その願いは?
弘治三年(1557年)11月25日、毛利元就が三人の息子に教訓状を送りました。
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先日の毛利秀元さん誕生のページ(11月7日参照>>)でも書かせていただきました、毛利元就(もうりもとなり)の逸話の中でも、超有名な『三矢(さんし)の訓(おし)え』・・・。
三人の子供たちに矢を折らせて、「1本なら簡単に折れる矢も、3本なら折れ難い」と、家族の結束がいかに重要であるかを説いたというものです。
そのページでも、このお話が後世の創作(前橋旧蔵聞書)であるという事とともに、まったくのウソではなく、そのもととなった元就が三人の息子に送った書状がある事を書かせていただきましたが、その『三子(さんし)教訓状』なる書状を送ったのが弘治三年(1557年)11月25日なのです。
これは、14か条からなる箇条書きの、いわゆる家訓なのですが、その全文はwikiなどで見ていただくとして、最も有名な、その逸話のもととなった部分は・・・
“三人の半(なかば)、少(すこし)にてもかけごへだても候(そうら)はば、ただただ三人御滅亡と思召(おぼしめ)さるべく候々(そうろう)”
この「かけご=懸子」というのは隔たりを持たせる壁の事で、要は「三人の間に少しでも壁が生じたら、三人とも滅亡するよ思え」って事です。
この書状を受け取った三人の息子たちは、すぐに連盟の起請文を差し出して、その意向に従う事を誓ったのです。
時に元就61歳・・・三人の息子は、長男・毛利隆元(たかもと)が35歳、次男・吉川元春(きっかわもとはる)が28歳、三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ)が25歳でした。
この書状を書いた翌年に、元就は長男・隆元に家督を譲りますが、その隆元はその4年後に亡くなってしまいますので(8月4日参照>>)、実質的には、この家訓は、その息子・・・つまり、元就の孫の輝元(てるもと)に引き継がれる事になるのですが、元就が、これだけ家族の結束を強調するのも、このタイミングで書状を出すのも、もちろんですが理由があります。
実は、元就には、家督争いで弟を殺害したという過去があります。
もともと、元就には兄・興元(おきもと)がいましたので、若い頃は毛利家の家督を継ぐ事など考えてもいなかったのですが、その兄が24歳という若さで亡くなってしまい、その遺児も幼くして病死した時の事でした。
その頃、出雲(島根県)の尼子氏と周防(山口県)の大内氏の2代勢力挟まれていた毛利氏は、あっちへ着いたりこっちへついたり・・・そんな毛利のかく乱を狙って、尼子氏が、元就の異母弟・元綱を焚きつけたのです。
尼子氏の術中にハマッた元綱と彼を擁立する家臣が、元就殺害計画を立てたため、元就は、自らの手で、弟を始末し、大内氏の傘下となりました。
しかし、そんな一大勢力を誇っていた大内氏も、その家中のゴタゴタから、家臣・陶晴賢(すえはるかた・隆房)にクーデターを起され、実権を握られたばかりか(8月27日参照>>)、その内紛に乗じて、元就自身がその晴賢を厳島の戦い(10月1日参照>>)で倒して、彼に擁立されていた大内義長を自刃に追い込んだばかりだったのです(4月3日参照>>)。
そう、この書状を息子たちに送ったのは、大内氏を滅亡させ、山陽の戦国大名のトップに躍り出た、まさに、その年だったのです。
確かに、長男の隆元は、愚将というほど悪くはないのだけれど、いたって普通の武将・・・先の陶晴賢のクーデターの時にも、情に走って「大内へ援軍を出す!」と騒ぐ隆元と、「出さない」という元就の間で、大モメにもめた事もありました。
智謀に長けた元就から見れば、「こいつに家督を任せていいものか?」と悩んでいた事も事実だったのです。
そんな元就からの目線では、三人の息子の中で、一番、武将としての器量が良いと睨んでいたのは、小早川家に養子に出した三男・隆景だったようです。
もし、家臣たちの目にもそのように見えているとしたら、いつなんどき、隆景を担ぎ上げて家中を騒がす輩が出ないとも限りません。
しかも、成長したとは言え、もともと毛利は大内の傘下にいた土豪に毛の映えたような国人・・・未だ、周りには、同じように大内氏の傘下だった国人たちが、そんな内紛をてぐすね引いて待っているかも知れません。
さらに、ここにきて、その隆景と吉川家に養子に出した次男・元春が、あまり毛利家の本拠地に長く滞在する事がなくなってきていたのです。
もちろん、これは兄弟に亀裂が走ったというのではなく、もともと他家を乗っ取るために養子に出した弟たちですが(9月27日参照>>)、その家の当主ともなれば、自国の領内を治める仕事も多々あるわけで、単に、それらの政務を優先していただけなのですが、今まさに、名門・大内氏の内紛による自滅を目の当たりにし、長男の自虐、弟たちの独立を垣間見た元就は、「このままでは、アカン!」と思ったのでしょうね。
よくよく見れば、この書状・・・教訓というよりは、元就の願いのようにも思えます。
謀略に謀略を重ねて、相手のミスに漬け込んで、たった一代で、山陽一の大名にのし上がった元就だからこそ、息子たちの周りに満ち溢れる謀略を一番、心配していたのかも知れません。
ただし、元就さん・・・
この書状を見てみますと、さすがに隆元は長男なので別格になってますが・・・
「隆元之事者隆景元春をちからにして・・・」
とか・・・
「又隆景元春事者、当家他に堅固に候はゝ・・・」
とか・・・
二人が同時に登場するところで、本来ならすべてを次男の元春を先に書かないといかないと思うんですが、半分は、次男の元春より三男の隆景の名前を先に書いちゃって、隆景推しなのがバレバレなんですけど・・・
でも、元就さんの事ですから、ひょっとして、わざと、こう書いたのかも知れませんが・・・(同等という事かも)
その気持ちを察したのか、次男の元春・・・彼が、決して、兄貴の権力を振りかざす事なく、見事2番手に徹してくれたおかげで、少々危なかった元就の死の前後も、その教訓は、かろうじて守られたような気がします。
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コメント
こんにちは、参考にさせていただきました。
投稿: 左近将監 | 2008年12月17日 (水) 15時31分
左近将監さん、トラバありがとうございます。
こちらこそ、勉強させていただいてます。
これからもよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2008年12月17日 (水) 18時57分
今日の「歴史秘話ヒストリア」で毛利元就と三兄弟を取り上げますね。関が原の戦いまで50年にわたって繁栄したのは、兄弟および従兄弟同士(輝元とその従兄弟)の絆があったんでしょうね。
「三本の矢」の逸話。半分は創作だと思いますが13年前には、大河ドラマでちゃっかり取り上げていますね。これについて「大人の男性の力では三本でも折れる」と言う人がいますが。来年は徳川家の御三家・三兄弟の絆に触れるかな?
投稿: えびすこ | 2010年6月 2日 (水) 08時44分
えびすこさん、こんばんは~
大河ドラマの毛利元就は見てないので、よくわからないのですが、三本の矢の逸話はどのように表現されたのでしょう?
逸話として語られる時は、自身の死を予感した元就が3人の息子を呼んで・・・となってますが、本文にも書いた通り、実際には、元就とり先に長男の隆元が亡くなってますので、やはり、この手紙を送った、まだ、元気な頃に話して聞かせた事になってるんでしょうか?
それとも、長男の代わりに孫の輝元を加えた3人に話して聞かせた事になってるんでしょうか?
気になります。
投稿: 茶々 | 2010年6月 2日 (水) 23時14分
こんにちは、お久しぶりです。カムバッカーです。
この話になると、何故か、ドリフターズのコントで
「矢は一本では簡単に折れるのだが・・・」
と折ろうとして折れなくて(元就役は加藤茶さんだった気がします)足で踏んで両手で引っ張っても折れなくて、最後に大黒柱にかけてひっぱって折ろうとするも、逆に大黒柱が折れてしまって屋根が落ちてきたオチで
♪チャチャン♪
でおしまい、というのを思い出してしまいます。
今はこういうコントは作れないんですかね。あんまり見ないんですが・・・。
それではまた(^O^)/~
投稿: カムバッカー | 2012年11月 4日 (日) 13時05分
カムバッカーさん、こんばんは~
そうですか!
ドリフのコントでもやっていたのですね~
そう言えば、時代劇のコントって最近は無いですね~
投稿: 茶々 | 2012年11月 4日 (日) 17時04分