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2008年11月28日 (金)

月山富田城・開城~山陰の雄・尼子氏の敗因は?

 

永禄九年(1566年)11月28日、すでに毛利元就の攻撃に耐え切れずに降伏を表明していた尼子義久月山富田城を開城しました。

・・・・・・・・・

先代・尼子晴久の死(12月24日参照>>)によって、山陰の雄・出雲(島根県)の尼子氏を継いだ若き当主・尼子義久・・・しかし、この当主交代を絶好のチャンスと見たのは、中国地方に君臨した名門・周防(山口県)大内氏を滅ぼし、今や中国地方全土を手に入れようとする安芸(広島県)毛利元就(もうりもとなり)でした。

Mourimotonari600 永禄八年(1565年)4月20日に毛利によって開始された、尼子氏の本拠地・月山富田城(がっさんとだじょう)への攻撃・・・『富田三面作戦』と称された伝説の総攻撃にも絶えた城でしたが、やがて、兵糧の補給路を断たれ、万策つきた当主の義久は、翌・永禄九年(1566年)11月19日、自らと弟の倫久(ともひさ)秀久3名の助命と、家臣の領土の安堵を条件に、毛利に対して降伏を表明し、11月21日には、元就がその条件を約束しました(11月21日参照>>)

かくして永禄九年(1566年)11月28日月山富田城は開城されたのです。

この時、元就の息子たち・吉川元春(きっかわもとはる・次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ・三男)の兄弟は、「その約束をほごにして、尼子氏を滅亡させるべき」と、父・元就に詰め寄りましたが、元就は「相手が生きたいって言うてる時は、その命を取らへんのが大将っちゅーもんやと、断固として譲らなかったと言います。

その代わりに、この尼子三兄弟から「2度と毛利には刃向かいません」との起請文を書かせています。

この開城の時点で、月山富田城に残っていた尼子の家臣は、わずか140人ほどだったそうですが、もちろん、その中には、あの山中鹿之介(鹿介)もいました。

やがて、毛利の本拠地である安芸へと送られる尼子三兄弟・・・家臣たちの「主君を最後まで見送りたい!」という希望は叶えられる事なく、鹿之介らは散り々々に、どこへともなく去っていきました。

12月14日、元就の居城・郡山城にほど近い円妙寺に送られた尼子三兄弟・・・元就の孫・毛利輝元豊臣秀吉の傘下となる天正十七年(1589年)まで続く事になる彼らの幽閉生活は、大変厳しいもので、旧家臣に会う事はいっさい許されず、面会に訪れた者たちは、全員、その場で斬り捨てられたと言います。

また、もう一つの約束であった、尼子家臣の所領の安堵は、ほとんど守られず、先の面会者の斬り捨てとも相まって、この二つの事は、後に鹿之介が、尼子勝久(京都で僧になっていた尼子氏の生き残り)を担いで再起する時、その一声で、6000もの尼子の残党が集まってしまうような遺恨を残す事にもなってしまったワケですが、そちらのお話は、7月3日のページ>>でご覧」いただくとして・・・

ところで、山陰の雄とうたわれた尼子氏が、なぜ?滅亡してしまったのか?

もちろん、先代の晴久の死によって、突然、当主となった義久が、まだ21歳という若さであった事や、一方の元就が、酸いも甘いも噛み分けた、しかも、大内氏を倒しての上り調子である事もあります。

また、広大な領地を配下に治めていた感のあった尼子氏ですが、直轄の本領は意外に少なく、ほとんどは、傘下となっている国人たちの領地・・・つまり、どちらかというと連合国のようなもので、それらの国人たちは、尼子氏が強力であるが故に、傘下となっているのであって、いざという時は、簡単に敵側の傘下となってしまう存在であったというような事があげられます。

そして、もう一つ、尼子氏には、武勇に優れた『新宮党(しんぐうとう)という精鋭部隊がいたのですが、彼らが、先代の晴久の代に潰されてしまった事が、いわゆる片翼をもぎ取られたような形となってしまったという事が考えられます。

しかも、その新宮党壊滅の原因は元就の謀略にあるのだとか・・・

その新宮党というのは、晴久の祖父・経久(つねひさ)の代に枝分かれした尼子の支族で、当時は尼子国久と、その息子・誠久(さねひさ)が中心にいて、合戦のたびに功績をあげていたのです。

そこで、元就は、自国の死刑囚を一人呼びつけ、
「敵国へ使いを頼みたい・・・危険な仕事やけど、そのかわり成功したら、罪を許したる」
と、手紙を一通渡します。

渡された男は、何と言っても死刑囚ですから、このままじっとしていても100%死が待っているわけで、いくら危険と言っても、何%か助かる可能性のあるコチラの話に乗ったほうが得なのは、すぐにわかります。

男は、巡礼姿に身を包み、いざ、敵国・尼子の領内へ・・・

ところが、領内に入ったところで、強盗の仕業に見せかけて、元就の家臣が彼を殺害・・・当然、見つかった死体は、尼子領内の役人が調べを行う事になりますが、その被害者のふところを探ってみると、あの元就の手紙が・・・

そこには、
「約束通りに、晴久ちゃんを殺っちゃってくれたら、出雲と伯耆(ほうき・鳥取県)と石見をあげちゃうよん!」
と、書かれてあり、宛名は、あの国久・・・

この手紙の発覚で、国久の謀反を確信した晴久は、天文二十三年(1554年)1月1日・・・自ら出陣し、彼らの一族を根絶やしにしたのです。

ただし、上記の元就の謀略の話は、いわゆる軍記物と呼ばれる、今で言うところの「事実をもとにしたフィクション」のようなものに書かれている事なので、どこまで信じられるかアヤシイ部分もありますが、ここで、新宮党が壊滅するのも事実で、それによって、元就が尼子を攻めやすくなるのも事実ですから、このような形ではないにしろ、何らかの策略を張りめぐらせていた可能性は大です。

ちなみに、この時、晴久に追われて討死した誠久の幼い息子が、命からがら京都へと脱出するのですが、その子が、後に鹿之介が、後継者として担ぎ上げ、尼子氏の再興をはかる勝久です。

こう考えると、若い義久が当主となった時・・・というよりも、その少し前から尼子氏の終焉が見えていたのかも知れませんね。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

以前に何かの本で、山中鹿介は忠臣とは言えないって論じてるモノがありました。それによると、大名家としての尼子氏は滅亡扱いになったとは言え、嫡流たる義久は毛利家の庇護の下、その血脈を守っていたのだから、鹿介が勝久を擁立して家名再興の挙に出ることは義久の命を危うくしひいては毛利の下での尼子の家名存続もなくなるコトを思えば…義久から見たら鹿介は忠義の臣どころか、本家の主人たる自分を蔑ろにして分家の小倅を担ぎ出して、尼子の命運を危うくさせた大罪人である。と、まぁこんな調子のコトが書いてありました。茶々さんの見解はどうですか?。

投稿: マー君 | 2008年11月30日 (日) 15時48分

マー君さん、こんばんは~

>山中鹿介は忠臣とは言えない・・・

確かに、それも一理あると思います。

ただ、何で読んだのかは忘れましたが、この時、義久は「とりあえず」の開城であって、後々、誓書を破棄して再起をするつもりあったとの説もあります。

だからこそ、毛利の監視は厳しく、本文にも書かせていただいたように、会いに来た家臣はことごとく斬り捨てられ、合って話す事すら許されなかったのでしょう・・・ここまで厳しいと再起するのは、なかなか難しいです。

また、わずか九年前の大内義長は、今回とほぼ同じように、存命を条件に開城して、一旦は寺に幽閉されたものの、毛利兵に取り囲まれて自刃に追い込まれています。

「今日は、無事でも、明日は取り囲まれるかも知れない」というのは、尼子氏の誰もが考えたと思います。

そのような状況の中で、毛利の配下での存続を望み、幽閉が許されるまでの年月を待てたかどうか?と考えると、鹿介の気持ちもワカランではない・・・というところでしょうが、これが忠義か忠義でないかは、義久さんのお心次第という事でしょう。

彼が、どのような未来予想図を描いていたか?
義久さん以下、尼子三兄弟にインタビューでもできればいいんですが・・・

彼らの本心が知りたいですねぇ~

投稿: 茶々 | 2008年11月30日 (日) 22時56分

そうですね、義久の本音を聞けたら良いですね。さてこれは僕の推測なんですが、鹿介は元々尼子本家の家臣じゃなく、晴久に粛正された新宮党に属していた家臣で、新宮党粛正時には若年だったから粛正を免れ、心ならずも尼子本家に仕える様になったのじゃないでしょうか、そして彼はその中で新宮党の再興を願ってたのじゃないかという事です。だから、尼子本家の滅亡が決まった時…新宮党の命運もここに窮まれりとの思いから、義久への恩義は感じながらも…父祖塁代の主家たる新宮党の再興こそが我が使命との思いに駆られ、勝久を擁立しての家名再興運動を展開したのではないか、なんて思うんですが…歴史通の茶々さんの見解をお聞かせください。

投稿: マー君 | 2008年12月 2日 (火) 13時32分

マー君さん、こんにちは~

鹿之介という人物がはっきりと歴史上に登場するのは、あの一騎撃ちのあたりからで、それ以前の事は、検討するにも、どうも諸説ありすぎて残念ながら、よくわかりません
ヽ(;´Д`ヽ)

現在のところ、山中満幸の次男という説が有力だそうですが、それもあくまで有力だという程度・・・

ただ、山中という苗字が、誰かに与えられた苗字でなく本名だとすると、新宮党に枝分かれする一代前の尼子清定の弟・幸久が山中の祖ですから、たとえ、山中の誰の息子であっても、鹿之介も尼子一族という事になります。

新宮党の末裔を、わざわざ還俗して擁立するなら、なんで?自分ではいけなかったのか?ってのが気になりますが、やはり、自分も尼子氏だからこそ、尼子氏本家にこだわらず、どこかの大名の一家臣になるよりは、分家でもいいから尼子氏を再興するという事にこだわっていたのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2008年12月 3日 (水) 09時30分

鹿介が幾ら尼子一族に名を連ねる者だったとしても、自分が尼子氏を名乗る気は無かったんじゃないでしょうか。一族と言っても四代も前に分家した身じゃ他の家臣に対する求心力が得られないでしょう。足利家の様に、御所(足利宗家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐなんて俗謡があったように、尼子家にも、本家が絶えれば新宮党が継ぎ、新宮党が絶えれば山中が継ぐ…なんて伝聞でもあれば、鹿介が尼子を名乗っての家名再興運動ってのも有ったかも知れませんが、鹿介の動きを見ても尼子一族の重鎮というような感じは見受けられず、一介の武将みたいですから、どう見ても鹿介自身による尼子家継承&お家再興は考えられません。

投稿: マー君 | 2008年12月 3日 (水) 13時51分

マー君さん、こんばんは~

祖父の代での分家と曽祖父の代での分家にどれほどの格差があったのかはわかりませんが、確かに鹿之介の動きを見る限りでは、山中家は完全に家臣扱いですね。

分家だからこそ、まったく別の家につく事を拒んで、尼子氏の再興だけを夢見たんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2008年12月 3日 (水) 22時02分

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