姉川の後に…信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い
元亀元年(1570年)11月26日、織田信長VS浅井長政・朝倉義景連合軍による『堅田の戦い』がありました。
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元亀元年(1570年)6月28日の姉川の合戦(6月28日参照>>)で、近江(滋賀県)の浅井長政と越前(福井県)の朝倉義景の連合軍に勝利した織田信長は、「このまま、長政の本拠地・小谷城を攻めるべきでは?」との家臣の進言を振り切り、小谷城の近くの虎御前山(とらごぜんやま)に築いた砦と横山城(滋賀県長浜市)を木下(豊臣)秀吉に守らせただけで、それ以上の深追いをする事はありませんでした。
京都へと戻る道すがら、姉川の戦場から逃げ帰った磯野員昌(いそのかずまさ・浅井の家臣)らが籠る佐和山城(滋賀県彦根市)を丹羽長秀(にわながひで)らに囲ませ、自らは、7月4日に京都へ入り、将軍・足利義昭に牽制をかけます。
しかし、この時期は、その義昭の呼びかけによって、まさに信長包囲網が敷かれた頃・・・まわりは、もう、敵ばっかりです。
信長上洛の時に追いやられていた三好一族(9月29日参照>>)は、阿波(徳島県)を出て摂津(大阪府)に集結して牽制をかけ(8月26日参照>>)、その戦いに、ご存知、本願寺の顕如(けんにょ)が参戦して(9月12日参照>>)、全国の信徒に「打倒!信長」を呼びかけ、以後、近江での一向一揆も活発になります(9月3日参照>>)。
しかも、これに気をよくした浅井・朝倉軍が態勢を立て直して、琵琶湖の西岸を、いざ!京都へと向かってきます。
9月19日・・・琵琶湖のほとり・坂本まで迫り来る浅井・朝倉軍に宇佐山城(滋賀県大津市)を守る森可成(もりよしなり)は、信長の弟・信治とともに、わずかの兵を率いて撃って出ますが、奮戦空しく、その半数ほどが討死するという悲劇の敗北となります(9月20日参照>>)。
この二人の死に、さすがの信長も、畿内に散らばっていた兵を京都に集結させ、急ぎ、3万の軍勢を整えて、坂本方面へと向かわせます。
これに気づいた浅井・朝倉軍は、比叡山に逃げ込み、当然のごとく彼らを保護する延暦寺・・・追う信長は、延暦寺に武装解除して中立の立場を取るように呼びかけますが、延暦寺はこれを拒否。
さらに、10月には、朝倉義景自らが、新たな2万の軍勢を率いて越前から駆けつけるという事態になり、こうなったら衝突必至・・・信長自身も、かの宇佐山城に入って、ここでの決戦を決意し、準備します。
かくして元亀元年(1570年)11月26日、地元の土豪を味方につけた信長の重臣・坂井政尚(まさひろ)が、まずは先鋒として堅田の砦に入ります。
堅田の戦い位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
堅田は比叡山の北東・・・ここを押えられては、朝倉は福井に戻れません。
地元の一向一揆と連携した朝倉軍は、即座に、この堅田砦に奇襲をかけるのです。
砦に入って間もなくの奇襲・・・しかも、守る政尚の持つ兵が、わずかに1000では、とても押えきれず、この日の戦闘では、政尚以下、多くの死者を出してしまいました。
その後も、小競り合いを続けていた両者でしたが、もはや、信長の周囲は包囲しつくされて身動きがとれない状態・・・一方の義景も、雪深い故郷・越前の事を考えると、この状況のまま冬を迎える事は避けたい・・・。
しかも、信長&義景の思惑も去ることながら、都の近くでドンパチやられては、天皇や公家にとっても、安心して正月が越せないというモンです。
・・・よって、12月14日、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が下され、一応の講和が結ばれました。
一応・・・というのは、この和睦は、年が明けて、すぐに破られる事になるからです。
実は、先に、丹羽長秀が囲んでいた佐和山城・・・和睦が成った後も、横山城にいた秀吉が、「佐和山城はこの長秀の囲みで陥落し、城主の磯野員昌は信長の傘下になった」とのウソ情報を、近江一帯で流し続けていたのです。
その情報を信じた長政は、籠城を続ける佐和山城への兵糧の補給を断ち、自らの家臣を、自らの手で窮地に追い込んでしまっていたのですが、やがて、2月・・・いよいよ兵糧に困った員昌が、「部下もろとも飢え死にするくらいなら」と、自ら佐和山城を開城し、本当に信長のもとに走ってしまったのです(2月24日参照>>)。
やりました信長さん!
佐和山城は、琵琶湖の東岸・・・これで、本拠地の岐阜と京都との動脈を確保した事になります。
ただし、先ほども言いましたように、現在のところ、信長の敵は、浅井・朝倉だけではありません。
途中、長島の一向一揆(5月16日参照>>)、そして、あの比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)、さらに、未だプライドを捨てない足利義昭との関係(4月4日参照>>)などなどを、一つずつ崩しながらも、シーソーゲームを繰り返していた浅井・朝倉との戦いに終止符を打つべく、信長の巻き返しが始まるのは、2年後の天正元年(1573年)8月の事でした(8月14日参照>>)。
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コメント
小谷城跡でロケですか。当日は見物人が多かったですか?すると、1568年あたりから物語が始まると言う事ですね。この記事の「姉川の戦い」の前々年です。
「江 姫たちの戦国」の最初のロケは三姉妹がお玉(ガラシャ)に出会う場面でした。そうなるとお江さんの子供の時期が短いかも?
投稿: えびすこ | 2010年10月19日 (火) 08時50分
えびすこさん、こんにちは~
子供時代が波乱万丈なだけに、ないと寂しいですね。
投稿: 茶々 | 2010年10月19日 (火) 10時49分
お江さんは20代前半までに、佐治一成⇒羽柴秀勝(3代目)⇒徳川秀忠と夫が変わりますからね。実父と養父も失います。思春期の時にどんな境遇にあったのかが来年の序盤の見所ですね。「前夫」2人の配役はまだ決まっていません。
ところでサントリーの佐治さんは、佐治家の末裔でしょうか?佐治さん自身は養子らしいので血縁ではないんですが。
追記。「コミック大河」の島崎譲さん(女性)の連載「お江」の25日発売の今月号に、最初の夫の佐治一成が登場します。
投稿: えびすこ | 2010年10月20日 (水) 08時51分
えびすこさん、こんにちは~
今も決まっていない…って事は、出ない、あるいは出る期間が少ないので、名のある役者さんを使う必要がないって事でしょうか?
後半の春日局との嫁×姑合戦まがいの話ばかりのドラマにならない事を期待します。
投稿: 茶々 | 2010年10月20日 (水) 14時33分