いつの世も次期将軍はモメる?吉宗の御三卿
享保十五年(1730年)11月10日、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗が、次男・宗武を立てて田安家を創設しました。
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ご存知のように、長きに渡る戦乱の世を終らせて、徳川300年の礎を築いた江戸幕府初代将軍・徳川家康。
以来、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光・・・と、代々家康の子孫が将軍職を継ぐわけですが、秀忠の流れの男系男子が途絶えた享保元年(1716年)、初めて御三家・紀州から養子となって徳川宗家を継いで、第8代将軍となったのが、暴れん坊将軍こと徳川吉宗・・・
この御三家というのは、以前、水戸黄門様のところで書かせていただいた通り(12月6日参照>>)、家康から将軍を継いだ三男の秀忠以外の息子たちが継いだ将軍家に準ずる家柄・・・
- 九男・義直が尾張
- 十男・頼宣が紀州
- 十一男・頼房が水戸
(上記の三人と、将軍の秀忠以外はすでに死亡)
これが、御三家と呼ばれる家柄で、後継ぎをはじめ政変なども含めて、徳川宗家に何かあった時の手助けをする特別な家柄として続いていたわけです。
そんな中、第7代将軍の徳川家継が、子供がいないまま若くして亡くなり、弟もいなかった事から、御三家の中から次の将軍を・・・という事になったわけですが、当然、御三家というからには、それぞれの藩に当主と呼ばれる人がいるので、将軍候補も三人いる事になります。
- 尾張=継友
- 紀州=吉宗
- 水戸=綱条(つなえだ)
この中で、年齢の高い順なら・・・
1、綱条 2、吉宗 3、継友
家柄の格の順なら・・・
1、継友 2、吉宗 3、綱条
だったのですが、なぜか8代将軍に選ばれたのは吉宗・・・
一説によれば、7代・家継の危篤の知らせを受けて、一番に駆けつけてきたのが吉宗で、しかも、その身支度や家臣の統率ぶりが見事だったのに対し、綱条は2番手、継友にいたっては一番最後だったにも関わらず、身支度も中途半端で家臣の準備も整わず、バラバラに登城した情けない姿が、城内のひんしゅくをかったのだ・・・
なんて話もありますが、吉宗さんの場合は、紀州藩主の座でさえ、本来なら継ぐ事がない立場だったにも関わらず、なぜか兄たちが次々と亡くなり、当主の座が転がり込んできた・・・などというアヤシイ部分もあり、この将軍決定に関しても、上記以外にもイロイロと噂がなきにしもあらずなのですが、その件に関しましては、将軍就任の日のページ(8月13日参照>>)を見ていただく事として、とにかく、ここで紀州出身の吉宗さんが、徳川宗家の養子となって第8代将軍となる事に決定したわけです。
・・・で、そんな吉宗さんが将軍になって以来、その後の将軍は、徳川最後の将軍となった第15代・慶喜さん以外は、皆、紀州の人・・・つまり、8代~14代までは一度も、他の御三家には回ってこなかったわけです。
それが、今回、吉宗さんが創設した御三卿・・・という家柄です。
吉宗には、4人の男の子がいましたが、そのうち三男は早くに亡くなってしまい、成人したのは長男・家重と次男・宗武(むねたけ)と四男・宗尹(むねただ)・・・。
家康以来、長男が将軍職を継ぐことになっていたので、この中では当然家重が次期将軍となるのですが、この家重は身体も弱く、酒乱・・・吉宗としては、聡明な宗武に将軍職を譲りたかったようですが、やはり慣例にはさからえそうにもなく、このままでは、聡明な次男を、どこかの藩の養子にでも出してしまわねばなりません。
そこで、考えたのが、将軍家に準ずる新たな家柄・・・
享保十五年(1730年)11月10日、吉宗は16歳になった宗武に、江戸城内田安門内に屋敷を構えさせ、田安(たやす)家をつくらせたのです。
さらに、寛保元年(1741年)には、21歳になった四男・宗尹に、やはり江戸城内の一橋門内に屋敷を構えさせて一橋(ひとつばし)家を創設。
この家柄は、御三家のように藩・大名ではなく、将軍の身内・家族として扱われる事になったのです。
これには、やはり、享保の改革に反対した尾張の徳川宗春の事も影響していたでしょう。
宗春は、8代将軍を選ぶ時に、吉宗と争った継友の弟・・・負けた兄のくやしさを思ってか、吉宗が行った倹約を呼びかける享保の改革にことごとく反対した人で(10月8日参照>>)、吉宗もかなり手を焼いたと見え、この宗春さんが亡くなった後もお墓の周囲には、長い間、罪人の墓という意味の金網がかけられていたと言います。
つまり、血筋が絶えて将軍職を他人に奪われないように、家康が御三家を造ったように、吉宗は、将軍職を他家に奪われないように、御三卿という家柄を造った・・・って事ですね。
もちろん、吉宗のこの時点では、まだ、田安家と一橋家の二つで、吉宗の後を継いだ第9代将軍の家重が、長男・家治に将軍を継がせ、次男・重好(しげよし)に清水家を創設させ、ここに御三卿・・・田安・一橋・清水が揃ったのです。
今年の大河ドラマでも、あの14代将軍になった家茂(慶福)さんは紀州藩主、慶喜さんは水戸家から一橋家の養子になった人・・・って事で、篤姫のだんなさん13代・家定さんが亡くなって、次の将軍をモメていましたね~
将軍家を絶やさないために家康が御三家・・・しかし、いつしかこの御三家同士で次期将軍をめぐって争う事になり、その次期将軍を争わないために吉宗が造った御三卿も、結局は将軍の座を争う事になるのかと思うと・・・何やら、堂々巡りですね~将軍様も・・・
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コメント
映画「雷桜」で岡田将生君ふんする若様は、将軍の息子で後三卿・清水家の跡取りと言う設定です。将軍の跡目争いは綱吉時代からのようですね。当時吉宗の兄が「本命」と言われていたので。
後世の家治と定信は従兄弟なので、世が世なら定信が11代将軍でしたね。そうなると19世紀の日本の歴史も変わっていた?
投稿: えびすこ | 2010年10月24日 (日) 09時14分
えびすこさん、こんばんは~
富と権力が集中するだけに、いつの時代も将軍の跡目争いは堪えませんよね~
投稿: 茶々 | 2010年10月25日 (月) 02時41分
茶々様こんばんは。
この御三卿って、自分でも知ったの数年前で、今も連載続く歴史マンガからです。
普通の人に聞くと御三家は有名ですけど、御三卿は誰も知らなかったですね。
自分も昔、十五代徳川慶喜が将軍職を継いだとき、一橋なのに、なぜ水戸系なのかちんぷんかんぷんでしたから。
投稿: エアバスA381 | 2014年6月22日 (日) 00時29分
エアバスA381さん、こんばんは~
そうですね。
御三卿は、ドラマでも名前が出る程度でほとんどスルーですから、歴史に興味の無い方には、まり知られていないでしょうね。
投稿: 茶々 | 2014年6月22日 (日) 01時18分