平安京から京都へ~平安京命名の日
延暦十三年(794年)11月8日、第50代桓武天皇が、弟・早良親王の怨霊にビビリまくり、この先、何事も起こらないようにとの願いを込めて、この新しい都に平安京と名付けたという事は、一昨年の平安京遷都の日に書かせていただきました(2006年10月22日を見る>>)。
そして、その後、幕府がいかに変わろうが、千年の長きに渡ってこの場所が都として、天皇のおわす場所であった事も、一昨年の今日書かせていただきました(2006年11月8日を見る>>)が、では、この時、桓武天皇が名付けた平安京という名前・・・
しかし、もうご存じのように、鎌倉時代には、すでに、この京都に置かれた役職の事を「京都守護職」と呼んでます。
今では、誰もが、この場所を京都と呼ぶわけですが、なぜに、桓武天皇が命名した平安京という名前で呼ばれなくなったのでしょうか?
もともと、京という文字も都という意味で、都という文字も、もちろん都という意味です。
昔は、すべての都を、京または都と呼んでいて、平城京も長岡京も、京であり、都であり、京都だったのです。
本来なら、桓武天皇が平安京に遷都してから、明治天皇が江戸城を皇居とするまで、この場所は平安京であり続けたはずなのですが・・・
実は、その呼び名の変貌には、上記の両ページにも書かせていただいた財政難のために平安京が未完成のままで多くの場所がすぐに衰退してしまった事、藤原薬子の乱(9月11日参照>>)によって、前天皇が反乱を起すかも知れない事にビビった嵯峨天皇(桓武天皇の孫)が、現天皇の住む内裏(だいり)のそばに前天皇の住む後院を建ててその動きを見張った事が関係してきます。
平安京造営当時は、御所から南に延びる朱雀大路を境に、西が右京、東が左京(この右左は、天皇のおわす御所からの見た目)と呼ばれ、南の端には羅城門という都の入り口を示す門がありました。
この朱雀大路というのは、現在の千本通りで、羅城門は、現在の東寺の南西にありました。
今の京都の地図と見比べると、本来の平安京の中心が、今よりかなり西にあった事がわかります。
しかし、上記のように、財政難で都の造営が途中でストップしてしまったために、遷都後、20年か30年くらいで、早くも右京がすたれはじめてくるのです。
さらに、40年から50年頃には、賑やかな場所は、もはや東側のみとなり、羅城門のあたりは野生動物の宝庫となっていたようです。
ただ、それでも、まだ、ここは平安京と呼ばれていました。
やがて、天徳四年(960年)に、内裏が火事で焼けてしまったために、天皇が一時、冷泉院(れいぜいいん)に移るという出来事が起こります。
冷泉院とは、上記の後院と呼ばれる建物の一つ・・・以前、天皇だった人の住まいなわけですが、落雷などによる焼失が多かった当時の都には、造営がなるまでの一時的な皇居として、後院や里内裏と呼ばれる建物が幾つか存在していて、要するに、一時的に、そこに非難して、また内裏が再建されたら戻るという事になります。
ちなみに、現在の京都御所も、土御門東洞院という里内裏の一つです。
ところが、安元三年(1117年)、安元の大火と呼ばれる火事で、太極殿が焼失した時、とうとう皇居が再建される事はありませんでした。
実は、この時期から始まっていたのが院政・・・現天皇に代わって、以前の天皇が上皇となって政治を行うという政治体制です。
つまり、政治が皇居で行われるのではなく、後院や里内裏で行われるようになってしまったのです。
平安京という呼び方の定義は??
と言われると、ちょっと困りますが、おそらくは、桓武天皇が描いていた平安京という物は、あくまで、天皇が御所で政治を行い、その御所を中心に営まれる都であったはず・・・
しかし、未完成だったためにその中心が東半分にズレてしまったばかりか、政治を行う場所さえも変わってしまって、いつしか、桓武天皇の命名した平安京とは呼べなくなってしまった・・・
それが、平安京から京都へと、呼び方が変わった要因では無かったか?と思います。
その時期が平安末期頃・・・おそらく、この頃には、すでに、平安京よりも、京都という呼び方が定着していたという事でしょう。
桓武さん、ちと残念・・・
- 羅城門跡から、かつての朱雀大路=現在の千本通りを太極殿跡まで歩く、平安京の遺跡を訪ねた歴史散歩は、HPの【平安京の遺跡巡り】へどうぞ>>
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