敵からも愛された名将~立花宗茂・最後の関ヶ原
慶長五年(1600年)11月3日、筑後・柳川城の立花宗茂が、加藤清正の説得に応じて開城しました。
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立花宗茂(むねしげ)は、豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟(そうりん)の家臣で、島津に攻められた岩屋城で全員討死の壮絶な激戦(7月27日参照>>)を繰り広げた高橋紹運(しょううん)の息子・・・そして、やはり宗麟の重臣だった立花道雪の娘婿となっていたので立花宗茂を名乗っていました(5月28日参照>>)。
島津に攻められたその合戦の時には、父を失いながらも、自らの立花城を死守し、その後、大友氏の支援に乗り出した豊臣秀吉の力を借りて、見事、島津氏から豊後一国を守りぬきました。
そんな彼の戦術を見ていた秀吉が、戦後には、主君である大友氏を改易して、逆に宗茂を独立した大名として、筑後(福岡県西部)柳川に13万石を与えるのですから、その猛将ぶりがハンパじゃない事がわかります。
秀吉の傘下となった宗茂は、あの朝鮮出兵でも大活躍・・・文禄二年(1593年)の碧蹄館(ビョクジェグァン)での戦いでは、わずか3千の兵で、30万の明軍を煙に巻いたと言います。
やがて、秀吉の死後に起こった関ヶ原の合戦(年表参照>>)では、やはり、自分を直参として重用してくれた恩から、宗茂は西軍側につき、近江(滋賀県)の大津城を攻めて開城へと追い込みます(9月7日参照>>)。
しかし、本家本元の関ヶ原が予想以上に早く決着が着いてしまったために、当日の関ヶ原の現場には参戦できず、しかたなく、そのまま柳川城に戻ってきていたのでした。
そんな柳川城に迫ってきたのが、関ヶ原の合戦の2日前に勃発した九州の関ヶ原と言われる石垣原の合戦で勝利し(9月13日参照>>)、そのまま豊後・豊前を制圧し、このドサクサで九州全土を手に入れんがの勢いの黒田如水(孝高)でした。
如水は、佐賀城主の鍋島直茂(10月20日参照>>)に柳川城攻めの先陣を言渡します。
実は、この時の直茂は、彼自身は徳川家康側について東軍支持を表明していたものの、息子の勝茂が、西軍として伏見城攻め(7月19日参照>>)に加わったために、その真意が疑われている立場にあったのです。
その疑いを晴らすためにも、「さぁ、先陣を切れ」というワケです。
さらに、そこに、西軍として関ヶ原に参戦し、すでに10月1日に処刑された小西行長(9月19日参照>>)の主な城を次々と攻略し終った加藤清正(10月17日参照>>)が加わります。
如水・直茂・清正・・・いずれも智将の誉れ高い彼らに囲まれてしまった宗茂・・・城の周囲でいくつかの戦闘が繰り返される中、さすがの宗茂も、窮地へと追い込まれます。
そこへ、助け舟を出したのが、清正でした。
そうです・・・清正と宗茂は、あの朝鮮出兵で、ともに戦った戦友・・・宗茂の武勇も充分承知しています。
それこそ、父・紹運のように、全員討死の悲劇となって、ここで命を捨てるには惜しい武将だと思ったのでしょう・・・清正は和睦を望み、宗茂の説得にあたるのです。
かくして、慶長五年(1600年)11月3日、清正の説得に応じて宗茂は、柳川城を開城しました。
如水と交わした和睦の条件は、この先の九州での合戦での先鋒を努める事でした。
そうです。
このまま、さらに九州平定を続けなければ・・・何たって、この先には、関ヶ原にも参戦し、あの的中突破で戦場を去った(9月16日参照>>)島津義弘の兄・島津義久が薩摩(鹿児島県)を牛耳っているのですから・・・。
ところが、その後、直茂・宗茂を先陣に肥後(熊本県)から薩摩への国境付近まで陣を進めた11月12日、家康は薩摩への進撃を中止する決定を下したのです。
義久が行った様々な外交交渉が効いた事と、これ以上合戦が長引く事をヨシとしなかった家康の思惑もあり、家康は、この先の島津を攻めない事にしたのです。
一説によれば、この時、如水は、ドサクサで天下を狙っていたという話もあり、彼にしてみれば、まだまだ先に進みたかったでしょうが、とりあえず関ヶ原の合戦の勝者である東軍の総大将は家康・・・その家康が幕を下ろそうとしているのですから・・・。
結局、先の柳川城攻防戦を最後に、この関ヶ原の合戦の幕は下ろされ、降伏という形になった宗茂への処分は家康から下される事になります。
和睦を持ちかけた清正はもちろん、宗茂の武勇を知る者、あるいは、彼の人柄の良さを知る者たちは、その処分が、なるべく軽いものになるよう尽力しますが、やはり西軍に加担した罪を許される事はなく、翌年の慶長六年(1601年)に改易の処分となります。
諸将に惜しまれつつも、京都にて浪人暮らしを始めた宗茂は、家臣たちの再就職のために、せっせと感状を書く毎日を送ります。
感状とは、主君が家臣に書く合戦での武功や内政の評価の証明書・・・つまり勤務評定ですが、宗茂の場合は、完全に推薦状です。
一人でも多く、少しでも良い条件で、再就職ができるようにと書かれた彼の感状によって、旧家臣たちは、あっちこっちから引っ張りだこ・・・なんせ、あの名将の誉れ高い宗茂さんが、褒めて褒めて褒めまくった推薦状を持ってるわけですからね。
浪人という無収入であった彼が、感状書きまくりの生活ができたのも、かの清正が密かに援助していたから・・・なんて話もある事を考えれば、やはり、その武勇もさることながら、人柄も相当いい人だったんでしょうね。
やがて、そんな彼を、2代将軍・徳川秀忠が呼び寄せます。
西国事情や内政相談・戦談義など・・・その話し相手として宗茂を求めてきたのです。
最初、陸奥(青森県)棚倉1万石で秀忠に呼び寄せられた宗茂は、4年後には3万石に加増されるほど重用され、いかに、彼の助言が的を射ていたのかが伺えます。
元和六年(1620年)、宗茂が改易された後に柳川城主となっていた田中氏が跡取りがないまま断絶すると、以前の領地をそのまま与えられ城主として復活・・・そこには、以前、再就職を斡旋された多くの家臣が、尊敬に値する主君を求めて、再び集まったと言います。
そんな宗茂の重用は、3代将軍・徳川家光の世となっても続きます。
以前、【加藤清正・疑惑の死】(6月24日参照>>)で書かせていただいたように、偶然か故意か、何かと不可思議な最期を遂げる関ヶ原で豊臣から徳川についた、いわゆる外様大名たち・・・しかし、そんな外様の一人であるはずの宗茂ですが、彼だけは寛永十九年(1643年)11月25日に76歳で亡くなる最後の最後まで、徳川の将軍に重用された事になります。
亡くなる5年前に起こった島原の乱(2月28日参照>>)では、見事に戦略の指揮をとり、若き日の勇姿を見せていたと言う宗茂・・・やはり、戦国屈指の名将と言えるでしょう。
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コメント
最近、モバゲーで「100万人の信長の野望」をやっているのですが、本来であれば龍造寺でプレイしたいところ、九州は島津か立花しか選べないので、立花でやってます。
多分詳しい茶々さんのことだから、「立花?大友ちゃうんかい?」と思いましたね?今、思いましたね!?
私もなんで立花なのかと思いました。福岡に住んで立花山城にも何度か登った身としては嬉しいのですが、腑に落ちません。
しかも当主は「立花ぎん千代」という姫武将です。いや、確かにぎん千代は7歳で立花道雪から家督を譲られて、13歳で宗茂(15歳)を夫に迎えるまでの6年間は名実ともに立花山城の城督でしたが。
名実ともに・・・かな。実際には道雪が取り仕切っていたのかもしれませんが、名義上、立花山城はぎん千代のものでした。
やっぱ、若くて綺麗な女性の方がゲームとして盛り上がるし、同人ネタとしても喜ばれ・・・ゲフンゲフン
それにしても宗麟様にあんまりだと思います(滅)
てな訳で、今回は姫武将「立花ぎん千代」について書いてみました。
ウチはショップブログみたいなコンセプトなので、なかなかこういう記事は書かないのですが(笑)
投稿: よっすぃー | 2011年2月28日 (月) 15時57分
よっすぃーさん、こんばんは~
まぁ、大友宗麟は確かに大大名ですが、やっぱ、最近の人気は立花じゃないですか?
それにやっぱオッサンよりお姉さんのほうが良いでしょうし…
納得な人選やと思います。
投稿: 茶々 | 2011年2月28日 (月) 19時19分