本能寺・逃亡で「人でなし」~織田長益の歩く道
元和七年(1621年)12月13日、織田信長の弟で、千利休の高弟・七人衆の一人に数えられた茶人でもある織田長益が、75歳の生涯を閉じました。
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♪織田源五は人ではないよ
お腹召せ召せ 召させておいて
我は安土へ逃ぐる源五 ♪
文禄年間(1592年~1594年)に書かれたという『義残後覚(ぎざんこうかく)』には、あの本能寺の変の後に、「京都の人々がこのような歌を歌って囃し立てた」という事が書かれています。
この織田源五(げんご)というのが、織田信長の弟・・・本日の主役・織田長益(ながます)の事です。
本能寺で信長が自刃した後に、二条御所に籠っていて明智光秀の軍に囲まれた信長の長男(6月2日参照>>)・・・つまり甥っ子の信忠に、「もはやこれまで・・・自害したほうがいい」と勧めておきながら、自分だけは、その混乱に乗じて安土城へと逃げ、さらに岐阜まで逃げきって助かった事から、この「人でなし」のレッテルを貼られる事になってしまったのです。
長益は、尾張(愛知県西部)の武将・織田信秀の11番目の男の子として生まれますが、異母兄の信長とは、随分と年齢も離れており、その武将としての功績はほとんど記録に残っていません。
信長に従って合戦に赴いたのは、その本能寺の変の3ヶ月前に武田勝頼を攻めた時(3月11日参照>>)くらい・・・その時は、木曾口から武田領内に侵入し、信州深志城(松本城)開城の受け取り役をした事が記録されている程度です。
本能寺で命びろいした後も、「信長の後継者に・・・」との声もあがる中、信長の次男・織田信雄のもとで、検地奉行など務めますが、その信雄が、小田原征伐の後、豊臣秀吉の転封命令に逆らって改易されてしまいます(4月30日参照>>)。
さすがに、その時は、彼の存亡も危うくなるのですが、すかさず剃髪し、名を有楽斎(うらくさい)と号し、秀吉の御伽衆(主君の話し相手)となる道を選びます。
もともと、尾張にいた頃から、彼は茶人としての才能を、すでに見いだしていたのです。
幼い頃から、織田家の重臣・平手政秀の指導を受け、京の都から離れた尾張の地では、数少ない茶道の名人で、その風流を解する素質は、むしろ尊敬の眼差しを集めていたのです。
冒頭に書いたように千利休の高弟七人衆にも数えられています。
秀吉の朝鮮出兵の時も、ともに肥前(佐賀県)名護屋まで行きますが、そこで茶会を催しただけで、戦闘に参加する事はありませんでした。
ところが、その秀吉亡き後に起こった関ヶ原の合戦では、ちゃっかり徳川家康の東軍として参戦・・・家臣の活躍もあって、戦後には、もともとの摂津(大阪)にプラスして大和(奈良県)山辺3万石に加増してもらってます。
なのに、今度は、大坂冬の陣が勃発する頃には、その身は大坂城に・・・
淀殿が、あのお市の方の娘ですから、長益は叔父さんとなるわけで、ここでは、豊臣秀頼の後見人という役どころで、家康との抗戦を避けるべく尽力したとも言われていますが、夏の陣が始まる直前に大坂城を出て、京都・東山に引退した事から、家康のスパイだったのでは?との噂もチラホラ・・・。
現に、徳川の世となった後も、独自の有楽派を開くなど茶人として大活躍・・・江戸や駿府にもしばしば訪れたとされています。
東京の有楽町の名は長益の屋敷があった場所、数寄屋橋は長益の茶室があった場所と言われていますし、当時、荒れ放題になっていた京都の建仁寺頭塔・正伝院の修復にあたり、庭園や茶室を整備したとの事ですので、相当、羽振りが良かったものと思われます。
そんなこんなで、茶人として悠々自適の晩年を送った長益さん・・・元和七年(1621年)12月13日、京都にて75年間の人生に幕を下ろしました。
私も、初め、本能寺の変での逃亡の話を聞いた時は「なんて情けない人だ・・・」と思い、武将として失格&脱落者・裏切り者だと思っていました。
しかし、よくよく考えてみると、人間にはそれぞれ得意・不得意というものがあるもので、何も、不得意のものにこだわり続けて、無謀な戦いに挑む事が正しいとは限らないわけで、苦手なら苦手で、得意な道に進むのもアリではないか?と、今は思うようになりました。
親や兄弟の後を継ぐ事に関しても、親が社長なら、必ず会社を継がなければならない法律はないわけで、たとえ社長の息子でも、絵が好きなら、画家として人生を歩む事だって、それはそれで正しい道なのではないかと・・・。
そういう意味では、長益さんは、自分の才能をフルに発揮できる道を、自分自身で発見したという事で、深く考えずにアホ呼ばわりするのは、失礼かな?なんて思います。
逆に、長益が逃げられたのなら、同じ場所にいた信忠も逃げ出せたはずなのに、なぜ、信忠は、脱出して安土に向かわずに、二条御所で光秀と戦う道を選んだのか?・・・むしろ、こちらのうほうが気になってます。
本能寺の変の当時の信長は、秀吉から中国攻めへの援助要請を受け、この時、安土城では、2~3日後に出陣可能な大軍が準備されていたはず(1月9日参照>>)ですから、脱出して安土に戻れば、充分な体制を整えられたかも知れません。
しかも、大坂には、まもなく四国攻めに出発するはずだった次男・信孝が、その軍勢とともにいたわけですから、安土と大坂から、京都の光秀を挟み撃ちにもできたんじゃないか?と・・・
しかし、現実の世間は、一人逃げた長益を、「腰抜け」とあざけり笑う・・・現在なら、さしずめワイドショーの標的とされ、ブログ炎上&誹謗中傷の嵐の中に立たされていたかと思うと、何だか、お気の毒な気さえしてくる今日この頃です。
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コメント
謀叛の被害者なのに非難されるなんて、かわいそうなことだったと思います。二条御所から脱出した人は他にも何人もいますし。
武功は目立ちませんが、秀吉の標的になるのを避けたり、関ヶ原で家康に味方したりしたことから、けっこう才能があったように思いますね。
>なぜ、信忠は、脱出して安土に向かわずに、二条御所で光秀と戦う道を選んだのか?
私もこちらのほうが気になります。
やはり光秀の性格を知っていて、京都周辺は封鎖されていると予想したのだと思いますが。
二条御所から正親町親王の皇子である誠仁親王を逃がしていますが、光秀が親王にまで弓をひこうとしたとは思えないので、このことは理由から外れますかね。
脱出していたら、軍勢がまだ揃っていなくても、蒲生氏の日野城で守ってもらうこともできたはずです。
信忠が生き延びていれば、織田政権を維持することができたと思います。柴田勝家を志半ばに失うこともなかったでしょう。
少し話が飛躍しますが、近世の外交関係も維持できたかもしれません。
信忠の死は、日本史上で最も惜しいことだったと思います。
投稿: KAKI | 2008年12月13日 (土) 13時14分
↑で正親町天皇を正親町親王と書いていました。
すみません。
投稿: KAKI | 2008年12月13日 (土) 13時16分
KAKIさん、こんばんは~
そうなんですよね~
以前「本能寺のタイムラグ」でも書かせていただきましたが、信長は、すでに信忠に家督を譲ってましたから、この本能寺で、信長と同時に、信忠も死んでしまう事が、実は、信長の単独の死よりも重要な事になってくるんですよね。
>京都周辺は封鎖されていると予想したのだと思いますが・・・
確かに、「あの明智の事だからぬかりはない」と思ったのもあると思います。
ただ、やはり気になるのは、この時、おっしゃるようにニ条御所から脱出したのは、長益だけではありません。
後に秀吉によって後継者に担ぎ出される信忠の息子・三法師も、前田玄以に守られて脱出してます。
信長のように寝込みを襲われたのなら、混乱の中、玄以が機転をきかして、単独で三法師を救い出したとも考えられますが、信忠は、本能寺が焼け落ちたのを聞いてから、明智と抗戦するために、妙覚寺より籠城にむいている二条御所に移動したわけですから、そこに、少しの余裕があった事になります。
それならば、この玄以の三法師救出は、信忠の承諾を得ない限り、家臣が勝手にやってはいけない事のように思いますので、おそらく信忠の命令により、玄以は三法師を連れて脱出したのではないか?と考えています。
となると、信忠は、「脱出すれば、逃げられる可能性がある」と考えていたからこそ、三法師を玄以にたくしたわけで、その事を重々承知しながら、二条御所での籠城に踏み切ったように思うのです。
結果的には亡くなってしまうので、その信忠の判断は、判断ミスとなるわけですが、少なくとも、その時点では、彼なりに考えた結果、何かの理由があって籠城したのだろうと思うと、その理由がとても気になる次第です。
投稿: 茶々 | 2008年12月13日 (土) 17時48分
なるほど、たしかにそうですね。
明智勢が京都周辺を封鎖していれば、幼子を連れて逃げようとする者にも目を光らせていただろうと考えられますし、逃げられる可能性を考えてのことだったのかもしれませんね。(三法師が信忠と共にいたことを明智側が把握していたかどうかは知りませんが。)
ただ、突発的に起きた事件であり、今みたいに電話等で簡単に遠隔地の状況を知られる時代ではありませんでしたから、やはり京都周辺が封鎖されているかどうかを把握しきれずにいて容易に動けなかったのでしょう。ましてや織田家の家督を継いでいた信忠なら、ガードが手薄だと命が狙われることは充分想定されたことでしょう。それで、二条御所に立て籠もらざるをえなかったのではないかと考えているのですが。
誠仁親王はわざわざ逃がしに行かなくても、明智勢に狙われることはなかっただろうと思いますし。
それで、二条御所での籠城で時間稼ぎをして、京都周辺から他の武将の援軍が来ることを期待した。(二条御所に強固な防御施設が備わっていたという話は聞いたことありませんけど。)しかし、隣接する屋敷上からの弓・鉄砲の攻撃に遭い、予想以上に戦況が不利になった。敗色濃厚になったところで、わずかと思われる可能性にかけて、三法師を脱出させた。というところだったのではないでしょうか。
投稿: KAKI | 2008年12月13日 (土) 21時07分
KAKIさん、コメントありがとうございます。
確かに・・・もはやこれまでのギリギリのところで、一縷の望みをかけての三法師の脱出だったかも知れませんね。
加賀康之氏の「戦国合戦意外驚きエピソード」という書籍では、その時の長益の状況として「もう、ダメだと思って信忠に切腹をすすめたものの、何となく逃げられそうなので、思わず逃げてみたところ、本当に助かっちゃったのでは?」みたいな意見を書かれていましたが、実際にそんな感じだったのかも知れません。
信忠としては、勝算があって籠城に踏み切ったものの、危なくなって、一か八かの賭けで三法師を脱出させたのかも・・・ですね。
投稿: 茶々 | 2008年12月13日 (土) 21時47分
短命の人が多い織田一族では長命(信長の世代では最長老?)だった有楽斎長益。信長の兄弟の「序列」で下の方だった言う事も、信長の中年時代に存命(つまらない事で処罰されなかった)であったとも言えます。
ところで明日14日は「吉良邸襲撃」の日ですが、何か記載しますか?
投稿: えびすこ | 2009年12月13日 (日) 12時03分
えびすこさん、こんにちは~
>明日14日は「吉良邸襲撃」の日ですが、何か記載しますか?
討ち入りに関しては、すでに何度か書かせていただいていますが・・・
どうしましょうかねぇ~~~
まだ、悩み中です。
投稿: 茶々 | 2009年12月13日 (日) 15時52分
茶々様 こんばんは。
謎だらけで、もうわからないです。
真相はタイムマシンで、現場に行ってみないと、永遠にわからないでしょうね。
でも、そこが研究の余地がまだまだあると言うことですね。
今年は、こう自分は書きましたが、来年は違うかもしれません。
歴史の奥深いところです。
投稿: エアバスA381 | 2014年6月 2日 (月) 23時25分
エアバスA381さん、こんばんは~
謎はなかなか解けないでしょうね~そこがオモシロイんですが…
投稿: 茶々 | 2014年6月 3日 (火) 01時35分