武田信玄・上洛~その真意と誤算
元亀三年(1572年)12月22日、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の生涯最初で最後の直接対決・三方ヶ原の戦いがありました。
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・・・と、この三方ヶ原の戦いは、有名な徳川家康のおもらし事件もあり、一点集中の魚燐(ぎょりん)の陣を敷く武田信玄に対して、まさかの鶴翼(かくよく)の陣で挑んだ事もあり、何かと有名な戦いでありますが、これは信玄の西方遠征に対して、「わが領地をみすみす素通りさせてはなるか」と、未だ若さ丸出しの家康が、負けを承知の意地での出陣の感のある一戦でもあります。
この時の信玄の西への遠征は、上洛が目的というのが一般的で、このブログでも、一昨年の三方ヶ原の戦いのページをはじめ、甲斐を出発した10月3日のページ(10月3日参照>>)でも、はっきりと「信玄・上洛」と書かせていただいております。
すでに、信玄より年下の上杉謙信も織田信長も上洛を済ませており、信長と不和になった15代室町幕府将軍・足利義昭の期待もあり、「京を制する者は天下を制す」と言われた時代・・・最後の大物としては、「この辺で上洛を果たしておかねば・・・」というのが、当然のなりゆきなわけですが、かと言って、この時の信玄が、本当に上洛を目的として大軍を移動させたのか?という事が、絶対とは言い切れないのも確かです。
三方ヶ原の合戦の流れは一昨年のそのページ(12月22日参照>>)で見ていただくとして、本日は、この信玄の出陣が、本当に上洛目的であったのかどうか?について書かせていただきたいと思います。
・・・というのも、この時期が問題です。
今日のこの日が三方ヶ原の戦いという事は、もう12月も半ばを過ぎた押し迫った頃に、まだ、このあたりをウロウロしていて、果たして、京都に着くのはいつになるのか?
ご存知のように、戦国武将で兵農分離を確かな物にさせたのは、かの信長・・・この時期の信玄の軍勢は、未だ分離されておらず、8割もの人々が農民を調達してきた兼業兵士で構成されていたのです。
暦も、今とは違い、旧暦ですから、2月も半ばになれば、そろそろ農耕の準備を始めなければならない時期となるわけで、それを怠れば、たちまち領国内は食糧難となるはずです。
しかし、もし、天下を掌握するための上洛であるならば、京都に着いた~ハイ!OK・・・という事では済まされませんから、上洛した後も、何らかの小競り合いは覚悟しなければならないわけで、果たして、そんな時間があったのでしょうか?
・・・かと言って、もし、上洛が目的でないのだとしたら、この三方ヶ原の戦いで、家康に勝利しておきながら、家康が逃げ帰った浜松城を、そのまま攻め落とさずに先へ進む・・・というのが、とても不可解・・・またまた引っかかってきます。
急ぐ進軍でないのなら、ここで浜松城を落としておいたほうが良いような気もします。
そこで、注目は、その後、信玄が向かった野田城・攻略(1月11日参照>>)です。
現在でも、静岡県と愛知県に分かれている事でもわかるように、家康の浜松城は、ギリ遠江(とうとうみ・静岡県西部)、野田城は三河(愛知県東部)・・・つまり、信玄が落としたかったのは、三河のほうではないか?という事です。
この時期、すでに信長は岐阜に本拠地を移して、しかも、浅井・朝倉や石山本願寺&一向一揆の相手でめいっぱい・・・尾張(愛知県西部)はかなりの手薄になっているはずです。
逆に、信玄は信濃(長野県)の南部を支配下に収めていますから、落としやすい三河と尾張を取れば、甲斐(山梨県)からのルートが確保できる事になります。
確実主義の信玄にしてみてば、まずは今、三河と尾張を制しておき、上洛は、そのあとでも良かったという事なのではないでしょうか?
つまり、この時に一気に上洛するのではなく、一歩一歩確実に・・・という事です。
この時の西方遠征を上洛目的とする根拠の一つに、信玄が死の間際に「明日は瀬田(滋賀県の琵琶湖の近くの瀬田の事)に旗を立てよ」と言い残したとの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』の記述があげられます・・・だから、やはり上洛を夢見ていたのだと・・・。
しかし、たとえ、この言葉を信玄が発した事が事実であったとしても、この「明日」という表現は、言った人と聞いた人の間に、かなりの誤差が生じる言葉ではありませんか?
この「明日」は、確かに翌日の事ですが、何も、近い日ばかりを指すとは限りません。
「将来」という意味でも「明日」と表現する時があるかも・・・
信玄が上洛を夢見ていた事は確かでしょう・・・「いずれ上洛を果たすぞ」と・・・
しかし、それは、今回の西方遠征ではなかったのかも知れません。
もちろん、大軍を率いての遠征は、たとえ実際に上洛しなかったとしても、相手に脅威を与える事はできますし、信長包囲網への信玄の参加に期待している将軍・義昭への面目も立ちます。
そこンところは、完全に計算ずくでの数の多さだったはずです。
ただ一つの信玄の誤算は、己の命が、この野田城攻略の後で尽きてしまう事にあったのかも知れません。
確かに、その心の中までは読めませんから、あくまで仮説ではありますが、信玄の目は、もっと先の明日を見ていたのかも・・・ですね。
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コメント
上洛の途路で命を落とすなんて思ってなかったでしょうね。然し桶狭間の今川義元の例も有るから用心はしてたでしょうがね。
投稿: マー君 | 2008年12月22日 (月) 18時56分
マー君さん、こんばんは~。
やはり、信玄にとって、自分の死が一番の誤算だったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2008年12月22日 (月) 23時21分
そして信玄もこのメンバーでは、勝頼が一番若いと知っていて、粘れと遺言したそうな。父、信玄が申し訳なかったと、信長に詫びる流れもあって良かった。嫁は織田家から貰っていたしね。
投稿: おいらん | 2012年11月12日 (月) 00時10分
おいらんさん、こんばんは~
>信玄が申し訳なかったと、信長に詫びる流れも…
どうでしょうねぇ~
遠山夫人が嫁いだ頃とは、ずいぶんと状況が違ってますからね。。。
犀ヶ崖の戦いで平手汎秀の首を送り返すくらいですから、信玄は徹底して信長と戦うつもりだったんじゃないかと思います。
投稿: 茶々 | 2012年11月12日 (月) 02時19分
信玄の時に手打ちもありだと思いますね。
正月に武田神社と恵林寺に行けば、なおさら、思いますね。
勝頼は無理した感が、否めないのと、信玄でもう目一杯、引っ張っていた。
信長は西が片付けば、東を向いたでしょうから、その時でしたね。信玄も、自国領に誘き寄せろと言ってたみたいだし。
投稿: おいらん | 2012年11月13日 (火) 20時46分
おいらんさん、こんばんは~
>信玄の時に手打ちもありだと思いますね。
信玄がこれ見よがしに平手汎秀の首を信長に送って、それに信長が激怒したのは信玄が亡くなる4ヶ月前ですからね~
おしゃる通り「信玄の時に手打ちしたほうが良かった」とは思いますが、ご本人にはその気はなかったのでは無いか?と思っています。
>信玄も、自国領に誘き寄せろと言ってたみたいだし。
そう言っていたのならなお更、手打ちは無い気がします。
投稿: 茶々 | 2012年11月14日 (水) 02時19分
信玄が寿命で亡くなったとは個人的には考えにくいですね。総大将の状態があやふやなら、普通は出陣を控えるか、きっちり代替わりさせてから出陣をするか、短期決戦で内通していた岩村城に入城して全軍で東美濃から岐阜をストレートにやらないとダメだったと想います。
実際の合戦は、どうみてもまずは三河からの陽動で作戦を絞らせず、遠江で領地を稼ぎ敵兵力を集中させない、じっくりした作戦だったと思います。
信玄が健康体で出陣したと仮定すればよい作戦です。
個人的にアレッ?と思うのが、信玄が平手汎秀の首を信長に送り、家康に援軍を出したことへの糾弾に対して、信長が平謝りな書状を送っていることです。
どうみても天竜川切りを先に超えて大軍で踏み込んだ武田軍の方が同盟ルールには違約しているのに、また状況から信長と信玄との間の決裂は明らかなのに、です。
以前はこれはとにかく時間稼ぎをするための書状という理解がされていましたが、明らかにだれにでも分かる嘘ですから、ちょっとあり得ないかなと。一方で自分が調べた限りでは、この書状に添えて信玄へ大量の兵糧支援が送られたフシがあります。
眉唾説とはされていますが、この兵糧に宣教師直伝のヒ素が混ぜ込んであって、信玄はじめ多数の中毒者を出したのではないかと思います。信玄以外にも動けない兵が続出したため、後継の勝頼は上洛戦の続行が不可能と判断したとのことです。
信長の書状は多数ありますが、結構正直なものが多いのに、これだけはかなり例外的ですし、勝手な想像ですが、信長はけっこう家康の采配に期待していて、仮に合戦で止められなかった場合は毒入り書状で潰す、という決意だったのではないかと考えています
投稿: ほよよんほよよん | 2014年4月 8日 (火) 07時40分
ほよよんほよよんさん、こんにちは~
確かに「キリスト教徒による信玄毒殺説」はるみたいですね。
おっしゃる通り、信玄が甲斐を出陣した時は元気でないと出陣する気にもならないでしょうから、途中で急激な体調の変化があった事が考えられます。
ただ、「先が無いからムリを承知で上洛を急いだ?」てな事も無きにしもあらず…なかなか難しいです。
投稿: 茶々 | 2014年4月 8日 (火) 13時01分