龍馬亡き後の海援隊Ⅱ~天満屋事件
慶応三年(1867年)12月7日、海援隊士・陸奥宗光らが、紀州藩士・三浦休太郎を襲撃した『天満屋事件』がありました。
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慶応三年(1867年)11月15日、あの坂本龍馬が、京都・近江屋にて暗殺されました。
陸奥宗光(むつむねみつ)は、この時、京都に滞在していて、最も龍馬の近くにいた海援隊・隊士・・・急を聞きつけ、すぐさま現場に駆けつけた宗光でしたが、もはや、その時には龍馬は絶命していたのです。
その悲惨な現場を目の当たりにした彼は、例のいろは丸の衝突事故によってモメていた紀州藩が、新撰組に頼んで龍馬を殺させたと考えます(11月15日参照>>)。
宗光は、ほとんどが土佐藩出身の者で占められていた海援隊の中で、数少ない他藩の出身・・・そう、彼は、その暗殺犯かもしれない紀州の出身でした。
もともと、紀州藩で要職についてた父が政争で失脚し、一時は貧困生活をしながらも、彼は14歳の時に家出をして、一人江戸へ出ます。
やがて、父の罪が許され時、父と兄は紀州藩へ戻りますが、宗光は脱藩への道を選び、後に、勝海舟の海軍塾に入った事で龍馬と知り合い、亀山社中から海援隊・・・と、龍馬とともに歩む事になったのです。
はじめ、伊達小次郎と名乗っていた彼は、「うそつきの小次郎」というニックネームをつけられるくらいの口のうまさで、議論・討論では負けた事なし・・・ああ言えばこう言う、あまりの高飛車な自論の展開ぶりに、海援隊当時は、仲間との衝突も耐える事がなく、周囲からは孤立した存在でした。
しかし、龍馬は、そんな宗光の“群れない個性”みたいな物を高く評価していたようで、彼への手紙には、わざと『陸奥大先生』などという宛名を書いたりしています。
龍馬が、自分の事を理解してくれている事を、おそらく宗光も感じていたのでしょう・・・この龍馬の暗殺に関しては、「カミソリ陸奥」の本領発揮とばかりに血気にはやる行動に出ています。
慶応三年(1867年)12月7日・・・その夜、京都・六条油小路の旅篭・天満屋にて宴会を開いていた紀州藩公用人・三浦休太郎を襲撃すべく、海援隊&陸援隊の隊士ら15~6名を引き連れて、かの天満屋を囲みます。
もちろん、休太郎のほうも、衝突事故後のゴタゴタがあり、その後に起きた龍馬暗殺ですから、すでに身の危険を感じて新撰組に身辺警護を頼んでおり、当日は、斉藤一を筆頭に7名の新撰組隊士が、その周りを固めていました。
天満屋側面には、岩村精一郎ら6名。
背後には、斎原治一郎(大江卓)ら2名。
正面から、宗光ら8名が、客を装って屋内に侵入すると同時に、全員が突入します。
真っ先に休太郎の部屋に突入したのは、十津川郷士・中井庄五郎・・・休太郎を確認するや否や、即座に斬りつけましたが、休太郎は、とっさに身をかわします。
逆に、庄五郎が新撰組の一人に腕を斬られるのと同時に、あちらこちらで斬り合いが始まりますが、とっさの判断によって灯りが落とされた部屋は、誰が誰やらの区別もつかない状態・・・。
やがて、「討ち取ったぞ~!」との声とともに、襲撃側が一気に引き揚げを開始し、そのまま姿を消します。
しかし、その「討ち取った」という声は、機転をきかせた新撰組の一人が放った言葉で、休太郎自身は、頬に傷を負っただけの軽傷で無事だったのです。
結局、襲撃側は、かの中井庄五郎1名が死亡し、3名が負傷・・・新撰組側は、宮川信吉・舟津釜太郎の2名が死亡し、斉藤一の危機をその身体をはって救った梅戸勝之進が重傷を負ったほか、3名が軽傷を負うという結果になってしまいました。
世に言う『天満屋事件』です。
残念ながら、この日は、龍馬の仇を討つ事ができなかった宗光・・・しかし、ご存知のように、龍馬の暗殺は、見廻組の今井信郎の自白があるものの、未だ未解決のような状態ですから、この時、宗光が休太郎を討ち取っていたとしても、それが、果たして仇を討った事になるのかどうかは微妙です。
ところで、そんな宗光さん・・・
その「うそつきの小次郎」の手腕は、明治の世になってから外交で発揮されます。
彼は、その、ああ言えばこう言う口のうまさで、日清戦争講和全権として下関条約の締結に活躍し、あの不平等条約の改正にも尽力しました(8月24日参照>>)。
先日、【龍馬亡き後の海援隊】(11月16日参照>>)と題して、商社としての海援隊を、岩崎弥太郎が引き継いだ事を書かせていただきましたが、ここに、もう一人、龍馬の遺志を引き継いだ人がいたのです。
『船中八策(せんちゅうはっさく)』を書いた頃、世界を見つめ、大いなる海に夢を抱いた龍馬の志は、しっかりと宗光大先生の中に生き続けていたのでしょうね。
*宗光らが天満屋襲撃の計画を練った海援隊・京都本部=酢屋へ行った時のお話は2010年の1月20日のページへどうぞ>>>
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コメント
毎日楽しく読ませていただいています。
昔々、どこかで「陸奥宗光の切れ味」という文章を読んだことがあります。不平等条約改正交渉のときのエピソードです。全部憶えていませんが、記憶に残っているのは、当時の外交語フランス語で交渉が進められ、休憩となったとき、それまで通訳をさせていた陸奥宗光が、フランス語で「さて、食事をしようか」と言ったというのです。とてもイヤミな演出ですねヒヒヒ( ̄ー ̄)ニヤリ
こうしたエピソードもご存知と思うので、私の記憶に間違いがあれば、訂正お願いします(^-^;
私はグーグルで最初にHPの方を見つけたので、HPは大分読みましたが、まだ全部は読みきれていません。それから、このブログを読むようになり、毎日愛読しています。
これからも宜しくm(_ _)m
投稿: ななみみず | 2008年12月 7日 (日) 07時26分
ななみみずさん、コメントありがとうございます。
不平等条約改正交渉のときのエピソードは、ホント、「だから嫌われるんだよ~」と言いたくなるようなイヤミっぷりですね。
でも、きっとイイ人だったら、外国との交渉なんて、向こうの言いなりなってしまいそうですから、ある意味、陸奥さんという人選はピッタリだったかも知れませんね。
これからも、HPともども、よろしくお願いしますo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2008年12月 7日 (日) 16時00分
あの陸奥が龍馬の仇討ちを計画したとは知りませんでした。ただ「目撃者」がいないと思うので、(ご指摘のとおり)陸奥の早合点である可能性も否めないです。
「龍馬伝」の最終回で触れるかな?
ところで同番組で平岡君ふんする陸奥陽之助(私は陽之助の方になじみがあります)が、何となく「AZUMI」(幕末編)の向駿介に似ている(風貌)と感じるんですが…。
ちなみに「AZUMI」には坂本龍馬が出てきます。
投稿: えびすこ | 2010年10月28日 (木) 10時47分
えびすこさん、こんにちは~
今月買った歴史読本に、龍馬伝の最終回までのあらすじが載ってましたが、とりあえずは、死後もやるみたいですね(天満屋があるかどうかはわかりませんが…)
まぁ、最後の一回に、たくさんの出来事が盛り込まれるようなので、ナレーションっぽくなるのは仕方ないでしょうね。
投稿: 茶々 | 2010年10月28日 (木) 12時06分
もし坂本竜馬と中岡慎太郎が「11・15」で襲撃・殺害される事がなかったら、海援隊で行動をともにして、「陸奥外相」になったかどうかわかりませんね。
陸奥は明治初期にはまだ血気盛んで、政府内で「薩長対峙(「退治」ではなく「対峙」)」とみなされる行動をしています。
劇中でよくお龍さんが映画「007」のボンドガールのごとく、器用にピストルを扱います(射的)が実際はピストルを見た事すらないのかも?
投稿: えびすこ | 2010年10月29日 (金) 08時51分
えびすこさん、こんにちは~
お龍さんはピストルを持ってたみたいですよ。
龍馬が高杉から貰ったピストルを、あの寺田屋騒動で失くしたので、薩摩藩の小松さんが、新しいヤツをプレゼントしようとした時、お龍が「私もほしい」と言って貰ったそうです。
龍馬が死んでから、高知の実家に身を寄せた時も持ってたそうで、乙女姉さんが欲しがってたんだとか…
よく、鳥を撃って食べてたそうです。
ビックリですよね。
投稿: 茶々 | 2010年10月29日 (金) 15時39分
>※欄茶々様
>よく、鳥を撃って食べてたそうです。
>ビックリですよね。
えっ?! ピストルで?? よく???
スゴイ腕前ですね。ホントにボンドガールのようです。
ビックリしました。
投稿: ことかね | 2010年11月 1日 (月) 15時51分
ことかねさん、こんばんは~
龍馬も、酢屋の2階から船留りに向かって、よく試し撃ちをしてたって言いますが…
その「よく」っていうのが、どのくらいで「よく」って言うのかが、私にはよくわかりませんが、そういう風に伝わっているとの事でした。
それこそ、よくわかりませんが、お竜さんのピストルの話も、史料をもとにした専門家の方のご意見なので、信憑性あると思います。
投稿: 茶々 | 2010年11月 1日 (月) 19時26分
陸奥(旧姓・伊達)は紀州徳川家の勘定奉行(家老格)の一子。平和な時代だったら外様の藩の郷士など目の前で座ることもできないくらいのサラブレッド。いわゆる「維新の志士」でこれくらい「ありそうもない」良家の出身の者はいなかっただろう。もっとも父が政争に敗れて晩年不遇を囲ったことで紀伊藩への恨みがあったことが彼をして「犯人は紀伊藩用人の三浦に相違なし」と思わせたのではないか。
紀伊藩には譜代の大身家老に三浦家があり(付け家老を除けば筆頭)この三浦某は縁者と思われ、ま・さ・に・父の仇。こいつが竜馬も殺ったに違いない。「三浦あー、たたっ斬っちゃる」(和歌山弁)
となったのだろう。
どうでもいいけど和歌山市内、彼の生誕地(屋敷跡)と吉宗のそれはあるいて10分くらい。
投稿: 陸奥と紀州藩の因縁 | 2011年1月25日 (火) 13時22分
陸奥と紀州藩の因縁さん、こんにちは~
確か、お父さんとお兄さんは、紀州藩に戻ってましたよね?
それでも、恨みは消えない物かも知れません。
投稿: 茶々 | 2011年1月25日 (火) 16時03分