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2008年12月24日 (水)

尼子晴久と石見銀山争奪戦~尼子氏衰退のターニングポイント

 

永禄三年(1560年)12月24日、出雲(島根県)の戦国大名・尼子晴久37歳でこの世を去りました。

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先月書かせていただいた月山富田城(がっさんとだじょう)・開城のページでも、この尼子晴久さんの死からお話を始めさせていただいた(11月28日参照>>)ように、出雲を本拠地に、山陰地方に一大勢力を誇った尼子氏が、坂道を転げ落ちるように滅亡へと向かうターニングポイントが、この晴久さんの死にあったような気がします。

Amakoharuhisa400ats かと言って、晴久の後を継いだ尼子義久が、先代と比べて特別に愚将だったというわけではなく、時代の流れや周囲の環境が、まさにバッドタイミングで重なったような気がするのです。

鎌倉時代から、中国地方に君臨した2大勢力・・・周防(山口県)大内氏出雲尼子氏・・・。

近ごろ、世界遺産に登録されて俄然注目を浴びた石見(大森)銀山は、その鎌倉時代の延慶年間(1308年~11年)に発見されて以来、貴重な資金源として、この2大勢力の間での争奪戦が繰り返されていたのですが、その構図は、室町時代に入っても変わる事なく、銀山を守るために、大内氏によって構築された山吹城は、めまぐるしく両者の間を行き交い、抗争が繰り返されていたのです。

そして、いずれ大内氏も尼子氏も倒す事になる毛利も・・・

この頃は、未だ尼子氏の配下に納まる地方の一国人という身分でしたが、大永三年(1523年)、弟との家督争いに勝利して、毛利家の当主となった毛利元就(もとなり)は、その弟の背後に尼子氏の画策があった事で、以後、大内氏の配下となり、尼子氏と対するようになります(11月25日参照>>)

その後、天文十一年(1542年)に晴久の父・尼子経久(つねひさ)の死(11月13日参照>>)に乗じた大内義隆が元就を引き連れて、本拠地・月山富田城を攻めた第一次の攻防戦でも、1年以上に渡る籠城戦を耐え抜いて守りきり、不動の尼子氏を印象づけました。

ところが、その翌年の天文十二(1543年)年、尼子氏のあずかり知らぬところで、事態は大きく変わります。

大内氏の家臣だった陶晴賢(すえはるかた・隆房)クデーターを決行・・・主君・義隆を自刃に追い込み、自らのあやつり人形となる大内義長を大内氏の当主の座に座らせるのです(8月27日参照>>)

しかし、その7年後の弘治元年(1555年)、今度は、そのゴタゴタに乗じた元就が、厳島の戦い(10月5日参照>>)で晴賢を奇襲・・・戦いに参加していなかった義長は、無傷ではありましたが、あやつり人形として担ぎ出されただけの若き当主に、もはや、大内氏をまとめる力はありません。

ここで、山陽の雄・大内氏に取って代わった元就は、その金のなる木を手に入れるため、当時は尼子氏の物となっていた石見に手を伸ばします。

翌・弘治二年(1556年)、毛利の家臣・口羽通良(くちばみちよし)と元就の次男の吉川元春らが石見に進攻し、山吹城への攻撃を開始・・・尼子氏の配下で銀山代官を務めていた刺鹿長信(さっかながのぶ)らが応戦するも、やがて、山吹城は毛利の手に落ちます。

さらに翌年の弘治三年(1557年)には、銀山だけではなく、石見そのものをほぼ手中に収めた毛利・・・石見に残る尼子配下の者は温湯城(ぬくゆじょう・島根県)小笠原長雄(ながたか)のみとなってしまいます。

そんな中、すでに風前のともし火となっていた例の大内氏を、義長を自刃に追い込んで滅亡(4月3日参照>>)させた元就自身が、永禄元年(1558年)の4月に先発隊と合流し、この温湯城の攻撃に加わります。

さすがに、敵の当主の出陣に尼子氏も気合を入れなおし、こちらも晴久自らが1万5千の軍勢を率いて、まずは山吹城奪回へと向かいます。

攻撃を受けながらも温湯城が踏ん張る中、山吹城への兵糧補給を担当していた宍戸隆家を倒した晴久は、その勢いに乗じて山吹城を奪還・・・降伏という形で、敵側に寝返っていた代官・刺鹿長信を自刃させ、新たに本城常光を入城させます。

ここに、石見銀山は、再び尼子氏の物となりました。

翌・永禄二年(1559)になって晴久は温湯城の援助に向かい、7月5日には(こう)の川という川を挟んで毛利勢と対陣・・・一触即発の状態となります。

しかし、なぜか、ここに来て、にらみ合いするのみ・・・結局、戦う事なく居城の月山富田城に帰ってしまうのです。

これに激怒したのが、温湯城で頑張っていた小笠原長雄・・・。

「帰んのかい!」という怒涛のツッコミが聞こえてきそうな気配の中、案の定、「尼子は頼りにならん!」と、あっさりと元就の配下へと降ってしまいます

温湯城が手に入った以上、後は、山吹城に集中するのみとなった元就は、翌年、夏・・・新たに1万4千の兵を派遣して山吹城を攻めます。

それでも、山吹城を任せれている常光は何とか踏ん張り続けるのですが・・・そう、このタイミングです。

このタイミングの永禄三年(1560年)12月24日晴久が37歳の若さで病に倒れ、帰らぬ人となってしまうのです。

後を継いだ義久は、冒頭に書いたように、愚将というほど悪くはないものの、何と言っても弱冠20歳・・・謀略に長けた元就と相対するには、まだ早すぎでしょう。

やはり、ここに来ての晴久さんの死は、タイミング悪すぎです。

やがて、この2年後の永禄五年(1562年)6月8日には、山吹城が開城となり、石見銀山は毛利の物に・・・そして、あの第二次月山富田城の攻防戦へと向かう事になるのです(11月21日参照>>)
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コメント

やっぱ新宮党が無くなって戦闘力は低下してたでしょうね。晴久が新宮党を残していたら山陰の勢力図は違ったモノになってだしょうね。

投稿: マー君 | 2008年12月24日 (水) 23時24分

マー君さん、こんばんは~

やっぱ、元就の策略にやられましたね

投稿: 茶々 | 2008年12月25日 (木) 00時25分

新宮党粛清自体は全く問題無し
むしろ新宮党粛清で晴久は最盛期を創出しました

最近では島根県のシンポジウムで「尼子氏最盛期は尼子晴久で間違いない」と尼子氏研究の第一人者である原慶三氏も語られていました

詳しくはこちらに書かれてあります
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=505714006

http://ja.wikipedia.org/wiki/尼子晴久

投稿: 島根県民 | 2009年1月28日 (水) 02時06分

島根県民さん、コメントありがとうございます。

>尼子氏最盛期は尼子晴久で間違いない

おっしゃる通りだと・・・本文でも「晴久の死が、尼子氏の衰退のターニングポイント」と書いております。

新宮党については、まだまだ、研究の余地があると思います。

なんせ、歴史は勝者が書くものなので、敗者の記録は残りませんから、研究者によって様々な意見が展開されるのは当然の事…むしろ、そこが醍醐味だと思います。

参考にさせていただきます。

投稿: 茶々 | 2009年1月28日 (水) 02時38分

こんばんは、茶々さま

石見銀山ですか~いいなぁ~

現在は世界遺産にも登録されました

いってみれば億単位の宝くじを、みんなで奪い合う戦いです

あ~あ 僕も宝くじほしいなぁ~Σ(`0´*)

尼子さぁ~ん 銀山(宝くじ)は みせびらかしちゃあ ダメだよ んだから 毛利さんにとられちゃったんでしょ


投稿: zebra | 2010年9月27日 (月) 20時52分

zebraさん、こんばんは~

金山に銀山…
「金のなる木」は誰もが欲しいですからね~

海底の油田もねww

投稿: 茶々 | 2010年9月27日 (月) 21時46分

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