平治の乱を引っ掻き回した主人公~藤原信頼
平治元年(1159年)12月9日、平治の乱が勃発しました。
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平治の乱については、一昨年の12月26日「平治の乱が終結した日」に、その流れを書かせていただいたのですが(2006年12月26日を見る>>)、結果的に、源氏を衰退させ、あの平清盛に、「平家にあらずんば人にあらず」的な(この言葉を言ったのは清盛ではありませんが・・・)大いなる天下をもたらす事になってしまったこの合戦・・・
確かに、二条天皇が即位したにも関わらず、後白河法皇の院生によって、「天皇の側近たちが腕をふるえない」といった天皇家の不満もありはしましたが、それより何より・・・その合戦の勃発も、そして、その源氏の敗北も、直接の原因は、ひとえに藤原信頼(のぶより)という実力以上の高望み?をしてしまった人物にあるのです。
彼は、後白河法皇に気に入られ、中納言にまで出世した人物ですが、その気に入られかたは、政治手腕などではなく、あくまで愛・・・彼は、若い時は、かなりの美少年で、ソチラの趣味もあった法皇からの寵愛を受けての出世でした。
しかし、保元元年(1156年)に起こった保元の乱(7月11日参照>>)以来、信西なる人物が法皇の側近として大活躍・・・信西は、もともと、政治手腕もある博識な人物で、以前は藤原通憲(高階通憲)と名乗っていたものの、すでに没落した藤原南家の出身だったため、思うように出世できず、仏門に入っていたのですが、奥さんが法皇の乳母だった関係から、ここに来て、その政治手腕を発揮できる舞台を与えられ、見事、こなしていたのです。
そんな信西も気に入らないし、やっぱりまだまだ出世したい信頼さん・・・愛する後白河法皇に「ボクを近衛大将にして~ぇ」と、おねだりします。
今まで、こうしておねだりして、叶わなかった事は一度もありません。
今回も、そのカワイイ恋人の色香に法皇は、「ヨシヨシ・・・」と、まんざらでもない様子。
ところが、今度ばかりは、今までとは違いました。
そう、その信西です。
すでに彼は人事権まで掌握しており、この人事に「待った!」をかけたのです。
『平治物語』によれば、信頼さんは・・・
「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もあらず」
と、散々な書かれ方でけなされていますが、そこまで悪くはないにしろ、ごくごく平凡な人だったようです。
逆に、今まで苦労してきた信西にとっては、「家柄の良さと、顔の良さだけで、大した能力もないのに、出世コースを歩める世の中が許せない」とばかりに、今回の人事に猛反対・・・「彼は、玄宗皇帝の側近でありながら反乱を起した安禄山になりかねない人物だ!」とまで言い、法皇の勧めようとする人事を却下してしまったのです。
信西によって、出世を断たれた信頼は、彼を恨み、そして、同じく現政権に不満を持つ源氏の棟梁・源義朝や、二条天皇の側近たちを誘って、クーデターを決行・・・それが、平治の乱です。
そして、最大の兵力を持つ清盛が、熊野詣の旅行中の平治元年(1159年)12月9日に決行したクーデターは、憎き信西を討ち倒し(12月15日参照>>)、念願の近衛兵も掌握し、一応、成功という形でスタートしましたが、ここで、その凡々さが出てしまいます。
急を聞いて、熊野から戻ってくる清盛を、
「阿倍野で迎え撃ちましょう」
と進言する義朝の息子・義平に対して、
「阿倍野まで行ったら疲れるやん」
と却下・・・。
おかげで、清盛は、すんなりと京都に入る事ができ、さらに、戦う意志なし&降伏宣言まがいの行動で、信頼を油断させておいて、ちゃっかりと、相手側が確保していた天皇と法皇を、秘密裏にゲット!(12月25日参照>>)
かくして、法皇からの官軍のお墨付きをもらった清盛は、いざ、堂々と信頼の守る御所へ反撃を開始!
清盛の攻撃を受けて、撃って出る義朝と門を守る信頼・・・と言いたいところですが、平氏3000騎に対して、義朝は800騎・・・その数に恐れをなした信頼は、あっさりと持ち場を放棄して逃亡してしまいます。
それでも、奮戦する義朝ら源氏軍でしたが、その数の差はいかんともしがたく、あえなく六条河原にて敗戦を覚悟し、戦線を離脱する決意をするのです(1月4日参照>>)。
もう、御所へは戻れない義朝は、源氏の本拠地である東国へと落ちるのですが、途中、彼に追いついた信頼が、
「ボクもいっしょに連れてって~」
と、すり寄っていくと・・・
「この・・・日本一のヘタレが!」
(平治物語の原文では↑「日本一の不覚仁(ふかくじん)」=考えが浅く覚悟が決められない軽率な人)
と、義朝は、持っていた鞭で、信頼の左頬をビンタ!したのだとか・・・そら、怒られるゎ(@Д@;
置き去りにされた信頼は、哀れ、平氏に引き渡される事に・・・
・・・と、まぁ、歴史は勝者が書くものなので・・・というより、この平治の乱については、『平治物語』によるところが大きいのですが、その物語の作者が「信西びいき」なので、当然、その信西を殺してしまう信頼は、どうしても悪人&ダメ男になってしまうわけですが、もし、この通りだとすると、勃発から結末まで、信頼さん一人で引っ掻き回してグチャグチャにしてしまった感のある平治の乱・・・
今後は、何とか、彼の名誉回復になるような史料がたくさん発見される事をお祈りします・・・いつか【藤原信頼の汚名を晴らしたい!】という記事が書けますように・・・。
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コメント
こんにちは!
そういえば今日は平治の乱勃発の日でしたね。
藤原信頼の汚名を晴らしたい!
とのことですが
その汚名返上の手がかりになる本があります。
元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」(NHK出版 2004年)
(元木氏は日本中世史の専門家です。)
ご参考までに。
近衛大将おねだり説とか信頼無能論
ついでにいうとこの乱に対する従来の見方を見事に一蹴しておられます。
元木氏の著書の他にこの乱に関する研究書としては
河内祥輔氏「保元の乱・平治の乱」(吉川弘文館 2002年)などもあり
最近では平治の乱の評価が劇的に変化しています(元木・河内両氏の説を支持する専門の方が増えているように見受けられます。
最近のwikipedia「平治の乱」の内容も元木氏や河内氏の研究内容をかなり反映したものになっています
また、愚ブログでも平治の乱について少し触れておりますのでよろしければご覧くださいませ。)
投稿: さがみ | 2008年12月 9日 (火) 13時47分
世に名前負けって言葉がありますが、信頼さんは正に典型的な名前負け人物ですな。能力以上の役職を望み平和な世情を乱し…民衆の為政者への信頼を無くさせる。クーデターを起こすも後々の展望も持ち得ず、敵方に易々と反撃される始末。オマケに味方の諸将の意見も聞かなければ、負け戦と見ると味方が踏張ってるのに自分一人逃げ出そうとして…味方(仲間)の諸将からの信頼も無くす。ホンマに見てて情けなくなるような人間ですね。凡そ信義の欠片も持ち合わせない、信用の置けない人物で信頼なんて言葉とは程遠い…完全な名前負け人間の代表ですね。
投稿: マー君 | 2008年12月 9日 (火) 13時58分
さがみさんのコメントを基に、wikiも読んできました。茶々さんの「書き下し文」の面白さを改めて実感いたしました。面白くてわかりやすい記事、いつもありがとうございますo(_ _)o
いわゆる受験対策で「日本史という名の世界史」を教わってきた世代の私には大変勉強になります。
しかし、信頼さんの汚名を晴らすのは、どっちにしても難しそうですね。
投稿: おきよ | 2008年12月 9日 (火) 15時26分
さがみさま、こんばんは~
なるほど、信頼さんの汚名返上となる日も近い・・・という事で、今度、オススメの本を読ませていただく事にします。
ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2008年12月 9日 (火) 17時08分
マー君さん、こんばんは~
>信用の置けない人物で信頼なんて・・・
アハ!・・・本当ですね。
信頼できない信頼さん・・・オモシロイ
投稿: 茶々 | 2008年12月 9日 (火) 17時11分
おきよさん、コメントありがとうございます。
おもしろくてわかりやすいと言っていただけるのは、とてもうれしいです。
今後とも、わかりやすさのために、大事な部分が抜け落ちないよう気をつけますです。
投稿: 茶々 | 2008年12月 9日 (火) 17時21分
この人、死ぬ直前まで「助けて!」と言っていたから汚名付けられて当然!。だけどにくめない。
投稿: ゆうと | 2012年3月15日 (木) 21時22分
ついでに、いうけど責任あるのに、鎧もとられたそうです。道中。
投稿: ゆうと | 2012年3月15日 (木) 21時33分
ゆうとさん、こんばんは~
敗者の言い分は末梢されますからね。
名誉回復はなかなか難しいかも知れません。
投稿: 茶々 | 2012年3月16日 (金) 00時01分
甘えん坊信頼は、最後、義ともにまで甘えるのか...。
投稿: ゆうと | 2012年3月16日 (金) 17時59分
いま藤原信頼を読んだ。伝説ですが、義朝にひっぱたかれた後、甲斐の甘利郷に落ち延び(天皇お馬番、名馬の里)そのあとが甘利八幡宮、場所は今もひっそり隠され、ただの八幡宮。信頼(黒源太清光?)―(武田)信義―(一条)忠頼-(甘利)行忠-行義、 もうひとつ黒源太清光-(武田)義信-信光-(甲斐武田氏嫡流に続く)天皇家内部極秘資料にはさらに裏の事実があるという。武田家の出自に関してはひたちなか市の志田惇一説がある、これだと武田皇子伝説が嘘になり、キリスト教大学が神道と日本武尊を否定、冒涜することになる。藤原北家の血脈と打倒清盛の意志によって新羅源氏を中興したとする、同時に悪源太業平も韮崎に落ち延びたとする伝説もあるのだ。彼らがただの落人とならずに清和源氏名家の某になりかわり、家系をも捏造して鎌倉源氏の歴史をも支配したかはともかくとして心霊的なわが血脈が藤原北家であり武田の歴史は謎のベールにつつまれている。平家物語は東鏡はすべて勝者の歴史、蘇我入鹿は殺されておらず殺した???本当に狡猾な者が支配者となる。私はこんなものだと思う。
投稿: 甘利靈穏(Lenon) | 2012年7月10日 (火) 01時00分
甘利靈穏(Lenon)さん、こんばんは~
源平の戦いに限らず、歴史は勝者が造る物…勝てば官軍負ければ賊軍で、この勝者の歴史は『古事記』『日本書紀』に始まり、中世でも近代の世界大戦ででも、そして今も現在進行形で続いていると思います。
皆が正直にありのままを書き残してくれていれば…とも思いますが、それだと歴史の謎をひも解く楽しさも半減するので、ちょっと寂しいかも…
まぁ、同じ出来事を同じように目撃しても、見た人の立場が違えば、その人の記憶に残る印象も違いますから、客観的な記録として残すのもなかなか難しいかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2012年7月10日 (火) 01時40分
「平清盛」では塚地さんですね。
割腹がいい塚地さんと比べると藤原信頼は正反対のイメージですが、実像は切れ者(政治的センスのある人)で一時は朝廷の重鎮でしたね。名前とは反対に武士から見たら「信頼の薄い」人だったのかどうか。
なぜか「平清盛」では芸人さんが多く出ていますね。第1回で出た前田兄弟も一応「芸人枠」になるのかな?
投稿: えびすこ | 2012年7月10日 (火) 10時54分
えびすこさん、こんにちは~
日本一の不覚仁ですからね~
カッコイイ役者さんはNGだったのでしょうか?
ドラマでは、すべての根元が信頼のアホさ加減にあるような雰囲気になってましたが、負けた義朝も好敵手としてかっこよく描くためには、致し方ないでしょうね。
NHKさんでは、2世や芸人さんがドラマデビューする事が多いですね~
塚地さんは、前から民放にも出てますが…
投稿: 茶々 | 2012年7月10日 (火) 13時21分