二度の脱走と局長狙撃~元新撰組・阿部十郎
慶応三年(1867年)12月18日、高台寺党の生き残りで元新撰組隊士の阿部十郎らが、墨染にて局長の近藤勇を襲撃・・・重傷を負わせました。
・・・・・・・
この近藤勇襲撃事件を語る時、大抵は、「篠原泰之進(たいのしん)らが・・・」と、篠原さんを主として書かれる事が多いのですが、本日は、その襲撃仲間の一人・阿部十郎さんを中心に話を進めさせていただきます。
なんせ、この人は、何百人といる新撰組隊士の中で、ただ一人、2度も新撰組を脱退した人なのです。
血気盛んな多くの浪士を一つにまとめなければならない新撰組・・・そのためには厳しい規則を設けねばならず、その中にはご存知のように「勝手な脱退は認めない」というのもあったわけで、脱走者は捕まって切腹というのが当然のなりゆきだったのですが・・・。
阿部十郎が新撰組に入ったのは、文久三年(1863年)の6月頃と言いますから、例の将軍の上洛のために最初に集められた浪士隊のほとんどが江戸に戻って、芹沢鴨と近藤勇のグループだけになってしまい、会津藩お預かりとなって京都の治安維持を目的とする壬生浪士組と名を改めて、大坂や京都で隊士を募集した頃・・・その頃に彼の剣術の先生だった谷万太郎とともに入隊したようです。
しかし、局長の近藤と、事あるごとに意見がぶつかり、彼は、わずか一年ほどで新撰組を脱走するのです。
さすがに、ここでは掟どおり・・・見つかれば切腹させられてしまいますから、おとなしく大坂に隠れ住んでいたのですが、その時に土佐勤王党の残党たちのアヤシイ動きをキャッチします。
当時、まだ新撰組にいて大坂駐屯所の隊長をしていた万太郎とともに、彼ら残党が大坂焼き討ち&大坂城乗っ取りを計画している事を知った十郎は、万太郎の兄・谷三十郎らと一緒に、残党たちが拠点としているぜんざい屋を襲撃!・・・その計画を未然に防ぐ事に成功するのです。
世に言う「道頓堀ぜんざい屋事件」・・・この功績のおかげで、脱走の罪が許され、十郎は、晴れて新撰組に復帰するのです。
その後、新撰組の砲術師範などを任され、脱走経験者としては異例の出世を果たすのですが、やっぱり、おとなしく新撰組に収まるタイプではなかったようです。
慶応三年(1865年)3月、「御陵衛士(陵墓の護衛係)を拝命した」として新撰組を離脱した伊東甲子太郎(かしたろう)とともに再び脱退し、彼も高台寺党となるのですが、その11月・・・新撰組による甲子太郎暗殺=油小路の変(11月18日参照>>)が起こってしまうのです。
十郎自身は、この時、京都を離れていたので無事でした。
そして彼は、同じく難を逃れた篠原泰之進や内海次郎ら高台寺党の生き残りとともに、薩摩藩邸に身を寄せ、殺害された4人の復讐を誓うのです。
最初は、あの沖田総司に狙いをつけますが、なかなかチャンスに恵まれず、そうこうしているうちに、当時、伏見奉行所に陣を構えていた新撰組局長の近藤勇が、二条城に出向く日づけを聞きつけたのです。
「これは絶好のチャンス!」
とばかりに、その帰り道を襲撃する事にします。
尾張藩邸跡に建つ伏見板橋小学校
かくして慶応三年(1867年)12月18日、部下数名とともに、馬に乗った近藤が伏見にさしかかる頃、伏見街道沿いの空き家にて待ち伏せする彼ら・・・
後に、十郎は、この場所を、「伏見の尾張藩邸の横にある街道を曲がるところ」と証言していますので、その証言に間違いがなければ、現在、その尾張藩邸の跡地には伏見板橋小学校が建てられているという事で、位置としては現在の京阪電車の墨染駅よりは、むしろ丹波橋駅の近くという事になりますね。
ちなみに、薩摩藩邸は、その南側の道・下板橋通を西(地図では左)に行って川を越えてすぐの突き当たりの目と鼻の先の所に・・・この距離は、普通に歩いて2分程ですので、オッサンが全速力で走れば、すぐに逃げ込む事が可能だったでしょうね。
現在、この伏見街道というのが、どのあたりだったのか?という事が特定されていませんが、小学校の隣の伏見中学前には、「みぎ・いなりかいどう ひだり竹田街道」と書かれた道標が現存し、文久年間(1861年~1863年)に発刊された『宇治川両岸一覧』の中には、「伏見街道は竹田街道と並行して走る伏見稲荷詣の道である」ような事が書かれてありますので、このあたりであった事は確かなようです。
また、伏見奉行所は、ここから1kmほど南、現在の伏見桃山駅をさらに南200mほどの所(奉行町という地名が残ってます)にありました。
丹波橋周辺
やがて、通りがかった近藤めがけて、鉄砲で狙撃する十郎・・・
さすがは砲術師範・・・十郎の撃った弾は、近藤の肩と胸の間に命中します。
手ごたえアリ!と見て取った彼らは、一斉に刀を抜いて斬りかかり、近藤の連れていた部下数名のうち、二人がこの交戦で命を落しますが、近藤自身は、重傷を負いながらも、落馬する事なく、そのまま馬を走らせ、何とか伏見奉行所までたどりつきました。
その後、療養のため大坂城に移った近藤は、この怪我のため翌年・慶応四年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月2日参照>>)には参戦できず、この時に参戦した新撰組の指揮は土方歳三が引き受ける事になります。
一方の十郎らは、そのまま薩摩藩邸へ逃げ帰り、戊辰戦争では薩摩軍として参戦しています。
結局、この戊辰戦争の途中で、近藤は新政府軍に拘束され、十郎と同じ高台寺党の生き残りの加納鷲雄によって、そのメンが割れる事となり、最終的に処刑(4月25日参照>>)されるのですから、結果的に、彼ら高台寺党の生き残りは、伊東の仇を討ったという事になるのかも知れません。
その後、明治になって、北海道で官職についていた十郎も、54歳になった晩年、突然、果樹園を開き、幕末の動乱に波乱の人生を送った事を払拭するかのように、リンゴの栽培に没頭する毎日を送ったそうです。
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コメント
こんばんは^^
出ましたね~、阿部十郎さん。
ホントなんで2回も新選組に入ったんでしょうね^^;
襲撃場所も墨染より丹波橋のほうに近いようですね。
「この辺り」っていう地図を私も見せてもらったことがありますが、
行ったことがないので、今ひとつ感覚がつかめません。
いつか絶対史跡めぐりに行きたいです。
次回また、新選組ネタをお願いしますね。
今度の事件は何かな~?
投稿: ルンちゃん | 2008年12月18日 (木) 20時49分
テレビの新撰組血風録、燃えよ剣等また小説の子母澤寛 著の新撰組始末記等見たり読んだりしましたが阿部十郎のことは記憶にありませんでした、新撰組で明治以後も生き残ったのは斉藤一、永倉新八、鈴木美樹三郎(高台寺党)しか知りませんでした。幕末動乱の世の中でも人の命はやはりなかなか生命力はあるものなんですね。それに比べて太平洋戦争のなんと無駄な人の死.....あまり言いたくないけど....
投稿: | 2008年12月18日 (木) 20時59分
すみません上記コメントはやまももでした。
投稿: やまもも | 2008年12月18日 (木) 21時03分
ルンちゃんさん、こんばんは~
未だ勉強中の幕末・・・新撰組におくわしいルンちゃんさんからご覧になると、このページも、ツッコミどことが多々あるとは思いますが、現地に行った事があるという事で、現場と薩摩藩邸とかの位置関係についてはだいたいわかります。
この小学校から薩摩藩邸跡地まで、思ってた以上に近かったです。
あと、あの薩摩九烈士のお墓がある大黒寺も近いので、ぜひ機会がありましたら散策してみてくださいね。
投稿: 茶々 | 2008年12月18日 (木) 21時39分
やまももさん、こんばんは~
そうですね。
永倉さんのように長生きしてくれた人がいたおかげで、本来なら、敗者として歴史から消されたかも知れない新撰組の人々の細かな逸話までが後世に残る事になって、うれしい限りですね。
個人的には、太平洋戦争は、歴史として語るには、まだ生々しさが残っているような気がしてなかなか踏み込んでいけませんです。
投稿: 茶々 | 2008年12月18日 (木) 21時45分
今の世が殺伐としてると思ってましたが、幕末に政治に関わった人物は、勤皇派であれ佐幕派であれ、攘夷派であれ開国派であれ…一歩、家を出ると否や家に居ても常に反対勢力に命を狙われてたんですよね。然し事の善悪は別として、当時の政治(マツリゴト)に関わった人達は、国の行く末を案じ自分の信じる道を真直ぐに突き進む信念と、国の為ならいつでも命を捨てる覚悟を持ってた事だけは確かでしょう。今の政治家に幕末の為政者ほどの覚悟と信念を持った人物が如何程居るでしょうね。
投稿: | 2008年12月18日 (木) 21時49分
そうですねぇ・・・
昨日の天狗党のところでも似たような事を書きましたが、いまの政治家は自分の保身ばっかりで、身を捨てて国の未来を何とかしようという人はいませんねぇ。
投稿: 茶々 | 2008年12月18日 (木) 23時37分