« 大阪城に生きた虎が?~大阪の昔話・大坂城の虎 | トップページ | 紅葉の穴場見つけた!~保津峡駅in京都 »

2008年12月 2日 (火)

意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者

 

長享元年(1487年)12月2日、室町幕府第9代将軍・足利義尚の布陣する近江鈎の陣に、六角高頼配下の甲賀衆が奇襲をかけました。

・・・・・・・・・

応仁の乱のドサクサで、近江国(滋賀県)にある寺社の荘園を横領しようとした守護・六角高頼(ろっかくたかより)・・・。

それを阻止すべく、将軍自らが出陣し、長享元年(1487年)9月から、延徳元年(1489年)3月26日に、その将軍・足利義尚(よしひさ)が陣中で病死するまでの2年半に渡って繰り広げられた戦い・・・拠点にした場所の名から、この戦いの事を近江鈎(おうみまがり)の陣と呼びます。

その一連の戦いの中で、最も劇的なのが、12月2日奇襲攻撃・・・という事で、昨年は、そのお話を書かせていただきました(2007年12月2日を見る>>)

昨年のそのページでも書かせていただきましたし、本日の冒頭でも書かせていただいた「六角高頼配下の甲賀衆」・・・高頼は、近江が地元ですから、その配下の多くが甲賀の者たちであったので、そのように書かせていただきましたが、実は、この時の奇襲作戦には、一部、伊賀者も参加していたのです。

まばたき一つせず、ほぼ無表情に近い忍者・ハットリくんに恥をかかせようと、あの手この手で、執拗にイタズラを続ける甲賀忍者・ケムマキくん・・・この二人の構図から、何かと敵対しているイメージのある伊賀忍者と甲賀忍者。

でも、上記の近江鈎の陣への奇襲作戦でもわかるように、実はけっこう仲がいい・・・今日は、そこンところを書かせていただきます。

Sinobi800

主に拠点としていた京都に近いという事で、甲賀忍者を配下にし、今や最大のライバルとなった徳川家康の動きを探らせていた豊臣秀吉

本能寺の変の後の決死の伊賀越え(6月4日参照>>)以来、伊賀者を配下にして、秀吉の動きを探らせていた家康・・・伊賀と甲賀が敵対しているようなイメージがついたのは、ここらあたりの逸話によるものかも知れません。

しかし、実際には、その家康の伊賀越えの時も、服部半蔵正成の呼びかけに答えて、家康の警護に集まったのは、伊賀者だけではなく、甲賀の者も混ざっていたのです。

そう、伊賀と甲賀が敵対しているというのは、後の時代劇やお芝居などでの、完全に作られたイメージなのですよ。

それは、戦国忍者の誕生していった過程を、じっくり踏まえると、彼らが敵対していたのではない事が読み取れます。

以前、織田信長【第二次天正伊賀の乱】(9月11日参照>>)のところでも書かせていただいたように、武田信玄には出抜(すっぱ)上杉謙信には軒猿(のきざる)、はたまた北条風魔真田十勇士などなど・・・諜報活動が戦いにおいて最も重要なものであるのは、孫子の時代からの常識です(孫子の兵法・用間篇を参照>>)

そもそもは、あの聖徳太子が敵情視察のために放ったという志能備(しのび)・・・これが、忍者のルーツとも言われますが、私、個人的には聖徳太子の志能備と、戦国忍者は別物ではないか?と思っています。

聖徳太子の志能備は、先に人物を雇っておいて、その人物に志能備という諜報活動をやらせる・・・一方の、戦国忍者は、もともと諜報活動が専門のプロ集団を雇い入れる・・・正社員と派遣社員の違いとでも言いましょうか、仕事内容が同じでも、立場が違っていたのではないか?と・・・。

おそらく、戦国忍者が誕生したのは、それぞれの故郷=惣村の自衛のための集団として誕生したのでしょう(惣村については6月9日【一味同心・一揆へ行こう】参照>>)

地元に根付いた国人や土豪たちを中心に、その村に生きる農民たちが、戦国という世の中で、自らを守るために取得したすべが、独特の忍術なのでは?

時には、自らが造った環濠という堀を張りめぐらした村で・・・
時には、自然の山に囲まれた山間の里で・・・

戦国大名が群雄割拠した時代に、どこにも属さない彼らは、自衛のための手段を身につけます。

それは、大量の武器と兵に対抗するための諜報活動であり、ゲリラ作戦だったのです。

伊賀の里と甲賀の里を見てみてください。

どちらも、山に囲まれた地に暮らし、山間で農業を営みながら、時には採れた山の幸を持って都へと行商に出かける・・・鈴鹿を挟んで、同じ境遇で暮らす彼らは、敵対どころか、むしろ、お互いのノウハウを教えあう親しい関係にあったのでは?と思われます。

後の延宝四年(1676年)に、伊賀忍者の子孫という藤林保武(ふじばやしやすたけ)が書いた忍者のバイブルとも言うべき『万川集海(ばんせんしゅうかい)(11月4日参照>>)の序文には・・・

「伊賀・甲賀の11人の忍者の裏ワザや秘密アイテム、新たに編み出した忍術の厳選したものを集めて・・・」
と、ある事からも、とても敵対関係にあったとは思えませんよね。

自分たちの里を守るために編み出された忍術ですが、日本全国に小さな国が群雄割拠する時代から、やがて、頭一つ飛び抜ける人物が登場する事によって、彼らの運命は大きく変わるのです。

広大な領地を治めようとする大大名、あるいは天下統一を狙う者にとっては、自分の権力の及ばない独立国家はあってはならないもの・・・彼らの里は、二者択一を迫られる事になります。

独立を守って徹底的に戦うか、傭兵となって配下につくか・・・

戦国大名の天下統一が進むにつれ、先ほどの【天正伊賀の乱】などを経て、やがて彼らは傭兵となってそれぞれの大名に雇われる形となりますが、それでも、伊賀対甲賀といったような敵対の構図にはなりません。

彼らは、惣村から誕生していますから、すでに、統率のとれた団体ですが、厳密には、伊賀なら伊賀の中で、甲賀なら甲賀の中での派閥があり、それぞれの一派が、誰に雇われるかで、伊賀と甲賀が、ともに同じ武将のもとで、働く事もあれば、伊賀同士で敵味方に別れる事もあるわけです。

このようにして、戦国武将の傘下に組み込まれていった彼らですが、その基本の形態というのは、その後も変わる事なく続いていたようです。

それは、先ほど書かせていただいた派遣社員的な形態です。

彼らは、忍者の派閥に属してしますが、雇い主は武将・・・つまり、指揮命令系統は雇い主の武将にあるわけです。

慶長十年(1605年)にこんな事件がありました。

先の服部半蔵正成の死後、3代目服部半蔵を継いだ正就(まさなり)は、伊賀衆200人の支配も受け継ぐのですが、何を思ったか、先ほどの雇用形態を無視して、自宅の修復や、個人的な雑務を、自分の配下の者に命令しはじめたのです。

そこで、彼ら伊賀衆は、「我々は江戸幕府に雇われているのであって、服部家に雇われているのではない」と、老中・本多正純に直訴・・・見事、その訴えが通り、彼らは、正式に幕府直轄になりますが、それに怒った正就が、彼らにストーカー行為をおっぱじめ、さらに、殺害してしまうという事態となり、正就は改易のうえ永久謹慎処分となっています。

伊賀忍者と服部家の関係も、ここでプッツリと切れ、以来、復活する事はなく、こうして、忍者集団という組織は、完全に幕府・大名権力の中に組み込まれていったというワケです。
 .

あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 大阪城に生きた虎が?~大阪の昔話・大坂城の虎 | トップページ | 紅葉の穴場見つけた!~保津峡駅in京都 »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

伊賀対甲賀のお話…真田十勇士に出てくる猿飛佐助が正義の忍者で甲賀流の使い手として、天下太平の為、真田幸村に仕え活躍する、その敵方が狸親父徳川家康に仕える服部半蔵率いる伊賀忍者。山田風太郎の忍法帖の第一作目の作品=徳川家の三代目を竹千代…後の家光にするか、国松…後の駿河大納言忠長にするかで迷った家康が、その命運を家光は伊賀に忠長は甲賀に託して、両派それぞれ十人ずつ忍者を出し、その勝者が三代目を継ぐとした映画SHINOBI-忍の原作。は同じく忍法帖シリーズの忍者月影抄、八代将軍吉宗の紀州時代の素行不良を暴き立てて吉宗失脚を狙う尾張宗春が配下の御土居下組(甲賀)に蜜命を授ける、それを阻止せんと吉宗も配下のお庭番(伊賀)に御土居下組の壊滅を命じ、これに江戸柳生と尾張柳生の戦いが加わり壮絶なバトルが展開される。等々…枚挙にいとまがありませんね。

投稿: マー君 | 2008年12月 2日 (火) 21時50分

マー君さん、コメントありがとうございます。

私は、小説を読んだ事がないので、題名くらいしか知りませんが、いろいろ考えてみるとオモシロイですね。

むか~しやってたテレビアニメの「風のフジ丸」の敵ボスが上杉謙信だったので、今思えば、フジ丸は、武田か北条あたりに雇われているという設定だったんでしょうかね?

アッ!でも、提供がフジサワ薬品だから、主人公の名前がフジ丸なので、意地でもタケダには属したくないかも・・・。

投稿: 茶々 | 2008年12月 3日 (水) 09時51分

斯く言う我が祖先も…伊賀甲賀の忍者の血筋を少なからず引いてるようです。母方の祖父母の先祖は、多賀大社の御師(多賀大社のお札を持って諸国を巡り多賀信仰の普及を計った下級神職)を隠れ蓑にして、六角氏の密偵みたいなコトをしていた言わば甲賀忍者だったなんて聞いてます。対して母方の祖母の祖先は伊賀の土豪として天正伊賀の乱にも織田氏と戦ったなんて伝承があり江戸時代には名張藤堂家の隠密をした伊賀忍者の家系だったって聞いてます。然し祖父母の家は対立するどころか、何代にわたり婚姻を繰り返してるほど縁の深い間柄だったみたいです。祖父母の家みたいに伊賀・甲賀の交流は盛んだったって話は祖父母から聞かされました。

投稿: マー君 | 2008年12月 4日 (木) 22時12分

マー君さん、こんにちは~

そうですか、ご先祖様が・・・

やはり、同じ境遇だと親しくもなりますよね。

投稿: 茶々 | 2008年12月 5日 (金) 09時54分

お爺さんの生家は所謂、忍者屋敷って奴です。曾祖母の法事で学生時代に行ったきりなので今は改装してるかも知れませんけどね。外から見たら平屋だけど中は二階建てになってて、壁の一部が隠し扉になってて、そこを開けると隠し階段になってて屋根裏部屋に逃げられたり、床の間の壁が開けてあって、そこから地下道を通って外に逃げられるようになってました。

投稿: マー君 | 2008年12月 5日 (金) 16時45分

床の間の掛け軸のうしろにある抜け穴・・・風が強い日は、隙間からの風で掛け軸がユラユラとしないのか?が昔から気になってました・・・

投稿: 茶々 | 2008年12月 5日 (金) 18時40分

床の間の抜け穴が直接外に通じてるわけじゃなく、隠し部屋になっててそこから地下道を通って外に出られるようになってるんで、直接風が入ってくることは無いみたいですよ。

投稿: | 2008年12月 5日 (金) 23時27分

アハッ!
さすがの私も、そのまま直接、外に通じてるわきゃないとは思ってますが、意外に、通路って、「どこから風が?」って思うくらい吹き込んできたりするし、地下鉄なんかスゴイ事になってる時があるので、いったい、どうなってるんだろう?と・・・

忍者屋敷は、伊賀も甲賀も経験済みですが、どんでん返しなんかも、けっこうバレバレだったので、実際に、敵にバレずにすんでたのかしら?
それとも、今見られるやつは、見物人がわかりやすいように造ってあるのかも・・・

投稿: 茶々 | 2008年12月 6日 (土) 01時11分

「忍者」にちなんだ話題です。
「忍たま乱太郎」が今夏に実写映画になります。
主演は加藤清史郎君です。
この映画に溝口琢矢君が上級生役で出ます。
映画で「与六・喜平次」コンビが復活!

現在でも時代劇に「忍術指導」の人がいますね。

投稿: えびすこ | 2011年1月11日 (火) 09時15分

えびすこさん、こんにちは~

相変わらず加藤清史郎君は忙しいですね。

投稿: 茶々 | 2011年1月11日 (火) 11時49分

忍者といえば「伊賀」と「甲賀」。
語呂も良いし時代劇ではいっつもこの2つ。
戦国・江戸時代には同等に有名だった根来忍者は
なぜか完全に無視。

うそじゃないよ。江戸城の警備はこの3つの集団
が交代で当たってたんです。いわば忍者御三家。
なんで無視されてんのかね?
これほんと。(古うー)

投稿: 忘れられた忍者御三家の根来忍者 | 2011年1月25日 (火) 13時02分

忘れられた忍者御三家の根来忍者さん、こんにちは~

やはり、本文にある「万川集海」も大きいでしょうね。
なんせ、忍者は記録に残らないので、こういう本でも出してもらわないと、ドラマでも描けません。

結局、武田信玄の「出抜」も、上杉謙信の「軒猿」もどうなったのやら…

投稿: 茶々 | 2011年1月25日 (火) 15時58分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者:

« 大阪城に生きた虎が?~大阪の昔話・大坂城の虎 | トップページ | 紅葉の穴場見つけた!~保津峡駅in京都 »