維新のさきがけ~天狗党の降伏
元治元年(1864年)12月17日、水戸藩の尊皇攘夷派が中心となって結成された天狗党が降伏を決意しました。
・・・と、この天狗党・・・以前、新撰組の芹沢鴨さんのところ(9月18日参照>>)で、チョコッと名前が出た程度で、このブログでは、ほぼ、お初・・・という事で、ちょっと前置きが長くなりますが、今回は、まずは大まかな結成の経緯から書かせていただきます。
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天保年間(1830年~44年)、藩主・徳川斉昭(なりあき)によって改革が推進され、そこで設立された藩校・弘道館(こうどうかん)は、水戸学を学ぶ場所として君臨し、そこから、藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)と戸田忠太夫(ちゅうだゆう)を中心とする水戸尊皇攘夷思想が全国に広がっていきます。
明治維新の思想のベースとなる、この尊皇(王)攘夷・・・そもそもは、日本の主君は将軍ではなく天皇であるという尊皇思想と、外国勢力を排除しようという攘夷思想が結びついたもの・・・つまり、「日本は、天皇という君主が治める神国であるのだから、外国からの干渉を一切受ける必要はない」という物です。
この頃、斉昭は息子・徳川慶喜(よしのぶ)を、御三卿の一つ・一橋家(御三卿については11月10日参照>>)の養子にして、将軍継承の候補者とする事にも成功し、水戸藩は、まさに幕政の中心となりつつありました。
しかし、嘉永六年(1853年)のペリーの来航(6月3日参照>>)によって、日米和親条約が締結されてしまい、その立場は大きく変わります。
攘夷という事は、当然、鎖国を守るという事、なのに条約を結んだという事は、その鎖国政策が崩れるという事・・・それでも水戸の尊皇攘夷派は、幕府に敬意を持ち、アメリカの圧迫に屈し、条約を結んでしまった幕府の姿勢には反対しても、幕府そのものに反発するという事はありませんでした。
ところが、安政五年(1858年)、大老・井伊直弼(なおすけ)は、天皇の許しのないまま日米通商条約に調印し、次期将軍に紀州の徳川慶福(よしとみ・家茂)を推し、将軍継承のライバルだった慶喜の一橋派&尊皇攘夷派を処罰します・・・世に言う安政の大獄(10月7日参照>>)です。
藩主・斉昭は、この安政の大獄で蟄居(ちっきょ・自宅謹慎のキツやつ)の身となってしまい、水戸藩は混乱の嵐・・・そこに、天皇からの「攘夷を推進せよ」との勅諚(ちょくじょう・天皇の命令書)・戌午の密勅が届いた事で水戸藩は・・・
・この命令を受ける
・勅諚を幕府に返す
・勅諚を天皇に返す
の3派に分かれ、更なる混乱となります。
そんな中、水戸藩内で最も過激な尊皇攘夷派で、すでに脱藩していた高橋多一郎らのグループが、桜田門外にて井伊直弼を暗殺(3月3日参照>>)、また別のグループが、高輪の英国公使館を襲撃、さらに、坂下門外にて老中・安藤信正襲撃・・・と次々に事件を起します。
しかし、このいずれの事件も、ベースは水戸学・・・やはり幕府そのものに反発するのではなく、幕府あるいは藩内の改革を願っての過激行動だったのですが、それらの事件に刺激を受けたのが、すでに安政の大地震で亡くなっていた藤田東湖の息子・藤田小四郎・・・彼は、弘治元年(1864年)3月27日、弘道館で学んだ同志たちとともに、筑波にて挙兵します。
これが、天狗党です(3月27日参照>>)。
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やがて、藩内の郷士や農民たちも参加し、徐々に大きくなる天狗党ですが、当然、幕府は関東の諸藩に天狗党の追討命令を出し(4月10日参照>>)、天狗党とは無関係の姿勢をとっていた水戸藩も、保守派の市川三左衛門(さんざえもん)が率いる諸生党軍(しょせいとうぐん)を派遣し、各藩の追討軍とともに、天狗党との争乱を繰り返します(7月9日参照>>)。
さらに、騒動を取り締まるために派遣された松平頼徳(よしのり)のグループ・大発勢(だいはつぜい)が加わる中、以前は、同じ攘夷派でも強行派である天狗党に反対の姿勢であった武田耕雲斎(こううんさい)も参加して、ここに耕雲斎を総大将に新たな天狗党が結成されました(10月25日参照>>)。
しかし、それと前後して、大発勢が幕府軍に破れて降伏・・・この形勢を逆転すべく、天狗党は、11月1日、京都に向けて常陸(茨城県)大子(だいご)を出立するのです(11月1日参照>>)。
それは、現在、京都にいる徳川慶喜に、水戸藩の現状と尊皇攘夷の意志を貫く事を訴えるというもので、「攘夷」「魁(さきがけ)」「日本魂(やまとだましい)」などの旗をひるがえしての行軍でした。
途中の宿場や道筋では、天狗党を支持する者、その勇名に恐れをなしてただ通り過ぎるのを見守る者、あるいは行軍を阻む者との戦闘・・・などなどを繰り返しながら、大子を出発して、ちょうど約1ヶ月後の12月1日、一行は揖斐宿(いびじゅく・岐阜県)に到着しました。
ここから、直で京都に向かえば、5~6日の行程でしたが、目の前の彦根は例の井伊直弼の実家・・・「そこは避けねば・・・」と、彼らは、越前(福井県)を通る北へのルートを取ります。
真冬の越前・・・1m以上の積雪の中、馬をひき、大砲を抱えての決死の峠越えは、たどり着いた秋生村(あきうむら・福井県大野市)さえ、すでに焼き払われていて、出発時は千名ほどいた一行も、ここで800人ほどになってしまうほど過酷な状況でした。
やがて12月9日、今庄(福井県南条)で少し態勢を整えて、その後、木ノ芽峠を越え、12月11日には、新保(福井県敦賀市)に到着します(12月2日参照>>)。
しかし、ここで彼らは、愕然とするのです。
この地を治める金沢藩の軍に
「俺らは、慶喜公に会いに行くのが目的で、金沢藩と戦う気はないので、すんなりと通しておくなはれ~」
と、頼みに行くと・・・
「慶喜公は、天狗党討伐軍の総督として海津(滋賀県マキノ町)まで来ている」と・・・。
頼みの綱の慶喜が、討伐軍の総督・・・
しかも、必死の思いで書いた嘆願書も受け取ってもらえず、そのまま天狗党への総攻撃が決定されてしまうのです。
四面楚歌の状態となってしまった天狗党・・・その日、彼らは最後の軍儀を開きます。
「このまま、最後まで攘夷の姿勢を貫こう!」
と言う者もいる中、耕雲斎の考えは・・・
「慶喜公は主君のようなお方・・・」
いや、むしろ、慶喜のためを思っての一連の行動でしたから、その慶喜に弓を向ける事は到底できません。
耕雲斎の意見を、かの藤田小四郎が支持するに至って、元治元年(1864年)12月17日、天狗党は、この先を戦わず降伏する事を決定します。
12月21日付けで、その降伏状は受理され(12月21日参照>>)、その後、彼らには、簡単な取調べのみで、死罪352名、遠島137名、追放187名、水戸渡し130名、永厳寺預け11名・・・という史上まれにみる重い刑が科せられる事になります(2月4日参照>>)。
実は、最初に天狗党を立ち上げた時、金銭面で彼らを援助したのは、あの桂小五郎・・・そして、かの真冬の迂回をとった時には、あの西郷隆盛がわざわざ中村半次郎(後の桐野利秋)を派遣して、「この先は薩摩藩が守るから、安心して直進してくれ」という助け舟を出しています。
しかし、その時の耕雲斎は、「我々の目的は慶喜公への懇願で、戦闘ではない」として、戦闘回避のために福井のルートを取り、薩摩の支援を断っているのです。
この時、彼ら天狗党が薩摩の支援を受けていたら、この先、彼らは薩摩をともに維新への道を歩いたのかも知れません。
時代は、攘夷真っ只中で、その行動が過激すぎた部分もあったかも知れませんが、天狗党の根底に流れる思想そのものは、まさに維新です。
結成から、わずか9ヶ月・・・彗星のごとく現れ消えた彼らは、その旗印の通り「維新の魁」となって散っていったのかも知れません。
♪咲く梅の 花ははかなく 散るとても
馨(かお)りは君が 袖にうつらん ♪ 武田耕雲斎・辞世
耕雲斎の願った維新の香りは、この四年後に、花となって咲く事になります。
以上、本日は、天狗党の初出という事で、駆け足極まりない「あらすじ」状態になってしまいましたが、それぞれの戦闘や細かな内容は、その日の日付に従って、ご紹介させていただいておりますので、本文中にあります各ページへのリンクでご覧いただければ幸いです。
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コメント
こんにちは。今日は天狗党ですね。故;吉村昭が書いた小説があるそうです(恥ずかしながら読んでいません(;´д`))
かれこれ5年ほど前、私の母が岐阜県の谷汲山にお参りに行ったとき、天狗党がここから北陸を目指した、という山道の入り口まで行ってきたそうです。
吉村さんの本を読んで感動し、わざわざ探してみたらしいです。
それはとても人や馬、ましてや大砲など運んで通れそうなものではなかったと言っていました。
今よりずっと寒かったはずの冬の峠道と、その先に待つ運命と。考えたら切ないですね。
そもそも、彼らが頼りにしていた慶喜は、この先日本をどうしたらよいと考えていたのでしょうか。また、天狗党の人々は慶喜がどのような考えであるかをわかっていたのでしょうか。
それとも、天狗党から慶喜への一方的な「片思い」に過ぎなかったのでしょうか。
投稿: おきよ | 2008年12月17日 (水) 15時08分
おきよさん、コメントありがとうございます。
慶喜との関係を考えると切ないですね・・・
この先も、イロイロ勉強しつつ、彼らの細かな心境に迫っていきたいと思います。
投稿: 茶々 | 2008年12月17日 (水) 18時44分
♪咲く梅の 花ははかなく 散るとても
馨(かお)りは君が 袖にうつらん ♪ 武田耕雲斎・辞世
こういう句を残せる昔の人は凄いですね感心します、それに比べて現代の私らはなんとも情けない.....
投稿: やまもも | 2008年12月17日 (水) 22時01分
やまももさん、コメントありがとうございます。
ほんとに、涙誘われる辞世です。
この時代、攘夷派も佐幕派も、どちらもが明日の日本を思って、己の身を捨てての敵対・・・今の日本に、自分の保身より明日の日本の事を思ってくれる政治家は、いったい何人いるんでしょうかねぇ・・・
投稿: 茶々 | 2008年12月17日 (水) 23時39分
天狗党…為した事績に対して諸人の認知度は低いですね。よほどの歴史通じゃなきゃその名称すら知らないでしょうね。斯く言う僕も今日このブログを見るまで天狗党については殆ど何も知りませんでした。以前に何かの本で天狗党という名前が出てきたのだけ覚えてますが、その本が何の本でどんな内容だったのかナンテ事はスッカリ忘れてしまいました。然し天狗党…事の是非・善悪の判断は別にしましても、かなりの活動を展開してたんですね。それにしては…新選組とか白虎隊に比べ認知度が低いのは何故でしょうね。
投稿: マー君 | 2008年12月18日 (木) 00時40分
マー君さん、こんにちは~
やはり、活動期間が短いからでしょうかね・・・
投稿: 茶々 | 2008年12月18日 (木) 11時54分
確かに活動期間は短いですが、処刑された人数や刑罰の重さを見ても、天狗党の活動が時の為政者達に与えた影響は小さくはないと思うんですがね。そんだけの活動をした天狗党なのに、これまで時代劇なんかで取り上げられた事が無いのも不思議な話です。今回このブログを見て、こんだけの題材なら年末か年始の大型時代劇で二時間から三時間ぐらいのドラマでやったら面白そうだなって思いました。
投稿: マー君 | 2008年12月19日 (金) 02時41分
マー君さん、こんにちは~。
そうですね・・・時代劇では、何年か前の大河ドラマ・ジブガキ隊のモックン主演の徳川慶喜で・・・耕雲斎さんは忘れましたが、小四郎さんを田辺誠一さんが演じておられたのを覚えています。
ただ、その頃は私自身が多忙な頃で、ドラマ自体をチラ見だったので、一年を通しての主要人物として描かれていたのか?ゲスト的扱いだったのか?よく覚えてないのですよ(p_q*)
いつか、主役でお願いしたいですね~
投稿: 茶々 | 2008年12月19日 (金) 08時57分