攘夷の先駆け~高杉晋作の公使館焼き打ち事件
文久二年(1862年)12月12日、高杉晋作ら攘夷派が、品川に建設中のイギリス公使館を焼き打ちしました。
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長州(山口県)に生まれ、吉田松陰を師と仰ぎ、松下村塾でもトップクラスの評価を得ていた高杉晋作でしたが(11月5日参照>>)、その松陰が安政の大獄で処刑され(10月27日参照>>)、深い悲しみとともに、未だ自分が何をなすべきか?を思い悩む毎日でした。
蔓延元年(1860年)1月の22歳の時、山口奉行・井上平左衛門の娘・雅子(政・マサ)と結婚し、まもなく、藩の命令で航海学を習得するために江戸に向かいました。
しかし、あまりに船酔いがひどく、自分自身で、船乗りの素質がないのでは?と考え、航海学をあきらめて、全国各地を遊学する生活を送ります。
そんなこんなの文久二年(1862年)5月、24歳の時に上海の視察を命じられて渡航した晋作は、清国(中国)の現状を目の当たりにして大きなショックを受けます。
アヘン戦争(8月29日参照>>)でイギリスに敗れた清国は、もはや植民地状態となり、国民は欧米列強に屈っする奴隷のような生活を送っていたのです。
「中国がこんな事になってしもたんは、敵を防ぐ策を持ってなかったせいや!日本もはよ、防御策を講じんと、同じような事になってしまう」
もともと、松下村塾時代から攘夷(じょうい・外国を排除しようとする考え)論者だった彼は、ますます激しい攘夷思想となり、2ヶ月間の上海滞在から帰国した後、早速、活動を開始します。
松下村塾でクラスメートだった久坂玄瑞(くさかげんずい)らを誘い、武蔵国金沢(横浜市)で外国公使を襲う計画をたてます。
しかし、これは、計画が事前に藩にバレてしまって断念・・・
そこで、今度は・・・文久二年(1862年)12月12日、久坂玄瑞・赤根武人(赤禰武人=あかねたけと)(1月25日参照>>)・伊藤俊輔(後の博文)・志道聞多(しじぶんた・もんた)ら、同志10余名とともに、当時、品川御殿山に建設中だったイギリス公使館に火をつけたのです。
この時、炎の勢いがも一つだと感じた志道が、辺りの建具を壊しながら、さらに、それらに火をつけて燃やしていたのですが、ふと気づくと、そこにいるのは自分一人・・・
実は、高杉らは、火の勢いなど関係なく、火をつけてすぐに退却しており、彼一人が取り残された状態となっていたのです。
気づいた志道は、慌てて塀をよじ登り、外にあった堀に落ちてドロドロになって逃げ帰ったのだとか・・・
この志道聞多という人は、後に明治の世となって、鹿鳴館(11月28日参照>>)という金食い虫をおっ建てる井上馨(かおる)なのですが、大義の前には罪も罪でなくなり失敗も失敗ではなくなる的な姿勢を、生涯に渡って貫く彼にとっては、この焼き打ちでの一コマも、名誉の一つなのかも知れませんね。
結局、この翌年の文久三年(1863年)に、長州は攘夷を決行し、下関を通過する外国船に大砲を撃ち込むという下関戦争(5月10日参照>>)へと向かう事になるのですから、この高杉らによる公使館焼き打ち事件は、言わば、その先駆けとなる一件という事になるのかも知れません。
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コメント
こんにちは。
井上馨さん、もしかしてあの元就の家老だった志道広良の子孫なんでしょうか。
なんかご先祖様のイメージとギャップがある様な…(゚ー゚;
投稿: おきよ | 2008年12月12日 (金) 13時32分
現代と幕末では、国際情勢も世論も全然違うし、個々人の世界観や社会理念の上でも現代人とは大きな隔たりがあるので、現代人の感覚で歴史的事績を論じるのは問題がありますが、お叱りを受けるのを承知でコメントを寄せるなら…高杉晋作の行為って政治テロと言っても過言じゃないですね。
投稿: | 2008年12月12日 (金) 15時53分
おきよさん、こんばんは~
私も、くわしくは知らないんで、その経緯とかわからないんですが、井上馨さんの井上氏も毛利の家臣、志道氏も毛利の家臣で、馨さんは、一時、志道氏の養子となって志道聞多と名乗っていたようです。
なので、血のつながりはないかも知れませんが、戸籍上は子孫となるのかも・・・でも、また、井上に戻ってるので、養子縁組を解消したのかも知れません・・・頼りなくてスミマセン(*_ _)また調べてみます。
投稿: 茶々 | 2008年12月12日 (金) 17時32分
コメントありがとうございます。
おっしゃる通り・・・いえ、むしろ完全なテロ行為だと思っていますよ。
文中にも書いたように、本人たちにしてみれば「大義の前には罪も罪でなくなり失敗も失敗ではなくなる」的な考えでしょうが、この焼き打ちの時点では、維新も成ってないわけですし、このまま江戸時代が続いていたなら、彼らはただのテロ集団・・・。
西郷隆盛も、幕末の江戸では、配下の桐野や相楽に、散々テロ行為を指示してますが、やっぱ勝てば官軍なので、後の世では、彼らが正義となってしまうんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2008年12月12日 (金) 17時45分
スンマセン…先のコメント名前を書くの忘れてました。然し時代が違うとは言え伊藤博文やら井上馨やらは後に政府の要人になってる訳ですから、勝てば官軍て言葉もここまでくれば大したモンですね。
投稿: マー君 | 2008年12月12日 (金) 21時37分
先のコメントはマー君さんでしたか・・
「勝てば官軍」という言葉は、明治維新の時にできたそうですから、当時の人々も、同じように思ってたんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2008年12月12日 (金) 22時09分
わたしの夫の母方の高祖父は奇兵隊士で高杉晋作の眠る東行庵にお墓があります。また夫の祖母が先代(3代目だったかな)の庵主様と幼馴染だった縁で機会ある毎にお参りしに行っています。今週法事で夫の実家に帰省しますが、おそらく祖母のところにも挨拶にいくと思うのでまた東行庵に行ってきます。
大学の理系学部を出たくせに小学生のころから歴史大好きですが、夫と結婚して幕末の歴史により親近感を持ちました。
今は歴史になどとんと興味のないうちのチビスケ(小学2年生)が5年生になって社会科で歴史を学んだら、歴史談義(よもやまばなし)ができるようになりたい…私の夢です。
投稿: はむす | 2008年12月16日 (火) 12時14分
はむすさん、コメントありがとうございます。
いいですね~歴史談義・・・
ウチはお笑い談義には、参加してくれますが、歴史談義にはとんと振り向いてくれません。
もっぱら、独り言で対応しています
(ノ_≦。)
投稿: 茶々 | 2008年12月16日 (火) 15時22分