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2008年12月10日 (水)

いよいよ小田原攻め開始~その軍儀の内容は?

 

天正十七年(1589年)12月10日、京都聚楽第において、北条氏の小田原城攻めの軍儀が行われました。

・・・・・・・・・

四国・九州を平定し、関白の座の手に入れた豊臣秀吉にとって、残るは関東と東北・・・東北では、米沢城伊達政宗山形城最上義光(よしあき)が2大勢力であったわけですが、関東は何と言っても北条早雲以来100年に渡って君臨してきた北条氏・・・。

当時の北条は、家督こそ、息子の北条氏直が継いでいたものの、実権は未だ父の氏政が握っており、しかも、秀吉にはやや反抗的な態度をとり続けていました

その強気の奥底には、未だ秀吉の勢力圏外の東北が背後に控えている事と、前方の東海地方に勢力を持つ徳川家康の娘を嫁に取り、同盟を結んでいた事があったでしょう。

氏政にしてみれば、「北条と伊達と徳川が協力すれば、秀吉に対抗できる」とのもくろみがあったに違いありません。

しかし、ここに来て、あの小牧長久手の戦いの結果、事態は大きく変化しました。

家康は、秀吉の妹・旭姫と結婚して同盟が結ばれ、秀吉に従う決意を固め(10月27日参照>>)、このところは、秀吉の意向を受けて、北条を説得する立場となっていました。

再三再四、氏政・氏直親子に、上洛して秀吉に挨拶するように働きかけ、(挨拶に)来にゃーなら、娘を離縁して返してちょ」とまで言っていて、さすがの氏政も、韮山(にらやま)城主で弟の氏規(うじのり)を上洛させたりしますが、やはり、本人がやって来る事はありませんでした。

そんな中、起きたのが例の北条による名胡桃城(なぐるみじょう)奪取事件(10月23日参照>>)です。

秀吉は、すでに2年前の天正十五年(1587年)12月3日付けで『関東・奥両国惣無事令』という、関東と東北の大名同士の私的な争いを禁じる法律を関白の名のもとに出していますから、これは、明らかに違反行為・・・。

この北条の違反行為は、もともと、「自分の傘下に入る気がないのならぶっ潰したる」と思っていた秀吉には、好都合・・・「待ってました!」と言わんばかりに、事件の1ヶ月後の天正十七年(1589年)11月24日付けで、5か条からなる書状を氏政・氏直親子に叩きつけ、小田原攻めの宣戦布告をしたのです(11月24日参照>>)

かくして、天正十七年(1589年)12月10日、秀吉は、徳川家康前田利家上杉景勝らといった面々を聚楽第に呼び、小田原攻めの作戦会議を開くのです。

そこで決められた内容は・・・

  1. 長束正家(なつかまさいえ)兵糧奉行とし、黄金2万枚で伊勢・尾張・三河・遠江・駿河の米を買占め、20万石を収集する。
  2. 東海道の各駅を整備し、そこに軍用の伝馬(でんま)50頭を用意する。
  3. 出陣は天正十八年2月1日から3月1日までとする。
  4. 伊賀より東の東海道沿線諸国+近江・美濃の兵で東海道を攻め上る・・・先鋒は徳川家康隊・3万、大将は豊臣秀吉本隊・14万。
  5. 越後+信濃の兵で東山道から上野・武蔵に南下・・・先鋒は真田昌幸隊、大将は前田利家と上杉景勝隊・合計3万5千。
  6. 中国+四国&紀伊+伊勢の水軍・合計1万は東海道沿岸を航行して東へ行き、小田原を海から囲む。

以上のような基本方針のもとに、翌日から、早速、準備が開始されますが、この他にも、沿線の各城の守備隊を含め、小田原攻めは総勢22万の大軍となりました。

この時、名だたる大大名が居並ぶ中で、一番隅っこのほうに座っていた独立大名になりたての真田昌幸に、「中山道の先手はお前に任せる」と秀吉が言って、前田や上杉の先鋒にさせたのは、やはり、この戦いのキッカケ=名胡桃城を奪われたから・・・その地の利を生かして一発ヤッタレ!という事です。

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

東海道を行く本隊の先鋒に家康を据えたのは、もちろん、家康に北条との決別をはっきりとつけさせるため・・・その忠誠心を確かめるためです。

後の、関ヶ原の合戦の時に、家康が、自分は江戸城に居ながら、豊臣恩顧の武将たちを先に西へと向かわせたのとまったく同じ・・・(8月11日参照>>)

さすがに、家康も、この事は重々承知で、秀吉への忠誠心をより表すべく、このタイミングで三男の長丸(ちょうまる)を、人質として秀吉のもとに差し出しています。

秀吉も、「未だ北条に未練があるのでは?」と気になっていた家康のこの行為を大いに喜んで、長丸を聚楽第にて元服させ、自らの一字を与えた秀忠と名乗らせます。

そう、あの2代将軍となる秀忠です。

かくして、先鋒の家康隊のさらに先発隊として本多忠勝井伊直政榊原康政らが2月7日に出陣・・・秀吉自身も、3月1日に京都を発ち、あの小田原攻めが開始される事になるのですが、そのお話は、すでに書かせていただいておりますので、続きは2008年3月29日のページでどうぞ>>
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

さすが…一杯の湯漬けを食べるのにも、途中で湯を足さないと食べきれない、おバカ大将の氏政くん。名君の誉れ高い父上!氏康さんが見抜いた通りになりましたね。氏康さん曰く…自分の食べる湯漬けにどれだけの湯を掛ければ食べきれるかという簡単な事も分からないようでは、敵方との戦力差を見極めたり、敵将の心を読んだり、配下の将士の心情を汲むなんて出来ようもない!。ホンマにそうでんなぁ。氏政くん、きっとあの世に行ってから氏康お父様にこっぴどく叱られたでしょうな。

投稿: マー君 | 2008年12月10日 (水) 12時09分

あの、大変愚かな疑問なんですが、
>出陣は天正十八年2月1日から3月1日までとする
というのは、
「小田原北条氏攻め参加者募集。募集期間は2月1日~3月1日まで。締切厳守。」
ということでしょうか。
関白に恭順を示すための猶予期間がこの1ヶ月ということならば、この軍議のあと参加表明してくる大名の為に全国にお触れが出たと思うんですが、当然北条にも知れてますよね。おそらくはその後のみんなの参加状況も。
そうでなくとも、東以外の三方向から完全に取り囲まれてるのがわかってるのに、それでも降伏しない理由って、一体何だったんでしょうか。
ただ相手の勢力を読み誤ったにしては、失敗が大きすぎると思うんですけど…

投稿: おきよ | 2008年12月10日 (水) 12時13分

こんにちは。

>出陣は天正十八年2月1日から3月1日までとする。
これは普通に出陣の実行期間を示しているんですよね?
遠方から出陣する大名も多かったし、城攻めに利用する付城を構築するのにも時間をかけたのでしょうし。

さて、私は北条氏の敗因は、氏政の能力というより、秀吉の運が良すぎたからだと思います。
柴田勝家にしても、運さえあればそう簡単に倒れることはなかっただろうと思うんです。
また、幕府滅亡から時間がたっていて、足利義昭が包囲網をつくるほどの力はもうなかったのでしょうけど、もし柴田、徳川、北条・・・と連携して包囲網が形成されていたら、どうなっていたことか。

そんな感じで、敗れた側の過小評価を気にしてしまいます。

投稿: KAKI | 2008年12月10日 (水) 19時42分

マー君さん、こんばんは~

湯漬けのエピソードは、このブログの「戦国時代の食べ物事情」のページでもご紹介させていただきましたが、やはり、氏康さんとしては、息子が心配だったでしょうね。

私、個人的には氏政さんは、愚将というほど悪くはない、なかなかの武将だと思っていますが、やっぱり、最後は見誤った感が拭えませんね。

投稿: 茶々 | 2008年12月10日 (水) 22時42分

おきよさん、コメントありがとうございます。

>小田原北条氏攻め参加者募集・・・

すでに傘下に入っている武将はすぐに準備にかかれという事で、東北の武将に関しては、やはりそれまでに意思表示をしろという事だと思います。

以前、「伊達政宗・毒殺未遂」のところで書かせていただいたんですが、政宗は4月6日に出陣を予定していましたが、その時点で大幅に遅れている事を本人も意識していますし、その前の、参戦するかしないかの伊達家内での会議の時点で、「すでに最上義光が出陣しているのにどうするんだ」みたいな話になってたようですので、やはり、秀吉に打診されたら、とるものもとりあえず出陣の意志を示すという事ではなかったのかな?と思ってますが・・・

北条が、それでも降伏しなかったのは、やはり小田原城の鉄壁の守りに自信があったからではないでしょうか?

これも、「小田原城包囲」のページで書かせていただいたのですが、『北条五代記』には、けっこう最初のうちは余裕の籠城だった様子が書かれています。

小田原は、完全な城郭都市でしたから、周囲を囲まれても、何ヶ月もの間、一般市民も含め、普通に生活できるように設計されていたようなので、そのうち、敵のほうの兵糧がなくなってあきらめると考えていたんじゃないでしょうか?

あせり始めたのは、籠城も後半になって、あの小田原評定が始まってからではないか?と思っています。

投稿: 茶々 | 2008年12月10日 (水) 23時10分

KAKIさん、こんばんは~

そうですね・・・
私も、ひょっとして、家康が秀吉にはつかずに北条についていたら・・・そうなれば、氏政が考えていたように、政宗と家康と北条の連合軍でなら、何とか秀吉に対抗できたかも・・・という気がしないでもありません。

『関屋政春覚書』には、「伊達政宗が小田原に参陣して、秀吉に謁見した時に、秀吉をその場で討つための小刀を持っていた」事が書かれてします。
しかし、「小田原城を包囲している秀吉の軍勢を目の当たりにして、熱湯を浴びせられたような冷や汗をかき、刀を捨てた」とありますので、やはり、実際に、その状況になってしまわないとわからない・・・というような事も、多々あったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2008年12月10日 (水) 23時22分

早速のお答えありがとうございました。
他の記事も読ませていただき、私が思った以上に当時の状況は、秀吉絶対有利とみんなが思っていたわけでもなかったのかと思いました。
もしも徳川が密かに北条を支援していたら、そしてあわよくば、奥州のみならず遠く九州辺りで反旗を翻されていたら、本当に違う歴史が展開したかもしれないんですね。想像すると楽しいです。
でも、秀吉が勝って天下を取ったことによってより早く平和な時期をもたらした、と考えれば、事実のままがいいかもしれませんね。

投稿: おきよ | 2008年12月10日 (水) 23時53分

開戦してしまった以上、北条氏には滅亡の運命しか待ってなかったんですかね。氏政さんがもっと早くに…秀吉さん、ごめんなさい。ワシゃ関八州を押さえとるっちゅうんで、ちぃとばかしエエ気になって、秀吉さんに逆らっちゃって開戦はしちゃいました。ほやけど秀吉さんがこんなに強いって知りませんでしたぁ、土下座せえっちゅうなら諸公の前でも何処でも土下座しますし、ワシの首が望みなら切腹でも磔でも何でもしますから、どないぞ家名だけは存続できるようにしてやって下せぇ。ちゅうて早々に降伏して恭順の意を示せば、もう少し良い条件で大名家としての格式を保ったままでの家名存続が出来たように思えて仕方ありません。そこら辺りの判断力というか決断力の欠如が名君の誉れ高い氏康さんの息子らしくない為、暗愚な雰囲気が感じられます。

投稿: マー君 | 2008年12月11日 (木) 13時31分

おきよさん、ふたたびこんばんは~です。

やはり、毛利や島津は、傘下に入ったばかりでしたからね~。

秀吉が先鋒を家康に言いつけたのも、少しは疑いがあるわけで、長宗我部元親が息子の死で、ヤル気なくしてるぶん、四国はいいとしても毛利や島津はもっとアブナイですからね~

投稿: 茶々 | 2008年12月11日 (木) 15時51分

マー君さん、こんばんは~

私たちは、すでに結果がわかっているので、「何とかならんかったんかい」と思ってしまいますが、北条側にしたら、むしろ、毛利も島津も徳川も・・・果ては伊達まで、「何で傘下にはいっちゃったの?」てな感じで、理解に苦しむ出来事だったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2008年12月11日 (木) 15時54分

確かに我々は後から…色々な解釈して歴史を見ることが出来ますから、何とでも言えますね。然し当事者たる武将達には彼らなりの政治信条に基づき他国の情勢を見つつ開戦に至る訳でしょうから読みが外れる場合も多々有ったことでしょう。ただ、氏政くんと言ったら氏康さんが残した湯漬けのエピソードから暗愚なイメージが拭い去れないモンで、どうしても辛辣な評価を下してしまいます。

投稿: マー君 | 2008年12月12日 (金) 02時27分

マー君さん、こんにちは~

氏直さんが、ジッチャン似のなかなかデキる武将だったという噂も残ってますので、家督を譲った時点で、早々と完全引退していたら、また、違った歴史のなってたかも知れませんね~

イロイロ想像してしまいます~

投稿: 茶々 | 2008年12月12日 (金) 09時32分

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