阿波の古ダヌキ~蜂須賀家政
永禄元年(1558年)12月30日、智略に長けた戦国武将・蜂須賀家政が誕生しています。
・・・・・・・・・・・
蜂須賀(はちすか)・・・という名字で、お気づきかと思いますが、本日の主役・蜂須賀家政さんは、蜂須賀党という野武士軍団を統率して、豊臣秀吉の天下統一に一役買った、あの蜂須賀小六(正勝)の長男です。
永禄元年(1558年)12月30日、父・小六と、宮後村八幡社(愛知県江南市)の神官の家系であった母・まつとの間に生まれ、幼い頃は、母の縁から本誓院(ほんぜいん・江南市)に預けられ、手習いなどの勉学に励みました。
やがて、父とともに秀吉に仕え、中国の毛利攻めや山崎の合戦にも参戦・・・特に、天正十三年(1585年)の四国征伐(7月25日参照>>)では、宇喜多秀家らとともに屋島から讃岐方面の攻撃を担当し、木津城・一宮城・脇城を攻めて武功をあげました。
その恩賞として蜂須賀家に与えられた阿波(徳島県)18万石・・・父の小六が、大名の座を固辞し、秀吉の側近として生きる事を望んだため、父に与えられるはずの、その18万石を譲り受けて、息子・家政が当主となり、徳島城を築城・・・これは、後々の阿波藩の基礎を築く事になります。
翌年の天正十四年(1586年)に父が亡くなった後も、九州征伐、そして、朝鮮出兵と大活躍し、ここまで、どっぷりと秀吉の忠臣として生きてきた家政でしたが、その秀吉が亡くなった後の、例の関ヶ原の合戦で・・・さぁ、困った!
なんせ、家政の息子・至鎮(よししげ)の嫁さんは、あの徳川家康の養女・・・しかも、その息子は、その時、家康とともに上杉討伐軍として出陣しています。
・・・かと言って、今までの蜂須賀家の経緯から考えたなら、当然、恩義ある豊臣家を裏切る事もできません。
しかし、家政には、すでに、この後の徳川の世が見えていたようで、ここから、その智略の達人の本領発揮!
後に、あの伊達政宗から、「阿波の古狸(ふるだぬき)」なるニックネームをいただく事になる、一連の行動のスタートです。
まず、自分は西軍(豊臣)につき、豊臣家への義理を果たします。
そして、息子・至鎮は、そのまま東軍(徳川)に残り、これで、ひとます、西軍・東軍、どちらが勝っても蜂須賀家が生き残れる状態に・・・。
さらに、戦闘が始まると、自分は病気と称して大坂城にとどまったまま、家老を代理の大将にして合戦の現場に向かわせたのです。
・・・で、結局、その関ヶ原の合戦は、ご存知のように東軍の勝利となるのですが、その後、帰国した家老を、即日、蟄居(ちっきょ・謹慎の重いヤツ)にして、最終的に自刃に追い込みます。
そうです。
後々、家康に、「西軍に味方をしたのでは?」と責められた時、
「あれは、家臣が勝手にやった事」・・・
しかも、すでに、その罪を問い詰めて、切腹という処分を下し、解決済みだと・・・
さらに、とどめの一発として、すぐさま剃髪し、蓬庵と号して隠居・・・即座に息子・至鎮に家督を譲ったのです。
結果、蜂須賀家は、何のお咎めもなしで、阿波の所領は安堵となりました。
卑怯と言えば卑怯なやり方ですが、世は戦国・・・おかげで蜂須賀家は、代々生き残り、無事に明治維新を迎えるわけですから・・・
良くも悪くも、さすが・・・イヨッ!古狸・・・
.
「 戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 伊達政宗の大崎攻め~窪田の激戦IN郡山合戦(2024.07.04)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
- 本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防(2024.04.03)
コメント
蜂須賀家が所領安堵されたのはひとえに至鎮さんの功績が大きいと…何かで見ましたよ。その本では至鎮さんは、家康の養女を嫁にしてたからってだけじゃなく、時代を読み取る能力に長けていたって言われてます。関ケ原合戦の折も消極的な家政さんに成り代わり、即座に東軍に属すると旗色を鮮明にし、家康公に感心されました。また大阪の陣が勃発すると大阪方からの密書を受けて大阪城に入ろうとした家政さんを説得し密書を家康公に提出させるに至りました。このように見ると、強ち家政さんが古狸って説は少々ウガッタ見方のような気がします。まぁ、歴史の見方は一方からだけじゃ分かりませんからね。家政さん寄りの意見もあれば至鎮さんを讃える意見ありで、いったいどの意見が本当なのかは当事者しか知り得ませんね。
投稿: | 2008年12月30日 (火) 21時06分
コメントありがとうございます。
本日は「家政さんの誕生日」という事で、家政さんを持ちあげてみました。
投稿: 茶々 | 2008年12月30日 (火) 23時10分
蜂須賀小六は「山賊の親分」だと一般的に思われますが、小領主(今で言えば自治会長)であったんですね。家政も大名になってから「山賊のせがれ」と、陰口を言われる「風評被害」を受けたかもしれません。明治時代にも末裔が誤解されています。
大河ドラマでは蜂須賀小六をよくプロレスラーが演じていますね。次は誰がやるかな?
投稿: えびすこ | 2010年5月15日 (土) 09時07分
えびすこさん、こんばんは~
確かに、イメージ的には、小六さんは巨漢な感じがしますね~
投稿: 茶々 | 2010年5月16日 (日) 01時39分
蜂須賀家政は、父親の蜂須賀小六(正勝ともいう)と比較すると、知名度が低いのが残念な気がします。しかし、蜂須賀家を長く存続させたという点では、大いに賞賛して良いと思います。おそらく、家政は、真田昌幸や黒田官兵衛(孝高ともいう)のように、策略家としての一面があった武将だったのではないでしょうか。あと、機会があれば、小六についての記事を期待したいですね。
投稿: トト | 2016年2月11日 (木) 12時42分
トトさん、こんばんは~
関ヶ原の「どっちか生き残り作戦」は武将の智略の見せどころですね。
そう言えば、小六さんは、まだ書いて無いですね~
投稿: 茶々 | 2016年2月12日 (金) 01時09分
徳島藩上級藩士の子孫が言うので偏りがあるかもしれませんが、小六こと正勝が辞退したので家政が国主になりましたが、秀吉の死去後は大変でした。家政は豊臣と徳川の両方に関係があるので困ってこれは徳島の郷土史の立場ですが、領国を返上しました。そして出家して高野山に入りました。しかしながら息子の至鎮に東軍につかせました。と言って本体の蜂須賀家は大阪にいましたがでも別に西軍についてもいないのです。それが結果的に領国安堵になった形になっていますが、でも至鎮は初代藩主です。つまり家政は一旦領土を返上しているのです。一時的にはですが・・・まあそれも西軍についたと見られたらそう思われても仕方がないですが・・・
ところで家政は出家しても実権を握っていて、実は大坂の陣の時には秀頼を救いに行こうとして家臣から猛反対されています。
後西軍だったと思われる感じなのも隣の長曾我部が西軍だったので表立って東軍にならなかったと思います。徳島から高知に行くのは大変ですが、反対は楽なのです。まあということもあると思います。
家政は先祖の主君なのでちょっと書きました。
ところで私の親戚には最上騒動で取りつぶされた最上の親戚が徳島に移り住み、私の先祖同様に上級藩士になっています。阿波は昔の公家、武家の子孫が移り住んでいます。阿波公方もいたり、家政も困った祖谷には南朝の子孫もいます。実はお家騒動になりかけた事件もあったり大変だったのです。まあそういう複雑なところがありましてあまりはっきり言わないのもそういうところです。
投稿: non | 2017年11月24日 (金) 17時40分
nonさん、こんばんは~
そうですか…
イロイロあるのですね~
投稿: 茶々 | 2017年11月24日 (金) 17時58分