「蒙古襲来絵詞」に隠された元寇のその後~竹崎季長の事情
弘安五年(1282年)12月8日、鎌倉幕府第8代執権の北条時宗が、元寇で戦死した両国の将兵たちを弔うため、鎌倉に円覚寺を建立しました。
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文永十一年(1274年)の文永の役(10月19日参照>>)と弘安四年(1281年)の弘安の役(6月6日参照>>)・・・
元の皇帝・フビライの2度に渡る蒙古襲来=元寇に、まるで合わせたかのように、文永五年(1268年)に18歳で第8代・鎌倉幕府執権となった北条時宗は、弘安七年(1284年)34歳の若さでこの世を去るという、まさに元寇のために生きたような生涯でした。
南宋の無学祖元(むがくそげん)を師と仰ぎ、仏の道に帰依していた時宗らしく、弘安五年(1282年)12月8日に、元寇の戦死者のために建立した円覚寺には、敵味方関係なく、両方の将兵が弔われていると言います。
しかし、この元寇は、日本軍が勝利したとは言え、結果的に、鎌倉幕府の屋台骨を揺るがす事になってしまいました。
2度目の蒙古襲来の後、鎌倉幕府は3度目の襲来に備えて、重用場所には北条家・安達家(時宗の母の実家)の者を配置し、御家人たちを動員して、九州の防備を強化します。
事実、一方のフビライも、3度目の遠征のための木材を伐採したり、遠征準備担当部署を立ち上げたりしていますから、まだまだヤル気満々だったようです。
ただ、当時の元の敵は日本だけでなく、また、内乱も抱えていたため、結局、何度かの使者の派遣を試みるも、遠征の実現には至らなかったようです。
しかし、その後の蒙古襲来がなくとも、日本には、大きな負の遺産が残されました。
それは、合戦に参加した多くの御家人が、戦いに勝利したにも関わらず、外国との防衛戦争であったために、普通なら敵から得るはずの領地も、賠償金も存在しなかったために、幕府からの恩賞に預かる事ができなかったのです。
「いざ!鎌倉」の言葉に現されるように、幕府と御家人の主従関係は、御恩奉公=恩賞があってこそ奉仕(参戦)するという基盤があって成り立っているものなのです。
まして、源氏の直系が絶え、北条氏が実権を握ってからは、おおむね平和に治まっていた鎌倉時代ですから、当時の御家人の中には、「無足の御家人」と呼ばれる、ほぼ無収入の御家人も徐々に増えてきていて、下級の武士たちの中には、日々の食事にも困るほどの生活をしていた者も多くいたのです。
そんな武士たちにとって、合戦は、収入を得る最大のチャンスとなるわけですが、上記の通り、この元寇に関しては期待はずれ・・・。
しかし、元が攻めてきた当初は、そんな幕府の事情はわかりませんから、貧しい者ほど、命を賭けて最前線で戦ったという事実があり、戦い終わってから「何も出ません」では、納得がいかない者が出るのも当然です。
ただ、多くの武士は、不満を抱きながらも、ガマンするしかなかったのですが、中には、何とか恩賞に預かろうと直訴した武将もいたのです。
無足の御家人の一人・竹崎季長(すえなが)・・・。
彼は、貧乏生活を脱却しようと、はりきって合戦に参加・・・主従合わせて、たった5人の出陣でしたが、常に最前線に立ち、元軍めがけて最初に突進し、軍功記録にも、一番に名前を記された人物です。
しかし、弘安の役から半年たっても、何の音沙汰も無い・・・
しびれを切らした彼は、毎日使っている日用品までも売り払い、何とか鎌倉までの旅費を捻出して、一族の反対を押し切って、幕府に直訴するのです。
鎌倉で2ヶ月・・・やっとこさ、お偉いさんに面会が叶うも、なかなか、彼の主張を聞き入れてはくれません。
とうとう彼は・・・
「恩賞が貰えないなら、もう、国へは帰れません!どうか、この首を取ってください!」
と、元との戦いより、はるかに命がけの交渉・・・
一か八かの賭けに成功し、彼は、わずかばかりの領地と、馬と、具足を手に入れる事ができました・・・まさに、粘り勝ち!
この時、彼が、「合戦で、俺は、こんなに頑張ったんです!」と主張するために、書き残したのが、あの有名な『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』・・・教科書にも載ってるアレです。
教科書には、よく、この↑部分が載ってますが、もちろん、これは一部分・・・絵巻物ですから、当然、この絵の続きがその横にも広がっているわけです。
・・・で、見ていただければわかる通り、右側に鎌倉武士、左側に、その武士を弓で狙う強そうな元軍・・・その左に・・・って、これは、明らかに、元軍が逃げてますねぇ・・・
もう、ご存知の方も多いかも知れませんが、実は、この弓を射る三人の元軍は、後世に付け足された絵なのです。
そうです。
この絵巻物は、竹崎季長がいかに活躍したかを描いた絵巻物で、本当は、元の将兵が季長を恐れて逃げているところを描いた絵なんです。
もちろん、右の頑張ってる武将が季長さんですよ。
よく見ると、墨の色も全然違いますよね。
考えたら、自分の強いとこをアピールする絵に、強そうな敵を書くわきゃありません。
この『蒙古襲来絵詞』は、元寇の記録でもありますが、幕府に訴えかける貧困武将の記録でもあるんですね~。
結局、その後も、この御家人たちの不満が解消される事はなく、やがて、朝廷&幕府への不信感は高まり、弘安の役から52年後・・・鎌倉幕府は終焉を迎える事になるのです(5月22日参照>>)。
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コメント
鎌倉時代の御家人が参加した戦いについて今調べてるんで、そのことにふれてくださるとありがたいです。。。
あ、ワガママ言ってすいません。。。
投稿: 珠理奈 | 2011年2月 8日 (火) 21時50分
珠理奈さん、こんばんは~
そうですね~鎌倉時代の合戦は、頼朝の死後に起こった幕府内の覇権争いについてはいくつか書いていますが、あとは、承久の乱と、この蒙古襲来と、最後の滅亡のあたりしか書いてませんね~
ただ、鎌倉時代は、その派閥争いの終盤に北条義時が執権となり、その義時が承久の乱を治め、第3代執権・泰時が御成敗式目を定めてからは、外国勢力の蒙古襲来以外は、国内での大きな合戦は、幕府滅亡の時まで、あまりなかったように思います。
大きな戦いがなかったぶん、道元の曹洞宗や親鸞の浄土真宗、日蓮の法華宗などの仏教や、平家物語、小倉百人一首、あと金沢文庫など、文化的&思想的に発展した時代ではないかと思います。
もちろん、細かな争いはいつの時代でもありますので、調べればたくさん出て来るとは思いますが…
私も、まだまだ勉強中です。
これからもおりに触れてご紹介していきたいと思います。
珠理奈さんも、調べ物、頑張ってくださいね。
投稿: 茶々 | 2011年2月 8日 (火) 23時23分