斉藤道三を有名にした土岐頼芸~国盗られ物語
天正十年(1582年)12月4日、元・美濃国の守護で、流浪の身となっていた土岐頼芸が享年・81歳でこの世を去りました。
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清和源氏の流れを汲む由緒正しき一族が、美濃(岐阜県)という地に移り住み、土岐(とき)氏を名乗り始めたのは平安末期・・・。
やがて足利尊氏が征夷大将軍となった頃に、室町幕府成立に尽力した功績から、土岐頼貞(ときよりさだ)が、美濃守護に任じられます。
以来、土岐一族で守護や守護代を務め、尾張(愛知県西部)や伊勢(三重県)にまでその勢力を伸ばしていた土岐氏でしたが、第3代の土岐頼康(ときよりやす)の死後に起こった内部分裂によって、国人あがりの斉藤氏に守護代の座を譲ってしまいます。
それでも、一応、まだ守護の座だけは保持していた土岐氏でしたが、第8代の土岐成頼(なりより)が、嫡男の政房(まさふさ)ではなく、弟の元頼(もとより)に家督を譲ろうとした事から後継者争いが生じます。
結局は、政房が後を継いで、第9代守護となるのですが、そのゴタゴタの隙間を習って、守護代・斉藤氏の力は、ますます土岐氏に迫ります。
そんな家督争いの直後の文亀元年(1501年)に、その政房の次男として生まれたのが、本日の主役・土岐頼芸(よりなり)さんです。
ちょうどその頃、隣国・近江(滋賀県)の六角氏との合戦で、守護代を務めていた斉藤利国をはじめとする斉藤氏の中心を荷っていた人々が、そろって討死した事から、斉藤氏の勢力が衰えはじめ、それに代わって勢力を拡大してきたのが、その斉藤氏の重臣だった長井長弘・・・。
そんな時に、よせばいいのに、その政房が、嫡男の頼武(よりたけ)ではなく、弟の頼芸に家督を譲ろうとした事から、またまた内紛へと発展するのですが、ここで、頼武に味方したのが斉藤利良(としなが)、頼芸に味方したのが長井長弘です。
永正十四年(1517年)の12月・・・一旦は戦いに勝利し、第13代守護の座についた頼武でしたが、大永五年(1525年)、長弘に即された頼芸がクーデターを決行!
5年後の享禄三年(1530年)には、兄・頼武と守護代・利良を越前(福井県)へと追放し、事実上の守護となります。
この時、長弘とともに、頼芸にクーデターを勧めたのが、一介の油商人から、長弘の家臣となっていた長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)・・・あの斉藤道三の父です。
以前、書かせていただいたように、あの下克上のお手本として名高い、斉藤道三の国盗り物語は、実は、ここまでは、お父さん・新左衛門尉のお話・・・(1月13日参照>>)というのが、今のところ定説です。
やがて、長弘と新左衛門尉が相次いで急死すると(長弘に関しては道三の暗殺の噂もアリ)、もはや、頼芸が頼れる人物は、ただ一人・・・そう、当時、長井新九郎規秀(のりひで)と名乗っていた、道三その人です。
もちろん道三の上位には、長弘の後を継いだ息子・長井景弘(かげひろ)という人がいたのですが、その名前は、徐々に美濃の公式文書から消えていき、いつの間にか、公式文書には道三の名前だけが記されるように・・・あの『信長公記』には、「情けなく主の頸(くび)を切り、長井新九郎と名乗る」とある事から、彼の政界からのフェードアウトは、道三が殺害した可能性が高いと言われています。
天文五年(1536年)に勅許が降り、晴れて正式に第14代・美濃守護となった頼芸でしたが、もはや、先の斉藤利良・長井長弘らの時代から、事実上、守護代に実権を握られてしまっている名ばかりの守護ですから、政務はすべて道三にまかせっきりで、頼芸自身は、大好きなお酒を片手に、趣味の書画に没頭する毎日を送ります。
この頃になって、いつの間にか長井から斉藤に改名して、斉藤利政と名乗りはじめた道三に、懸念を抱く別の家臣が頼芸に注意をうながす場面もあったようですが、もはや反発する気力もゼロ・・・。
その間に道三は、せっせと旧臣たちを、自分の味方へと引き込み、ますます国政の中心人物となっていきます。
やがて、天文十一年(1542年)5月1日・・・とうとう頼芸は、道三によって尾張に追放されてしまうのです。
やっと、事態の重大さに気づいた頼芸でしたが、時すでに遅し・・・奥さんの実家である六角氏を頼って、ちょっとばかし反撃をしますが、結局は、諸国を放浪するハメに・・・。
常陸(茨城県)の土岐氏を継いでいた弟の土岐治頼(はるより)を頼って、そこに身を寄せた時は、土岐氏の系図と家宝を持参・・・もはや、「本流は滅亡」と、ご本人自らが認める形となってしまいました。
さらに、やはり分家の上総(千葉県中部)の土岐氏を頼ったり、甲斐(山梨県)の武田を頼ったり・・・流浪の生活を続けるうち、やがて失明してしまった頼芸・・・。
そして、天正十年(1582年)・・・昔、家臣として頼芸に仕えていた稲葉一鉄の声かけによって、何とか30年ぶりに美濃で暮らす事ができるようになりました。
しかし、それでホッとしてしまったのか・・・その年の12月4日、頼芸は81歳の生涯を閉じたのです。
思えば、
一介の家臣の家臣だった道三に美濃を追われ・・・
その道三は息子・義龍に・・・(10月22日参照>>)
その美濃は織田信長に・・・
その信長は、この半年前の6月に家臣の明智光秀に討たれました。
皮肉にも、そんな彼らよりも長く生きた頼芸・・・おそらく、本能寺の変のニュースは、彼も耳にしていたはず・・・
失明してしまうほどの苦労を重ね、やっと得た安住の故郷・美濃・・・
今は光を失ったその目で、戦国の世の国盗りを目の当たりにした頼芸に、この世の盛者必衰は、果たして、どのように映ったのでしょうか。
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コメント
土岐さん…親の代にも、長子存続の掟を犯して、家督で揉めたんですから、学習しなきゃダメでしょ。
投稿: マー君 | 2008年12月 4日 (木) 21時54分
マー君さん、こんにちは~
やっぱ、清和源氏って事で、頼芸さんは雅びなおかただったんでしょうかね。
投稿: 茶々 | 2008年12月 5日 (金) 09時49分
雅びな御方ってのは、浮き世離れした感覚の持ち主が多いですからね。後の戦国武将は家督争いを制して家督を継いだら、家臣を統制し領国経営に手腕を発揮し後継者育成に力を入れ、後代が家督争いせぬ方策を講じるなど、名君が多いのに比べ、室町期の守護大名は幾代にもわたり本家と分家で家督争いをして、領国内での権威や求心力を失墜して、守護代や有力国人などに権力の座を追われてるのを見ると、如何に学習能力の無いボンクラ大名が多かったかが分かりますね。こうなると単に雅びな御方って言葉は誉め言葉にはならない、むしろ領土の支配者としての能力を測る場合には悪口に近いニュアンスを持つ言葉になりそうですね。
投稿: | 2008年12月 5日 (金) 14時07分
コメントありがとうございます。
やはり、戦国後半に登場する戦国大名と、室町幕府から続く守護大名には、格差がある気がしますね。
投稿: 茶々 | 2008年12月 5日 (金) 18時37分
「雅なお方」っていうと、どうしても“おじゃる丸”が浮かんでしまうのは私だけでしょうか。平安貴族のイヤなところを上手にあらわしてると思うんですけど…
投稿: おきよ | 2008年12月 6日 (土) 14時40分
おきよさん、こんばんは~
“おじゃる丸”は、あのキャタクターを見た事がある程度ですが・・・
そうですか、そんな風刺的なものもこめられていたんですね。
投稿: 茶々 | 2008年12月 6日 (土) 22時07分