ココを見逃すな!歴史好きのための大阪城・観光
以前、どこかのブログだったか、掲示板だったか忘れましたが、自称・戦国好きとおっしゃる女性が、「このあいだ、大阪城に行ったけど、天守閣のお宝以外、当時の遺跡もなく、何も見るとこなかったわ」的な言葉が・・・
すると、返信コメントには、やはり歴史好きとおっしゃる男性から「あれはお城の形をした博物館ですよ。期待しちゃいけません」と・・・
確かに、人には興味のある事とない事がありますから、歴史に興味のない人にとっては、天守閣の最上階からの眺望くらいしか見るとこないのはわかります。
私だって、興味のない物を長々と見せられるのは苦痛です。
しかし、地元びいきを含む大阪城大好き少女(もはや少女ではないが・・・)として、歴史好きのかたから「見るとこない」と言われるのは、つらいものがあるなぁ・・・
これは、「見るとこない」のではなく、「見るとこを知らない」に違いない!
見るとこ見れば、絶対大阪城はすばらしいのだ~これは是非とも、地元民として大阪城の見どころを紹介せねば・・・って事で、今日は歴史好きのための大阪城観光をご紹介します。
・・・とは、言っても、私としては、以前も、このブログで書かせていただいた【多聞櫓と千貫櫓】(11月2日を見てね>>)や、【旧工廠化学分析場】(6月7日を見てね>>)などなど、ぼちぼちとご紹介はしているものの、けっこう多いので、今回は石垣に限ってご紹介させていただきます。
・・・・・・・・・・・
大阪城の石垣と言って、まず思い出すのは、あの巨石の数々・・・
九州や瀬戸内海の島々から船で運んだ石を、当時は、まだ、すぐそばにあった大阪湾から城内へ修羅(しゅら)と呼ばれる道具で運ばれました。
(修羅については11月18日【石舞台古墳のあるじは?】に、大阪・道明寺天満宮にある復元展示の写真を掲載しています・・・コチラからどうぞ>>)
巨石は、大手門と桜門と京橋門に集中していますので、その3つの門は是非訪れて下さい。
- 蛸石 ・・・桜門
- 肥後石・・・京橋門
- 振袖石・・・桜門
- 見付石・・・大手門
- 二番石・・・大手門
次に、やはり歴史好きに見ていただきたいのは、刻印石・・・
これは、誰がその石を寄進したかがわかるように、個々のしるしをつけた石なのですが、それはもう、大阪城の石垣のあちこちに、その刻印石は存在します・・・私の場合は、探して歩くだけでも、まる一日はOKです。
「まだ、刻印石を見た事がない」あるいは「どんなものかよくわからない」というかたは、まず最初に、大阪城・天守閣から坂を下りて北側に広がる山里丸と呼ばれる一帯(地図の番号1)に「刻印石公園」というのが設けられていて、どの刻印がどの大名のものなのか?というのが一覧表にもなっていますし、その代表的なものが並べられていますので、ここで、見てからのほうがわかりやすいです。
刻印石公園
ついでに、天守閣の前(地図番号4)には、「残念石」と呼ばれる、切り出されたけど石垣に使われなかった石も展示されているので、一応チェック。
加藤忠広・刻印石
また、すでに紹介した千貫櫓を西の丸庭園側から見れば、真正面に、先日のブログで徳川忠長さんとともに改易の憂き目に遭った(12月6日参照>>)あの加藤忠広さんの刻印が、誰がどう見ても確認できます(地図番号7)。
さらに、上の写真は内堀にある桜門の右側、空堀の北壁の写真ですが、実はこの中には、毛利氏の刻印石と、あの細川忠興の九曜星の刻印が入った石垣があります。
排水溝の左下、目立つ石が毛利の○にーの刻印・・・これは、肉眼でもはっきり見えます。
←クリックして大きくすると確認できます
その左に九曜星のマーク・・・こちらは、望遠鏡がないとツライかも・・・その日の調子が良い時には、肉眼ではっきり見えるそうです。
刻印石は、まだまだありますが、今日はこのへんで・・・
そして、最後に太平洋戦争の爪あと・・・
以前、【大阪城の不思議な話】(8月18日参照>>)で書かせていただいたように、この大阪城は、徳川の時代が終ってから太平洋戦争まで、東洋一の軍事施設でした。
現在でも、すでに紹介した科学分析場の他に、天守閣前にある以前博物館として利用されていた建物が、大阪砲兵工廠第四支部の建物で、これは、現在の大阪に残る最大の戦争史跡です。
ちなみに、本部は現在の大阪城ホールのあたりにあったそうです。
・・・なので、この大阪城・・・戦争中は、壊滅状態になるほどの攻撃を受けてします。
その機銃掃射の跡が確認できるのが、先ほどの山里丸から、天守閣のほうへ向かう上り坂の右側にある古い階段のところの石垣です(地図番号2)。
そして、実は、皆さんが登っておられる天守閣・・・その天守閣の石垣も、太平洋戦争の時の砲撃で、少しズレているんです。
そのズレが確認できる場所が、天守閣北側(地図番号3)・・・
ただし、北側から普通に見ただけではわかりません。
そこから、東側を覗き込むように見てくださいね。
これだけの砲撃を受けながらも、倒れなかった天守閣・・・それは、千年の長きに渡り、この石垣が潰れぬように、計算に計算を重ねて設計されているからなのです!
思わず、藤堂高虎・・・バンザ~イ!
小堀遠州・・・えぇ仕事しまっせ~
以上、本日は、石垣だけにこだわってみました。
ちなみに、現在の大阪城は、高虎が設計したこの徳川時代の石垣の下に、豊臣時代の石垣が眠っています。
HPの歴史散歩では、さらに別の刻印石や細川九曜星のズームアップ、豊臣の石垣の事も載せていますので、よろしければコチラからどうぞ>>>。
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コメント
こんばんは。地元のお城に残念なコメント、悲しいですよね。
私の地元名古屋城も戦後の復元で鉄筋コンクリートになってしまい、魅力がない、とつい最近まで思っていました。その点、かつての築城法で再建されている掛川城を見たときは魅力的に思えました。
しかし、この何年かでよそのお城を訪ねることが多くなり、石垣の面白さにほんの少し興味が出てきました。
名古屋城もかなり規模の大きな城なので石垣は立派だし、普段非公開だけど隅櫓も残っています。刻印石、ありますよ。お団子みたいなのとか、面白いです。
大阪の方が太閤さんのお城が見たかった、と思われるように、名古屋の人は、空襲で焼けなかったら、と思っています。
今度再建される本丸御殿が、誰が見ても在りし日をちゃんと忍ばせてくれるものになるよう願っています。
投稿: おきよ | 2008年12月11日 (木) 20時47分
おきよさん、こんばんは~
おぉ・・・名古屋城・・・
加藤清正バンザイ!ですね~りっぱなお城ですよ。
現在の金のシャチホコにも、きっと名古屋市民の心意気がこもってるんでようね。
大阪城も名古屋城も、わたし的には、たとえ建物が全部無かったとしても、石垣だけで充分見るところある気がします。
ブログに載せた刻印石の写真を撮っていると、横に来たおばあちゃんが、「昔はもっと、くっきり見えた」なんておっしゃってました。
やっぱり、年月とともに、徐々にうすくなってるようです・・・心配。
投稿: 茶々 | 2008年12月11日 (木) 23時10分
やっぱ誰しも、自分の住む県のお城に思い入れがあるみたいですね。僕は兵庫が誇る世界遺産…姫路城を推します。姫路城は天下人が築城した大阪城や、天下人たる家康の威光を持って諸大名に普請を負わせた名古屋城のような刻印石なんてモノは有りませんが、築城にあたって石垣の石を近隣の庶民に供出させところ、適当な石を見つけられなかった人が我が家で使っていた石臼を供出し、それが石垣に使われてるトコが有るって話です。どこのお城も石垣一つ取ってみても色々な秘話が有って実に面白く奥深いです。
投稿: マー君 | 2008年12月12日 (金) 02時11分
マー君さん、こんにちは~
姫路城は別物でしょう・・・
再建じゃなくて現存なんですから、もう、それだけで見るとこいっぱい!
そこに、石垣もプラスしたら、一日じゃ足りませんよね・・・きっと
投稿: 茶々 | 2008年12月12日 (金) 09時29分
大阪城で気になってるのは真田幸村が出丸として構築した真田丸の遺構って現在も存在するのかって事と、存在するならそれは見ることが可能か、またそれはどの辺になるのか…ってトコですかね。
投稿: マー君 | 2008年12月12日 (金) 19時47分
マー君さん、こんばんは~
大阪環状線の玉造駅近くの「真田山公園」に土塁の跡が残っていて、そこが真田丸の跡と言われています。
「真田丸がどこにあった?」>>を参照いただければありがたいです。
近所に友達の家があったので、昔よく遊んだ思い出の公園です。
投稿: 茶々 | 2008年12月12日 (金) 22時01分
地元の宇都宮城の復元はもはや土塁のみですが、見るところは無いか必死で探して鉄砲を撃つ扉てきな所を必死に見てました。
かつて戦国の男たちが必死に戦っていたというのを思い浮かべながら…
お城を見るのは一日じゃ足りませんね!
投稿: Ikuya | 2011年10月31日 (月) 22時18分
Ikuyaさん、こんばんは~
ハイ!
私も…
お城とお寺には一日中いられますデスψ(`∇´)ψ
投稿: 茶々 | 2011年11月 1日 (火) 02時35分